1.出会い
今日はクリスマス・イブ、無機質を纏う街も今日は無駄に暖かくわざとらしく華やいでいる。その中心、駅前の大きいツリーは重たそうにイルミネーションを身につけ、下のベンチで愛を語らう恋人たちを暖かく見守る。その様子を冷めた目で見る亜季も去年はその幸せな一員に違いなかった。その時傍らにいた一年と半年付き合った彼氏とは今年の三月に別れ、それからは恋人を作る気にもなれず過ごしている。今思えばひどい恋だった、そんなことを言って笑うことの出来る今は、失恋後の病みっぷりからすれば正常なのだろうが、恐らく今もトラウマに近い傷を弔うように生きている。恋人を作る気になれないのも、ただの買い物のつもりだったのにこのツリーまで半ば無意識的に来てしまったのもそのせいなのだろう。そんな事を冷静に分析して、すっかり暗くなった空に白いため息を沈めた。すると去年あのツリーの天辺の星にずっと彼と一緒にいられるように願ったそんな淡い記憶が、その水蒸気越しに安っぽい星と共に映った。亜季は込み上げてくる物をいつものように抑えて、家に帰る足を早めた。
帰り道は人通りも少なく、洒落た電燈が寒々とした景色に熱を落とす。一昨日に降り積もった雪は雪かきされ、道の脇や草木に残るだけになっていた。亜季は雪面を踏みしめたい衝動に駆られていつもは通らない寂れた公園を通ることにした。そこは子供が遊んでいる様子も見たことが無く面白そうな遊具も見当たらない。最近は亜季自身も通った記憶も無く、この街では珍しく彼との思い出の色が塗られていない場所だ。雪かきもされておらず、数人の足跡が残されているだけで、一度解けたせいで硬くなったものの、砂場などには新雪とさほど変わらない白い絨毯を広げている。亜季は彼とでは無く、一人で見つけたその場所に無垢な誇らしさのようなものを感じ、周りに人がいないことを確認してその絨毯に寝そべろうとした。しかし木々が覆うその向こうのベンチに、確かに人が座っているのが見えた。少し小高いところにあるこの公園からフェンス越しに街を見下ろしている。亜季は無邪気な心を抑え、一つ溜息を溢して、さっさと公園を後にすることにした。
しかし、公園を出て数分もしないうちに、亜季はあることに気がついた。ベンチに座っていた青年は氷点下にもなろうという屋外で決して厚いとは言えない長袖のシャツを一枚羽織るだけで座っていたのだ。そんな人がいることもある、そう言ってしまえば済んでしまいそうなちょっとした違和感であったが、彼女には何か引き返さなくてはならないような半ば強制するような力が足にかかるのを感じ、逆らうことも無くそれに従った。一人暮らしの家に帰って料理することの億劫さと興味本位、理由はそれで十分だった。亜季は公園に戻った。
彼はまだ座っている。やはり見た通り寒そうな格好をしている。近くにコートなどが置いてある気配も無い。亜季は決して社交性のあるほうではないが、この日はなぜだか躊躇いもせず、怖いと思うことも無く彼に話しかけることを決めた。速度を緩めずに彼に近づく。段々と近づく彼の横顔は思ったよりも若く、そして無表情の中にも哀しさを溜め込んだような顔つきをしていた。亜季は彼の元に辿り着き、笑顔で話しかけた。
「風邪、引きますよ。」
亜季は彼の雰囲気からして場違いであろうセリフを、寒さのせいで無駄に大きくなった声で放った。彼はそこまで亜季の存在にも気付かなかったようで、やけに驚いた様子で数秒止まった。
「あ、ありがとうございます。景色があまりに綺麗で。そうですよね、こんな格好でぼーっとしてたら死んでしまいます。」
彼はぎこちない笑顔を浮かべ、言葉を返した。亜季は何かその笑顔にも哀しみが滲んでいるような気がした。また、哀愁とも違う何か影を持った彼の雰囲気や、その空気と一体になった彼の端正な表情に一瞬惹かれるのを感じた。とはいっても、彼は見知らぬ人だし、俯いてからまた目線を街並みに戻してしまったので、彼女は
