虫ケラ令嬢世直し旅・マゴット 03 虫と婚約破棄1
あるとき、ネムはニシカと一緒に蝶の羽化を見た。
蛹の中で縮こまっていた翅が伸び、白っぽかった翅が、時間が経つにつれて黄色や黒に変わっていって、それがアゲハ蝶なのだと分かった。息を詰めて見守る内に、ゆっくりと羽ばたき、ヒラリと舞い上がったときには感無量だった。
思わず伸ばしかけたネムの手を、ニシカが止めた。羽化したばかりの蝶は脆いから触らない方がいい、と。
その日からネムは蝶の蛹を探した。
見つけた蛹を蛹の付いた葉っぱごともぎ取って、部屋に持ち帰って観察した。絵もたくさん描いて、羽化の瞬間を、今か今かと待ちわびた。
蛹の背中が割れて羽化しかけた蝶は、翅が伸びきらずに死んでしまった。飼育箱の底で、くしゃっとした翅のまま転がった蝶を見て、ネムは泣いた。ネムが連れてこなかったら、きっとちゃんと羽化出来ていたのに。今頃は、きっとヒラヒラと空を飛んでいたのに。
ニシカの腕の中でひときしり泣いた後、ネムは考えた。蛹の付いた葉っぱを底に置いておいたのが原因ではないか。それなら次は、蛹を飼育箱の上の方にくっつけておいたら良いんじゃないか、それとも枝ごと持ってくれば……
◇◇◇
ベア医師の治療院から戻った午後。
ネムは王城、王家主催の園遊会場にいた。
ネムこと、アムネシア・ティーユー・ローゼワルテは、建国当初まで遡れる由緒正しい血筋を持つれっきとした伯爵令嬢である。令嬢らしいか、らしくないかはこの際置いておくとして。
ぶっちゃけ、ネムは華やかな貴族の祝宴なんてものに興味はない。どうせ馬鹿にされけなされるだけの場に、なんでわざわざ来なきゃいけないのか。
着飾ってそんなものに出席する時間があるなら、シャムナにくっついて、彼の祖国にいるという寄生バエの話をより詳しく聞いたり、ベア医師とマゴットの成長速度や抗菌性についてしゃべったりしているほうが余程有意義である。
けれど、今回の園遊会の参加は、義兄・ディータからの厳命なのだ。
何故なら、ローゼワルテ伯爵家は、代々王家の『お庭番』だから。『お馬番』『お鷹番』『鳥見役』など、王族に直接関わり、特殊な技術が必要な役職に関しては、特定の貴族家で世襲されている。『お庭番』に関しては二家あり、その内の一つがローゼワルテ家で、今回の園遊会の目玉となる『千種咲きの薔薇園』を担当しているのはローゼワルテ伯爵家だ。大ベテランの大爺からネムと同世代の見習い庭師まで、皆一丸となってこの日のために頑張った。特に、ここ数年薔薇園の木が少しずつ元気がなくなっているようだと大爺が言っていたので、伯爵家全員でああでもないこうでもないと意見を持ち寄り、気を揉んでいたのだ。ローゼワルテ伯爵領から、元気の良い薔薇を運んで移植したりもした。その甲斐あって今年も見事に薔薇は咲き誇り、今日はその集大成。
ローゼワルテ伯爵家の直系たるネムがズル休みするなんてとんでもない。
ディータに恥をかかせることになる。
忙しい執務の合間を縫って、研究の助手をしてくれたり、データの整理をしてくれたり、本人も時々読めなくなる悪筆なネムのメモを解読してくれたり、フィールドワークの手配や根回しをしてくれたりするディータに、ネムは本当に感謝している。まだ研究が一段落していないのにネムをベッドに無理矢理押し込むのも、希少な昆虫を観察している最中だというのにネムの口にパンを無理矢理詰め込むのも、三日寝ていなかったり三食たべていなかったりするネムを心配してくれているからだと理解しているから、しょうがなく受け入れているのだ。
