【Day.1】新たな物語の幕開け
──今とは違う自分になれたら。そんな想像を、誰しも一度はしたことだろう。
物語の中の王子様、見目麗しきお姫様、勇敢なる騎士、心清らかな町娘……。幼い頃のメイベルもまた、絵本の世界に憧れる平凡な少女のひとりだった。
「だからね、ここはゲームの中の世界なの。私は主人公で、あなたはその友達。そういう設定のゲームなんだよ、ここは」
──それがまさか、こんなことになろうとは。
レンジャー伯爵家の、日当たりのいい客間。ソファひとつとっても最上級の素材で作られた部屋の中、『前世の記憶を持っている』という少女の話を聞きながら、メイベルは額を押さえた。
「……どうせ成り代わるなら、『ローズ』になりたかったわ」
物語の中の登場人物になりたいと思った。ある日は船上で情熱的な恋に落ちるヒロインに、ある日はマシンガンでゾンビを倒していくクールな女性に。或いは西部劇の世界で繰り広げられる逃避行や、パロディでいっぱいのホラーコメディ……好きな作品を挙げれば両手では数えきれないほど。
だというのに、まったく知らないゲームの中のキャラクターに成り代わってしまうとは。
肩を落とすメイベルに、語り手の少女──伯爵家の一人娘、キャンディ・レンジャーは首を傾げる。
「『ローズ』?何それ?」
「『タイ●ニック』のローズよ。主人公の……。……あの、もしかして観たことない?」
「まぁタイトルくらいは知ってるけど……。あれでしょ?船が沈むやつだよね?」
「合ってるわ、合ってるけど……」
なんと味気ない説明だろう。これがジェネレーションギャップというものか。
衝撃を受けたメイベルは二の句が継げない。だってそんな、まさか。1997年に生まれ、長く愛されるようになった名作を、その年のアカデミー賞では50年の『イ●の総て』と同じ史上最多の14部門にノミネートされ、59年の『ベ●・ハー』に並ぶ11の賞を獲得した超大作を、まだ観たことのない人がこの世にいるだなんて!
私が子供の頃は誰の家にも『タ●タニック』のビデオがあるくらいだったのに……。そう思ったものの、それ以上のことは言えなかった。だってもし『ビデオって何?』と問われてしまったら?……今の肉体でさえ一気に老け込んでしまいそうだ。
だからあまり考えないようにしよう。そう思い直し、メイベルは咳払いをした。
「それはいいとして……。ええっと、ごめんなさい、私、そういうのに詳しくないのだけど……。ゲームということはその、私たちも戦ったりするってこと?」
「いや、ゲームにも色々ジャンルがあってさ……。なんて説明したらいいのかな、……とりあえず、アクションゲームではないから安心して。基本はノベルゲーム……文章を読んでいくゲームだから」
「文章……小説みたいなものってこと?ならストーリーがあるのよね?」
「それはまぁ……、あるようなないような」
なんだか微妙な回答だ。訝しむと、キャンディは苦笑する。
「元がソシャゲだからね」ガチャガチャを引いて、出てきたキャラクターカードに短いお話が付属している。そういった類いのものであるから、とキャンディは語る。だから大元となるストーリーがあるわけではないのだ、と。
「精々が主人公との出会いと、告白と、あと季節ごとのイベントとか……その程度しか作られてなかったから、これからどんなことが起こるかなんて、私にもさっぱり」
少女はスコーンにクリームをたっぷり乗せてから、肩を竦めた。
「お陰で想定外のことばっかりだよ。攻略対象のひとりが──リチャード様が『主人公の友達』に惚れるなんて、ね」
「なっ……!」
向けられたのは意味深な目。その眼差しに、『主人公の友達』役であるメイベルは口に含んだ紅茶を噴き出しかける。
……危ない、危ない。冷や汗をかくメイベルをよそに、キャンディは「あーあ」と大仰なため息をひとつ。
「なのに断っちゃうなんて、ホントもったいないなぁ~……。リチャード様って生真面目すぎるところはあるけど一途だし優しいし、いいキャラだと思うんだけどなぁ」
「でっ、でもやっぱり『推し』と『恋人』は違うと思うの。何よりそんな曖昧な気持ちで応えては、リチャードさまに申し訳がたたないわ……」
「そお?私だったら一回ためしに付き合ってみてから、その後でどうするか考えるかなぁ。だって別れるのはいつだってできるじゃない?」