「気をつけてくださいね、もっと冷え込みますよ。」
ちょっとだけぶっきらぼうにそう言って立ち去ろうとした。そうすると
「あ、ちょっと、待ってもらえませんか。」
と彼が引き止める声が聞こえた。
「あ、あの、ほら、あなたに声をかけてもらってなかったら、このまま寝ちゃってたかもしれないですし、そうしたらほら、僕はほんとに死んじゃってたかもしれないわけで、そうすると命の恩人になるので、何か、あの、お礼をさせてもらえないでしょうか?」
ナンパ?と一瞬彼女は眉を顰めたが、ちゃらそうな顔つきでもないし、口調だって半ば挙動不審なほどに緊張している様子だった。何かその様子も好感は持て、よほど思い切って言葉を発したようなので、無下には出来ないな、と亜季は少し丁重に断る言葉を探した。しかし、その言葉もなかなか思いつかず、彼はというと例の悲しげな顔で爽やかに笑っている。亜季は選択肢の無さに苦笑した。
「お礼と、言うと?」
「うーん、あ、近くに好きなケーキ屋があるんです。今日はちょうどクリスマスイブですし、奢らせてもらえないですか?」
相変わらず爽やかな笑顔で彼は言葉を返した。その憎めない笑顔の武器に亜季は断るのを諦めることにした。無論彼女も見知らぬ男に誘われてホイホイついていく女ではないが、その時亜季は、不快に思ったり怖いと思うことは無かった。
「・・・わかりました。ケーキ、好きですし。」
彼は少し嬉しそうな顔をした。亜季はそこまで彼の表情に滲んでいた哀しげな雰囲気が一瞬解けた気がした。二人は公園を後にした。
ケーキ屋に向かう道中、話は以外と弾んだ。テレビのバラエティやドラマの話題、よく聞くアーティストの話題、盛り上がるというほどではなかったが話は途切れずに進んだ。亜季が長めに話すたびに「うん、あの主人公いい人ですよね」とか「へえ、こんどアルバム借りてみようかな」とか自然に聞き手に回って目を見て話を聞いてくれる。その誠実な態度、話しやすさ、爽やかな雰囲気、彼の何をとっても彼女を惹きつける要素が揃っていた。
「ほら、ここ。ここです。」
10分弱歩くと彼が不意に前方を指差した。彼の指の先はどう見ても閑静な住宅街でしかない方向である。そこには確かにひっそりとケーキ屋らしきものが建っている。それが目的地だと確信した彼女は少しがっかりした。デート慣れした雰囲気の彼ではないが、一応女の人をクリスマスに連れて行くのなら、それなりにメルヘンチックだったり、格式高そうな煌びやかな佇まい店に連れて行くだろうと予想していたのだ。無論そういった店を切望しているわけではないが、隣の一軒家のクリスマスイルミネーションに掻き消されそうなその店は、テンションを上げてくれない空気を漂わせていた。ただここまで来て文句を言うわけにも行かず、そのまま彼についてその店に入った。入るなり、少しダンディなおじさんといった感じの店主らしき人が彼を見て少し驚いたような笑顔を浮かべた。彼はそれに答えるように微笑み、言葉を交わす。結構な知り合いなのだろう、親戚か、友達のお父さんといったところだろう。その間亜季は軽く店を見渡す。中は落ち着いたシックな家具で統一され、ガラスケースにケーキが並ぶ。そのケーキは外装から想像できないほどに「プロ」っぽいアートのような雰囲気だった。しかし、客はこのかきいれ時に一組しかいなく、そもそもテーブルが三つしかない。落ち着いた雰囲気を大事にしたいんだな、と彼女はポジティブに捉えることにした。そこで「おや、彼女かい?」「いやいや、違いますよ。」といったよくある問答で自分の事に話が向いたことに気付いた彼女は無難に会話に参加することにした。
「素敵な雰囲気のお店ですね。」
大して偽善っぽさは隠さなかった。
「はは、どうも。」
低い声は照れたように笑った。
「じゃあ、あの席へどうぞ。」
