17 秘めたるもの
ゴロファの中にある執務室の扉を開くと、機械や事務用品の揮発剤臭に混じって、ほのかな女性の香りがした。
「ヴォルテ=マイサン伍長、参りました」
「そんなにかしこまらなくって良いですよ」
アヤは、詰襟の軍服はハンガーにかけ、ブラウスの襟元を開いていた。
相変わらず情報処理端末に向かい合っていたが、イスの座面を回転させてヴォルテの方を向く。
備え付けのソファに着席を促すと、手ずから水筒の茶を注いで渡した。
「実家からお気に入りの茶葉を持ってきてるんです」
「へえ、美味しいお茶ですね」
ヴォルテは当たり障りのない感想を返した。
ドリルの回転音だけでメーカーを言い当てることはできても、茶の味には疎かった。
「さて、ヴォルテ伍長。明日、正式に辞令を出しますけど、先に伝えておきます。貴官を、私アヤ=ルミナ直轄の特殊遊撃分隊の分隊長に任命します」
「分隊長。自分が、ですか。それに特殊遊撃とは?」
「それらしい呼び名が必要だったから大仰になってしまっているけれど、簡単なことです。分隊と言っても、構成はヴォルテ伍長とバンカ兵長だけ。今後は私の命令のもと、あの未確認アーマシング『ファーザー』を専ら運用することが任務になります」
「――はッ! つつしんで拝命いたします!」
ファーザーと常に行動を共にしたいヴォルテにとっては、願ってもないことだ。
主たる指揮者がアヤであることも、好ましい。
先だっての戦闘や、その後の働き振りを見て、ヴォルテは年若い少尉に信頼を寄せていた。
「なお、ファーザーの戦闘データ、稼動記録を開発室へ送ることも任務の一部です。重要性については、昼間にお話ししましたよね」
「ええ。それに、自分個人としても、ファーザーに関わることができて嬉しいです」
「個人的にも、ですか? それは、伍長が“ドリル好き”だからですか」
着任から間もなく、アヤはヴォルテの“利きドリル”なる特技について聞き及んでいた。
ヴォルテは、「それもありますけど」と頬を掻いて苦笑しつつ、表情を引き締めて語ることを決心した。
「自分は、子供の頃に2度、ファーザーに出会っています」
「ええっ!?」
思わず眼鏡に手をやり、身を乗り出すアヤ。
ブラウスの胸元が大きく揺れたが、ヴォルテは彼女の青い眼だけを見る。
「一度目は、赤ん坊だった自分を孤児院へ預けた。二度目は、生命の危機に瀕した自分を、救ってくれました」
「ヴォルテ伍長は、ファーザーの正体に心当たりがあるんですか?」
「……いいえ、残念ながら。だから、知りたいんです。ファーザーとは何者なのか。それを知ることが、自分自身を知ることに繋がりますから」
ヴォルテの黒い瞳が、渦を巻いている。
見つめた者を吸い込んでしまうかのような強い意志を秘めた眼差しに、カナは知らず固唾を呑んでいた。
「少尉、どうかこの話は他言無用にしておいてもらえませんか? 限られた、信頼できる人にしか、この話はしていないんです」
「――ヴォルテ伍長は、顔を合わせて間もない私を、そこまで信頼してくれているのですか」
今度は、アヤの青い瞳がヴォルテを見る。
眼鏡のレンズ越しであっても、眼差しの強さが衰えることは無い。
問われたヴォルテは、そういえば、とばかりに少し考えてから、ぽつりと呟くように応えた。
「……そうだ。アヤ少尉は、孤児院で世話になった人に似てるんです」
「それって、もしかして“母さん”ですか」
「そう、です。もちろん本当の母親ではありません。僕が兵学校に入るまで、ずっと見守ってくれたんです。その人のこと、ずっと心の中で“母さん”と呼んでいました」
「そう……そうだったんだ」
ヴォルテの話を聞くうち、自然とアヤの口元は綻び、目元には優しい微笑が浮かんでいた。
口調まで砕けてゆくのを内心では自覚しながら、アヤはそのままこの青年と会話を続けようと思った。
「ふふ、あの時の言い間違え、“姉さん”だったらちょっと嬉しかったかも」
――たしかに、この人は年上だ――
ヴォルテは、アヤに相槌を打つ傍らでそんなことを考えている。
「私、末っ子なんです。姉や兄を見上げてばかりだったから、憧れてて」
「そういうのって、やっぱりあるんですよね。いや、あの時は本当、すみませんでした」
「謝らなくていいですよ。ちょっと面白かったし」
「ハハ、ひどいなぁ、少尉」
空気が和らいでいくのを感じる。
上官と部下、という節度を保ってはいるが、二人は互いの距離をずいぶん近くして話すようになっていた。
「見上げる、と言えば。あの頃は自分もまだ背が低くて、母さんに抱きしめられると窒息しそうになってました」
「え、窒息?」
「その、胸に顔を押し付けられて……」
「お、押し付けられて!?」
眼鏡がズレるのもそのままに、アヤが驚愕の面持ちで自分の胸に手を当てる。
「そ、そんなに……」
「アハハ。もう自分も背が伸びましたし、二度とそんなことにはならないと思いますけど」
和やかに笑うヴォルテとは対照的に、やや深刻な面持ちで胸に手を当てていたアヤは、意を決したとばかりにキッとヴォルテを見て。
「あの……私の方が、小さいですか?」
「――へ?」
「ヴォルテ伍長、言いましたよね。私とその“母さん”が似てる、って。どうですか」
異様に真剣な面持ちで、アヤが胸を張る。
ブラウスに包まれた膨らみが、ユサ、と動いた。
茶を出された時とは状況が違う。
どう答えても正解にならぬであろう悪魔的問いだ。ヴォルテの背筋に冷や汗がつたう。
「あの、ええと……申し訳ありません! なにぶん子供の頃の話なので、実際どうだったかは記憶していなくて!」
青年は、ところどころ声を裏返しながら答える。
アヤはと言えば、無意識のうちにムキになっていた自分に気付き、俯きがちに赤面した。
「ヘンなこと訊いてごめんなさい。そう、そうよね。有耶無耶にしておいた方が良い事だって、あるもんね……」
少々気まずいものを残したまま、アヤは会話を打ち切り、ヴォルテは執務室を後にした。
*
残務整理に目処が立った所で、アヤは数時間振りに執務室のデスクから離れた。
向かったのは、自室を兼ねた執務室に併設されているシャワールームである。
仕官への待遇として、こういった設備は専用のものがあてがわれている。
とは言え、アヤの性格上、普段であれば貴重な水の浪費には細心の注意を払っている。
現在駐屯しているキャストフは近くに河川があるため、給水量に気兼ねをせずシャワーを使えることがありがたかった。
日頃、身と心を戒める軍服を脱ぐと、ようやく『アヤ=ルミナ少尉』から『ただのアヤ』だ。
一糸纏わぬアヤの肢体に、条をなす水滴が弾け、流れてゆく。
バンカの見立て通り、軍服の戒めから逃れた彼女のボディラインは、豊かな起伏に富んでいた。
濡れた黒いロングヘアが一房、白い胸元にはりつく。
それを背の後ろへとやってから、アヤは自らのたわわな実りを両手で持ち上げてみた。
「――これでもまだ、小さいのかな」
どうして今になって、“こんなこと”が気になるのか。
聡明な才女は、しばらくシャワーの温水に打たれながら考えてみたが、ついに答えが出ることは、なかった。




