虫ケラ令嬢世直し旅・マゴット07 胡蝶の姫君2
◇◇◇
カブトムシの幼虫は、初夏に近づくと土の中に部屋を造り、動かなくなって茶色くなる。
蛹は段々と形を変え、最終的には蛹のまま角の形もはっきりとしたカブトムシの形になる。
それが、ガラスの瓶ごしに良く見えた。
領地の他の子どもでも、カブトムシの幼虫を飼っている子はいる。けれど、それは大抵自分の家の畑の堆肥置き場の端とかで、ネムのように瓶の中で飼っている子はいなかった。
カブトムシが、白い幼虫から黒い成虫になることは皆が知っていても、途中の蛹がこんなに姿を変えることは誰も知らなかった。
領地の子ども達みんなが、ネムのカブトムシを見にやって来た。
『こうなってたんだ』『すげぇ』『知らなかった』『初めて見た』
四歳だったネムは嬉しくて、得意になって大瓶に入ったカブトムシを見せびらかした。
五つの大瓶の内、一つのカブトムシの部屋は少し窮屈そうだった。蛹の角が曲がっているように見えた。けれど、やたらに蛹を触ってはいけないし、部屋を崩してもいけない。ネムは見守るしかなかった。
やがて、黒い土を押しのけて、脱皮した成虫が次々に出てきた。最後に出てきた雄は、角が曲がっていた。蛹の中で曲がっていた角は、成虫になっても曲がったまま。曲がった角では、きっと戦いにも勝てないし餌にありつくのも大変だろう。
もっと広い場所で育てば、おそらく曲がらなかった角。それでも、今まで見ることの出来なかった土の中の不思議な世界に、ネムはワクワクドキドキした。
来年も、この瓶でカブトムシの幼虫を飼う。それはもう決定した未来だった。
◇◇◇
「虫好きの君を差し置き、『胡蝶の君』と呼ばれるアナーシャ嬢がそれほどに気に入らなかったのか。蝶の卵を望む可憐な令嬢に、君は何と言った?」
胡蝶の君。ネムは初耳だった。
アナ嬢の蝶好きはある程度有名なことだったようだ。そういえば、ピアスや髪留めなどの装飾品も蝶がモチーフになっている。ということは、アナ嬢に影響されて、既に虫好きの一人や二人増えているかもしれない。
なんて有能なんだアナアナ嬢。
婚約破棄を言い出したカトムには驚いたし悲しかったが、どうやらネムが意図せず傷つけてしまったらしいアナ嬢に、ネムは含むところは何もない。むしろ、どうして傷つけたのかも分かっていない自分の無神経さを申し訳なく思っていた。
アナ嬢を気に入らないなんてとんでもない。それどころか謝って許されるなら友だちになりたい。そして熱く虫トークを交わしたい。
ネムは虫なら何でもバッチコイの博愛主義、蝶も好きだがオケラも好きである。もちろんマゴットだって寄生虫だって差別しない。オケラだってマゴットだって、蝶に負けないくらいの魅力がたくさんつまっている。オケラは、手に乗せたときの指をかき分ける驚くほどに力強い感触が、なんともいえない。昔から好きな虫だ。大爺たちを手伝っている際に土の中から発見すると、思わずシャベルを投げ捨てて飛びつき、確保する。ニマニマとしながら楽しみ続け、ディータに「いい加減に放してあげなさい」と怒られるほどだ。というわけで、『虫ケラ令嬢』より『胡蝶の君』と呼ばれたいとは微塵も思っていない。オケラ先輩万歳。
蝶に負けないオケラの素晴らしさを立て板に水とばかりに語り尽くしたくなったネムだったが、さすがに今はそんな場合じゃなかろうと思うくらいの分別はあった。
オケラに関しては、後でディータにでも語り尽くそう。
視界の端でチラッとディータを確認したが、いつの間にか友人に抑えられていたはずのディータの姿は消えていた。
「蝶が卵を産むには、ミネラルが必要だから、補給してやる必要があるって……説明、しました」
つい、いつものようにカトムに話しかけてしまい、慌てて語尾を言いつくろった。
公爵家のカトムに、伯爵家のネムが公式の場で普通に話しかけるのはマナー違反。社交に疎いネムは、そこら辺をうっかりすることが多く、いつもカトムの母上、バベシア様に注意されていた。
いつも通りのネムの怪しい敬語はスルーして、額に青筋を立ててカトムは言いつのる。
「問題は、その方法だ!