店主のおじさんは亜季たちを一番奥の席に座らせて、厨房へと戻っていった。テーブルには洒落たキャンドルが置いてあり、まわりには骨董品や、古い時計がおいてある。おじさんのこだわりが所々垣間見られて、少しずつ、亜季はその世界観に酔い始めていることに気付いた。彼はそんな彼女を見て満足そうに笑っている。
「こんなところあったんだ。結構近所なのに全然知らなかった。」
「ですよね?外から見たら一瞬民家かと思いますもんね。」
「ですよね。でも中は素敵なケーキ屋って感じですね。あ、そういえば聞いてなかった。名前聞いてもいいですか?私は亜季。金沢亜季といいます。」
「あ、僕は刹那っていいます。久留米刹那。なんか女の子みたいな名前でしょ。今は気に入ってますが、昔は学校とかでよくいじられましたね。ただでさえ華奢な体つきなのにって。」
「刹那さんか。今は学生?」
「あ、ええと、あの、一応学生です。大学一年生です。」
「え、そうなんだ、もしかして高沢大学ですか?私もあそこの三年生になるけど。」
「あ、いや、ええと、都会の方の大学です。住んでる家がそっちのほうで。」
「都会のほう、うーん、石山大学?」
「ええ、うん、はい、それです。」
「へぇ、頭いいんだ。」
「いやいや。あ、ケーキどれにします?」
不意に刹那はメニューを取り出した。
「ええと、これかな。」
「う、決めるの早いですね。僕は、ええと、えーっと、うーん、クリスマスだから、これがよさそうだけど、これも、うーん。これは食べたことあるし。」
「刹那君、優柔不断なんだ。」
「いや、そんなことは。はい、これです、これ。」
刹那はどう見ても無理に決めて店主のおじさんを呼んだ。
「けんさーん、オーダーです。ガトーショコラ・デ・エトワールとブッシュ・ド・ノエル」
「あいよー」
寿司屋のような店主の声がお洒落な店にミスマッチに響く。そして一分経つか経たないかで、二つの皿を店主が運んできた。一応丁寧にそれぞれのケーキの説明をしようとする店主を遮って、なぜか刹那が自信気に召し上がれと、微笑んだ。ケーキは綺麗に取り分けられ、亜季の頼んだブッシュ・ド・ノエルは亜季の想像したデパートなどで見慣れたものとはかなり違っていた。また、彼の頼んだガトーショコラ・デ・エトワールなるものは、丸いチョコのケーキに星の飾りが散りばめられていた。亜季は少し眺めてから彼の促すように一口、二口とケーキを食べた。味は、お洒落な内装を見て改善した彼女の創造をも遥かに超えて美味しかった。産まれてから食べたケーキの中で一番美味しい、そういっても過言ではなかった。
「すごい。こんな美味しいケーキ初めて。ほんと初めて食べた。」
亜季は全部食べるか食べないかくらいで、純粋な目でそう言った。
「良かった。気に入ってくれて。」
刹那はもう食べ終わり、ナプキンで口の周りを拭きながらそういった。亜季も最後の一口を夢中で食べ終えた。
「じゃあ、そろそろ遅いしこれくらいにしようか。」
刹那は時計を見ながら不意に言った。亜季はもう少し彼のことでも聞きながらゆっくりしたい気持ちもあったが、それに軽く頷いた。会計は遠慮する暇も無く彼が済ませた。店を出る間際、店主に大袈裟なほどの賛辞を送ると、嬉しそうに照れ笑いながら、「また来てよ」と優しく見送った。
外はもう夜も遅く、かなり厚手のコートを羽織っている亜季も震えるほど寒かった。彼も例の服装なのでかなり寒そうにしていたが、「全然大丈夫です」と笑っている。少し歩くと、白い息を浮かべながら刹那が
「帰り道は危ないから家の近くまでお送りします。」