義兄のディータ・オーリー・ローゼワルテは、早くに断れない婚約者が決まり、家を出ることになった一人娘のネムの代わりに、伯爵家の後継としてローゼワルテ家に養子に入ってくれた八つ年上のネムの従兄弟である。ただいま二十四歳。
ここ、ネム達の住むデイリー大陸には、『昔、神が人と獣をごちゃまぜにした』と伝わる通り、獣の要素を持った人間しかいない。
ネムはカヤネズミの獣人で、ディータは十字ギツネの獣人だ。ネムはオレンジがかった明るい茶髪に黒い目、ネズミにしてはちんまりした耳に体と同じくらい長い毛のないしっぽ。ディータは赤茶と黒の複雑に混ざった髪に金色の目、三角の大きな耳にフッサフサの大きなしっぽをしている。
「いいわね!? 今回は絶対参加しなきゃダメよ。大爺を筆頭に、みんなすっごく頑張ってくれたんだから。それに、カトムがたまにはネムに会いたいって言ってたわよ。最近、研究にかこつけてほどんどまともに会ってなかったでしょ? 婚約者なんですもの、愛を深めなさいっ、愛を。え、アタシ? アタシはいいのよ、アンタが結婚してからじーっくり相手を探すから。いい? お腹が痛いとか眠いとか、バッタが脱皮しそうとかの理由じゃゼーッタイ休ませないわよっ」
治療院からの帰り道、くどいくらいにディータに念を押されたので、ネムは昼寝日和の暖かい午後、嫌々ながらも園遊会に参加していた。もちろん、王城までの馬車でもディータにガッチリと捕まえられていたので、逃げるという選択肢がなかったせいでもある。カヤネズミは夜行性、昼間はどうしたって眠くなる。家の皆が丹精した薔薇は見たいが、逆に言えばそれだけだ。花だけ見たら速攻帰りたい。いやむしろ、薔薇をチェックするなら人が少ない他の日のほうがじっくり見られるのに――と本末転倒な思考がグルグルする。
ネムは王城自体、さほど興味がない。
趣向を凝らした飾り彫りや彫金、歴史的な画家の絵、名だたる名匠の陶器や彫刻で飾られた王城は、見る人が見れば宝の山であり、憧れそのものでもあるのだろうけれど、ネムにとってそれは見慣れた『モノ』の一つで、綺麗だなとは思うものの、ドキドキもしなければワクワクもしない。
何しろ、王城にはほとんど人以外の生き物がいない。馬がいるのは知っているけれど、ネムが行ける場所にはいない。
よーく探せば、虫の一匹二匹いないこともないから、桜の上のイラガの幼虫だとか、楓の枝のミノガの幼虫(蓑虫)だとかを見つける度にしっぽを絡め木に登って観察しようとするのだが、大抵の場合、ディータかカトムに怒られる。さらに帰ってから、ドレスに小枝が刺さっているとか言って幼なじみの侍女ズにも怒られる。
夜会だって、ネムは堅苦しいドレスを着て苦手なダンスを踊るより、窓の外で灯りに寄ってきた羽虫を観察しているほうが楽しい。けれど、たいていの場合はディータかカトムによって会場へと連れ戻されてしまうのだ。
「いい? アタシにも仕事があるから、ずっとついててあげるわけにはいかないのよ。虫を追いかけて木に登ったり、薔薇の中に突っ込んでったりしないのよ? 池に飛び込むのもダメだからね!?」
そうネムに釘を刺してから、ディータはネムから離れた。
今回の園遊会の庭を整えたのはローゼワルテだ。ディータには、王族の近くにさりげなく侍り、王族の誰かが花や木に関して尋ねたならばお答えするという役目がある。さらに、園遊会のどこかで、『お庭番』ローゼワルテ伯爵家へのねぎらいのお言葉を頂ける。伯爵家当主のネムの父が国外に出ていて不在の今、領主代理であり後継のディータにしか出来ない大切な仕事だ。ネムの側にくっついていてくれるわけにはいかない。