「お、大人ねぇ……」
「あんたが真面目すぎるんだって」
そうかしら?一個目のスコーンをぺろりと平らげてしまう少女を前にすると、どうにも自信が持てない。自分はごく普通の、一般的な価値観を持った人間だと自負していたのだけど、もしかして違ったのだろうか。
年下の少女に諭されるなんて……、と複雑な心境のまま、メイベルは首を振った。
「まぁ、私のことはいいのよ。恋愛だとか結婚だとか、そういう話はもうこりごり。父も母もそのことしか口にしないんだから、もう耳タコよ」
「わかる。うちもそんなのばっかり。『お母様』は私を追い出したくて仕方ないって感じだし、『お父様』も結婚こそが一番の幸福だって信じてるんだもん。脳みそが化石時代なんだよね、バカバカしい。だからせいぜい歯向かってやろうかなって」
「まぁそうね、結婚だけが女の幸せじゃないものね」
なんて、言うのは簡単だけど現実はそんなに甘くない。両親が結婚を急かすのだって、何も娘が憎くてそうしているわけではないのだ。悪いのはこの世界。女ひとりでは生きていくのが難しい、そんな社会の仕組みにこそ問題がある。
……そうわかってはいても、なかなか納得できないのが現状なのだけど。
「あなたは何かやりたいことはないの?それこそ好きなこととか、以前はできなかったこととか」
「いや別に……。特に夢とかもなかったしなぁ……」
「……リチャードさまのことは?」
彼のことが好きだったのでは?そろり、言外に訊ねると、目を逸らされた。
「そりゃあまぁ、そうだけど」なんだか歯切れの悪い物言いだ。聞かない方がよかったのだろうか。
悩んでいると、キャンディは気まずげに言葉を続ける。──でもあれは恋じゃなかったのだ、と。
「誰だってよかったの。リチャード様以外の、他の誰でもよかった。この居心地の悪い家から連れ出してくれるなら、誰だって。……それだけだよ」
「……そう、」
そう、だったのか。
彼女がリチャードに執着した理由。メイベルは今の今までそれを恋心ゆえと判じていたのだが、どうやら見当違いだったらしい。やはり探偵には向いていないということか。
「でもいいんだ。誰かに頼るのはもうやめる。これからは自分の力で戦うって決めたよ。……それが、エミリへの償いになるかはわからないけど」
寂しげに、しかし強い眼差しで。笑うキャンディは、出会った頃とはまるで別人に見えた。健気に咲く一輪の花、その印象に変わりはないけれど、彼女なら荒野でも咲き続けることができるだろう。
そんな予感と共に、込み上げたのはいとおしさ。そのままに、メイベルは向かいに座るキャンディの手を取った。
「……そうね。だけど時々は他人を頼ることも大事よ。私はいつでも待ってるから」
「べっ、別にあんたの助けなんか……!」
言いかけたところで、扉をノックする音が響く。
「邪魔するぞ」
その声と共に入って来たのはこの屋敷の次期当主、ユリウス・レンジャーその人である。
社交界で見せるしかつめらしい表情は家の中でも通常営業。近寄りがたい雰囲気の持ち主であるが、そんな義兄を相手にしてもキャンディは一歩も引かない。眦をキッとつり上げる。
「邪魔ってわかってるなら入ってこないでよ!ていうか開ける前に一言声かけるのがフツーじゃない?ほんっとデリカシーないんだから!」
「あまり声を張り上げるな。みっともないぞ」
「張り上げさせてるのはアンタなんだけど!?マジむかつくし!!」
「『マジムカツクシ』とはなんだ。人と話す時はきちんと意味の通る言い回しをしろ。それこそ普通というものじゃないか?」
「……~~っ!メイベルはどう思う!?常識がないのはこの人の方だよね!?」
「え、」
しまった。まさかこちらに火の粉が降りかかるとは。
微笑ましい兄妹ゲンカだ、と傍観者を決め込んでいたバチが当たったようだ。まったく似ているところのない、ふた組の双眸に挟まれ、メイベルは口ごもる。さて、どう答えるのが正解か。
逡巡するうちに、ユリウスが口を開く。
「話は変わるが……レディ・メイベル、あなたにぜひ受け取ってほしいものがあるのだが」
「買収する気だ」と騒ぐ妹を無視して、ユリウスは己の従僕を室内に招き入れた。
その人の手に抱えられた荷物。木製の、小箱の形をした機械。それは──あぁ、見間違えるはずがない────!