庭園に動物の糞尿を撒け? アナーシャ嬢の肌に蝶がとまるのは、糞尿の代わりに汗を舐めている? 母上から贈られるモルフォ蝶に至っては、毒蝶呼ばわり、餌に腐った果物と動物の死骸を与えろだと!?
侮辱、嫌がらせ以外の何だと言うんだ!」
はて? とネムは首を傾げる。
それのどこが嫌がらせだと言うのだろう。
草食昆虫、特に蝶の雄が精を作るためにミネラルが必要なのは紛れもない事実で、田舎だと蝶が集団で家畜の糞尿にたかっているのはあるあるな光景だ。糞尿ほどの効能はないものの、泥のぬかるみにとまっているのもそれなりに見る。蝶が人間の額にとまることがあるのは、人の汗からミネラルを摂取しているためだ。アナ嬢の顔でなく手や肩口にとまるのは、顔の化粧品を避けてのことだろう。
アナプラズマ家の庭園はよく整備されていて、ぬかるみなどなさそうだし、花の堆肥がてら、家畜の糞尿を撒いてもらうのが一番の早道だと判断した。
肉食獣の糞尿のほうが効果的だけれど、肉食獣の糞尿のほうが臭うし、商売柄、堆肥に慣れまくっているローゼワルテ以外の貴族のおうちだと嫌がられるかなー、と、ネムだって読めない空気を読んだ結果なのだ。
モルフォ蝶に関しても嘘偽りはない。
モルフォ蝶は確かに美しい蝶だが、毒がある。さらに、花の蜜よりも、腐った果物や動物の死骸、キノコを好むという変わった生態をもつ。
アナ嬢の要望は、モルフォ蝶を賛美してくれというものではなく、モルフォ蝶を正しく飼うための知識を得たい、というものだった。
ネムははばかりながらも虫の研究者として、真実のみを告げたつもりだ。
何故怒られるのか、理解出来ない。
第一、虫好きなアナ嬢がそれくらいで傷つくはずはないだろう。
「その上、蝶のリアルな解剖図を見せる必要がどこにある!?
お前は、子ウサギが可愛いとはしゃぐ子どもに、目の前でその子ウサギを解体し内臓の仕組みを学ばせるような真似をしたんだぞ!」
なるほど。と、今回ばかりはネムも少し理解出来た。
確かに、ご令嬢には刺激が強すぎたかもしれない。テンションが上がった勢いで思わず見せてしまったが、『キモチワルイ』と評されることの多い虫だ。中身に興味のある人はそりゃ少ないだろう。
カブトムシや蝶を好きになったばかりの子どもたちにだって、解剖標本は少し刺激が強すぎるかもしれない。虫に関してより詳しく知ってもらおうと、『凄いぞ昆虫展』には虫型魔獣の解剖標本を展示しようと企画していたが、少し練り直したほうがいいのかも。
せっかく虫好きになりかけた子ども達に、泣いて逃げられでもしたら無念すぎる。ベア医師の夢も遠のくだろう。
ネムはカトムの有り難い助言をこっそりと心のメモ帳に書き留めた。
「アナーシャ嬢は、蝶がお好きなのであって、お前のように芋虫やさなぎがお好きなのではない。関係のないグロテスクな気色悪い虫を散々見せられて、見ろ、この顔色を」
これには、ネムも黙っていられなかった。
「関係ない? あれはアゲハの幼虫です! アゲハ蝶の幼虫は、鳥の糞に擬態していたり、強烈な臭いを発したり、毒をもっていたり、とても優秀な生存戦略を展開している素晴らしい虫なんです。その全ては、最大の天敵である鳥に食べられないための工夫。蝶の他の羽虫とは一線を画すヒラヒラとした飛び方もまた鳥を避けるのに最適という見解もあります。それが真実アゲハが意図した結果なのか、偶然と自然淘汰の産物なのか? アゲハを始めとする全ての虫たちが、自分の身を守り、子孫を残すために実に個性的な武器を備えているんです。そもそも、幼虫の頃は固形物を囓り取るための歯を備えているのに、大人になるとそれを棄て、花の蜜という液体しか摂取できない口吻へと変化するのは何故なのか。幼体と成体で完全に食物を分けるのは何故なのか。生存戦略の一環ならば、棲み分けることによって種の維持を容易にする目的なのか? それとも幼虫の食料か成虫の食料のどちらか一方でもなくなれば種は維持できないので、余計なリスクを負ったと考えるべきか。蝶だけでなく、もっと広い視野に立って考えますと、何より不可思議で神秘的なのは、蝶を始めとする多くの昆虫で見られる完全変態。全く姿形の違う子どもから大人への変化。過程の蛹を割ってみても中にはドロドロとしたスープしか入っておらず、なぜ幼虫が一度液体になりその後固形の蝶の形になるのか――」
「ええい、黙れ!」
虫のことになると饒舌なネムの蕩々と続ける語りを、カトムがバッサリと断ち切った。長年の付き合いで、そのまま放っておくとネムが際限なくしゃべり続けると分かっているのだろう。
「言うに事欠いて、変態だと!?