と切り出した。亜季も好感を持ち始めた彼であるし、名前も知って、ケーキも奢って貰い、すっかり打ち解けてはいたが、何か家まで送ってもらうと、友達としてなのか恋人としてなのかわからないが、大きく一歩踏み出すような気がして少し言葉に詰まった。この一年で何度か経験している古傷が痛む感覚だ。愛を語り合い、永遠を誓い合った元カレとあんなにあっさり別れてしまった。そんな事実が頭をぐるぐると廻り、ここで安易に受け入れるとまた大怪我をする、またあんな失恋に耐えられる確証なんて無い、そんな言葉がスッと浮かんだ。その恐怖は彼女に断る台詞を探させたが、中々見つからなかった。彼の武器である、切なげな笑顔、誠実な態度、優しさに吐ける言葉なんて無かった。「いいや、ここで」「駅でいいよ」そんな台詞が彼に跳ね返されることはわかっているし、逆に変なニュアンスで受け取られて傷つかれても困る。彼女は無難な話題でその場を繋ぎ、元の公園辺りで別れる計画を頭の中で立てた。その間彼との会話を続けながら別れる方法を考えた。彼女が言葉少なになると彼が自然に話し手に回ってくれて、その方法を考えるのはそう難しくなかった。そうやって彼女に与えられた十分すぎる思考時間が彼女に突飛な方法を考え付かせた。とても尋常な方法とは思えないような方法であったが、今日の偶然な、ロマンティックな出会いが彼女にその方法を最善だと思わせたのだろう。公園につくと彼女は彼の前にスッと出て振り向いて言った。
「ここでいいよ。」
「え、でも…」
「私ね。実は少しだけ重い病気でね。余命あと一年なんだ。あと一年。こうやってロマンティックに刹那君に出会えたのは神様のクリスマスプレゼントなんだって思えたけど、刹那君に恋しちゃまずいんだよ。もちろん刹那君も、私も傷つくだけ。いい思い出になりました、本当に楽しかったです。じゃあね」
彼受け売りのちょっとだけ切ない笑顔で、空を見ながら考え付いた嘘を言った亜季は我ながら名演技であることを讃えながら、彼に思考時間を与えないように足早にその場を去ろうとした。思った通り、呼び止める声は無い。彼女はなぜか少しだけ泣きそうになりながら、自分の家へと淡々と歩を進めた。しかし、彼女の予想は外れた。息を切らしながら彼が追いかけてきたのだ。まずい。そう思ったのも遅く彼は彼女を見つけた。彼は目を真っ赤にしている。
「だったら。だったらその一年。僕にもらえませんか?僕がこの一年で、君の生きる意味、生きた意味になりたい!それくらいの幸せを紡ぐくらいの決意を、僕にさせては貰えませんか?」
ロマンチックな言葉を受け、彼女は困惑した。彼はただひたすらに流れる涙を止めも拭きもせずに強い眼差しで彼女の答えを待つ。彼女は彼の流す解釈不明な涙に、ロマンチックな言葉に、実直な態度に、嘘である旨も断る言葉も発することが出来なかった。きっとこれは告白なのだろう。絶対にそうだ。こんな盛大な嘘を真に受けた告白を受けてしまっては大変なことになる、そんなことはわかっていた。ただ彼女は勢いに押され頷いてしまった。その場の空気に彼女はそうすることしか出来なかった。そして、彼は強い決意を胸に秘めたような凛々しい笑顔で彼女を包み、さほど遠くない彼女の駅まで送った。彼は先ほどの涙は嘘のように、優しく彼女に振舞った。帰りの道中携帯のメールアドレスも交換した。家に上げることは無かったが、家の前で彼はこれから彼氏彼女として付き合うと考えていいのかどうか、その旨を自然な口ぶりで確かめると、爽やかに笑って、
「告白受けてくれてありがとう。絶対にこれから最高の幸せを君に見せてあげる。」
そんなくさいセリフをスッと言って帰っていった。
亜季は呆然としながらも、リビングのテレビをつけ、お風呂をいれ、冷えた洗濯物をいれ、冷蔵庫からビールを出してプルタブを空け、テレビの前のソファに腰をかけた。グッとそのビールを喉に押し込むと、ゆっくりと今日のあらすじを出会いから追った。そして回想が今に到ると。飲みかけのビールを机に乱暴に置いた。どうやら彼のことを好きになってしまったのは否定の仕様が無い、そして最低で大変な事をしてしまった。今日の概要をこの二つにまとめ終わると、彼女は入れたお風呂も、飲みかけのビールもそのままで、ベットに倒れこんだ。