ディータは移動する間にも、友人達から次々と声をかけられている。
「いい仕事だ」「今年も見事だな」「王太后様もお喜びになるだろう」
ディータもまた笑顔を返し、挨拶と社交辞令を繰り返しながら、王族がお出ましになる入り口近くへと足を進める。
品の良い黒の燕尾服によそ行きの言葉遣い。義兄は、貴族女子の群れにも囲まれた。それを、役目があるからと柔らかな口調で断り、横断してゆく。
ネムとは違い、立ち姿も美しく当たりも柔らかく整った顔つきのディータは、言葉遣いさえバレなければ、貴族女子にもよくモテるのだ。
そう、ネムが側にいなければ。
残されたネムは口を尖らせる。
ディータだってもういい年だ。十六歳のネムより八つ年上のディータに婚約者がいないのは、ネムという手のかかる嫌われ者の小姑がいたからで、普通ならとっくに結婚していてもおかしくない。その厄介者の結婚が近い今、何の憂いもなくなった次期伯爵のディータはかなりの優良物件。令嬢が群がるのは仕方ない。と、頭では分かっている。
それでも何だか取り残されたような不安感があるのは、ネムの我が儘なのだろうか。普段とは異なるディータの口調や表情に違和感がつのる。
ネムには、ディータのように気兼ねなく話せる貴族の友人はいない。
何故なら、ネムは、『毛無し』で『嘘つき』で『卑しい』嫌われ者の『虫ケラ令嬢』だから――
「……」
ネムは、足下の小石をコツリと蹴った。
それにしても。
いったいディータはネムのことをなんだと思っているのか。いくらネムとは言え、池に飛び込んだりはしない。何しろ荒野で育ったネムは泳げないのだから。
(あれ、でも、泳げたら水中にいるタガメとかミズカマキリとかをもっと間近で観察できるかも……? 王城の庭は大爺はじめ庭師たちが目を光らせているからあまり虫はいないけど、水の中は違うかもしれないし。実際に飛び込んでみたら、意外と泳げたりするんじゃあ……?)
「ああ、ネム! ここにいたのか」
顎に手を当て、じぃっと池を見つめだしたネムに、背後から聞き慣れた声がかけられた。
今はまぁ試さなくていいか、と思考を振り切って顔を上げたネムの目に、思った通りの見慣れた顔が飛び込んできた。
「あぁ、カトム。そういえば話があるってディータが言ってた?」
短い金髪に濃茶の目、たくましい体躯の牛の獣人。その青年は、ネムの十歳の頃からの婚約者である、カトム・ヒル・シルバーコーンだった。その後ろには、同じような色彩の同じく牛の令嬢が控え、しとやかに微笑むと会釈した。
ネムには見覚えのない令嬢だった。
「ネムに、こちらのアナーシャ嬢を紹介したくてな。こちらは、アナプラズマ子爵家のアナーシャ嬢だ。アナーシャ嬢、あちらは俺の婚約者で、ローゼワルテ伯爵家のアムネシアだ」
アナーシャ・アナプラズマ。ということはアナアナ嬢? ネムは心の中でアナーシャ嬢の呼び名を勝手に決めると、「アムネシアです」と名乗った。それに対してアナーシャ嬢は仄かに頬を染め、柔らかく微笑んだ。
「初めましてアムネシア様。実はわたくし、アムネシア様に相談に乗って頂きたいことがございますの」
虫雑学・蛹はとても繊細なので、触らないの推奨。飼育ケースでカブトムシの幼虫の変化を観察するときも、幼虫が土の中に蛹用の部屋を作り出したらもう掘り返したり触ったりしちゃダメ。静かに見守りましょう。