もう我慢出来ん。いいか、アムネシア。俺はこれまで、随分と耐えてきた。
野ねずみの獣人だからと自分を卑下することはないとは言った。だがしかし、貴族女性としての努力を放棄して良いと言った覚えはない。人は努力によって評価されるべきだ。
料理も裁縫も取り組む気配すらなく、悪筆も直さず、貴婦人らしい振る舞いも出来ず、社交に顔も出さず、会いに行けば髪はボサボサ、日に焼け、徹夜に荒れた肌、ドレスより動きやすさ重視の白衣、顔もろくに見えない瓶底眼鏡。贈った化粧品を使った様子すらない。
口を開けば、虫、虫、虫!
俺の誕生日に贈ってよこしたプレゼントは何だった? 今年はスカラベのカフスとカマキリ柄のタイ、去年は玉虫の小物入れ、一昨年は蜂の巣の壁!?」
スカラベ(糞転がし)は縁起物だし、玉虫は装飾に使われてきた長い歴史のある結構な高級品だし、蜂の巣の壁ことプロポリスは当時ネムが研究していた希少な物質で、胃炎や肺炎に効果がある。普段お世話になっているカトムに食べてもらおうと思ったが、匂いが駄目だと断られた。
毎年、かなり気合いを入れて用意していたのだが、ネムの熱意は完璧に裏目に出ていたようだ。虫の話だって、最初の頃は楽しそうに聞いてくれていたのに。
「俺は、パスタを食べているときに寄生虫の話なんか聞きたくないし、虫型の菓子なんか食べながら茶を飲みたくないし、虫の卵なんか愛でながら酒を飲みたくはないっ!
将来産まれる二人の子を、寄生虫の実験体にしそうな君と、先について考えられない。
何より!
油虫を鷲づかみにしたのだけはっ、耐えられないんだっ!」
「えっ、でもアレ、結構美味しい……」
言いかけて、ネムは失言を悟った。
カトムの顔から、スーーーっっと血の気が引いていく。フラッ、と倒れたカトムを、支えられていたはずのアナ嬢が慌ててがっしりと抱き留めた。
これでは、どちらが騎士でどちらが令嬢なのか分からない。真っ白くなったカトムの指先が、藁にすがるようにアナ嬢のふわりとしたリボンを掴み……パタリと落ちた。ダイイングメッセージのつもりか、地面に『ゴキ…ネム…』と弱々しく書いている。
あー……。
砂ギツネのような目をして、ネムは達観する。
やらかした。
ゴッキーは物凄く抗菌作用が強いから、意外とバッチくないし、食べると人のお腹の中で持っていた卵が孵化するとかは単なる都市伝説。空気のない体内で生きられるはずがない。国が違えば普通に食用とされている。と、ここで語ったところで、色々と『終わっちまった』今となっては後の祭り。火に油。頭の中でディータが、『無理よ無理っ、無理寄りの無理っ!』と腕をバッテンにして叫んでいる。
確かに、今回のアナ嬢の件がきっかけではあったのだろう。
しかし、そもそもの原因は、今までの自分のやらかしにあったのだと、ネムは心の底から納得出来た。
――ゴキブリ、駄目な人はトコトン駄目だもんねぇ。
周囲の貴族たちも、さっきとは全く異なる気の毒そうな視線をカトムに送っている。公共の場での婚約破棄騒動、というものに懐疑的だった様子の穏健な貴族までもが、息も絶え絶えなカトムに何とも言えない視線を送っている。
ここでの加害者は、まさしくネムだった。
シーンと静まり返った会場に、カトムの弱々しい言葉が嫌に響いた。
「すまない……本当にすまないが、生理的に無理だ」