「シネマトグラフ……?」
声が震える。驚きに、そしてそれを凌駕する喜びに。
シネマトグラフ──それは海を隔てた隣国で生まれた映画装置である。現代のカメラに似た形状のそれは、一台で撮影から映写までこなせる画期的な代物だ。誕生したばかりで今はまだ知名度もないが、メイベルが前世を生きた世界と同じ歴史を辿るとすれば、あと二年もすればこの機械は世界中に広まり、遠い異国が身近な存在となるだろう。
最後の娯楽的発明とも称される、シネマトグラフ。そんな偉大なる発明品を前にしてして、果たして感動せずにいられる人間がいるだろうか!
打ち震えるメイベルに、しかしユリウスは事も無げに告げる。
「これをあなたに。先日のお詫びと、お礼も兼ねて」
「そっ、そんな……!受け取れません、こんな貴重なもの……っ」
近く開催される写真学会で、シネマトグラフによる最初の映画が上映されるはず。その後はもう世界各地で引っ張りだこ。未来を知るメイベルからしたら、触れることすらおそれ多い。
とはいえ映画好きとして無論憧れはある。映像技術の発達していないこの時代、──自分の撮影したものが遠い未来にまで残る遺産となったら?その想像は容易に胸を震わした。
そんな欲望が漏れ出てしまったのか。
「それだけ感謝してるということだ。シネマトグラフもあなたに使ってもらった方が嬉しいだろう。それに俺が興味を持っているのは技術面だけで、撮影行為自体にはさほど魅力を感じていないしな」
重ねてユリウスは「ぜひに」と言い、キャンディもまた「貰っちゃいなよ」と背中を押した。
……いいのかしら?本当に?悩みながら受け取ったシネマトグラフは、ずしりとした重さを腕に伝えてきた。実際の重量以上の感覚を、メイベルの手に。
「た、大切に使わせていただきます……」
礼を言うだけでは足らず、頭を下げる。何度も、何度も。するとキャンディに「大袈裟すぎ」と笑われてしまう。
いや、メイベルの心情としては大袈裟でも大仰でもなく、ごく当たり前の反応なのだけど。
「ところで今週末は空いているか?友人の舞台が千秋楽を迎えるんだが、よければ……」
「ちょっと!妹の前で妹の友達を口説かないでよ!そもそもメイベルにはリチャード様っていう素敵な方がいるんだからね!」
「俺が誘ってるのは彼女で、お前じゃないんだが……。お前がどうしてもと言うならまぁ、座席の用意くらいはしてやるが」
「どうしてもなんて言ってないでしょ!?まぁ断られたって着いていきますけどね!メイベルには近づかせないんだから!!」
「あの、私はまだ何も……」
行くとも行かないとも言っていないのだけど。
しかしレンジャー兄妹にとって、メイベルの答えなど必要ないらしい。あれよあれよという間に週末の予定が埋められていく。
けれど断らなかったのは何もそれだけが理由じゃない。メイベルは自分の腕を掴みながら兄と舌戦を繰り広げるキャンディを盗み見る。
彼女とは色々あったけれど、でも同性の友人は貴重だ。このしがらみの多い世界では、なおのこと。だから彼女との約束はメイベルにとっても喜ばしいことで──シネマトグラフを抱き締めながら、幸福を噛み締めた。




