年下彼氏が大人すぎます
『もう帰った?』
授業が終わり、窓から沈みかけの陽が入る。
携帯に届いた1通のメール。差出人の名前を見て心を弾ませて開封したはいいけど、そのごく短い文面をもて余してしまった。
久しぶりにメールくれたと思ったら……これはどういう意味なんだろう。今日の予定を聞いてる? それとも。
『今、授業が終わったところです』
向こうの意図が読めなかったから、そんな簡潔な返信をしてしまった。送ってから後悔した。全然可愛くない。もっと気のきいたメールを送ればよかった。
「柚ちゃーん。帰ろー」
「あ、うん」
仲のいい友達に言われ、未練を残しながらも携帯を鞄にしまった。
「メール?」
ぬっと背後から急な気配が立ち上がった。
「に、ニイナちゃんっ」
「誰から?」
心臓が飛び上がるほど驚いた私をよそに、ニイナちゃんは異常なほど顔を近づけてきた。
「ニイナちゃん、近いよ……」
「メール。誰から?」
「あ、あの、中学の……」
「友達?」
「えっと……」
私が答えに詰まっていると、ほかの友達が助け船を出してくれた。
「ちょっとニイナ、柚ちゃん引いてるよー。それぐらいにしときな」
「ニイナって異常なほど柚ちゃんに関して過保護だよね」
友達が苦笑すると、ニイナちゃんはクールな顔で答える。
「柚ちゃんに悪い虫がつかないよう見張ってるだけだから」
「いや、それが過保護なんだって。あんたは柚ちゃんの彼氏かっ」
突っ込まれてもニイナちゃんは涼しい顔。
「あー、たしかに私、男に生まれればよかったかも」
「開き直るな!」
そんなふうにワイワイと友達4人で教室を出る。
私は積極的に話題を作るわけではないけど、皆の顔を見上げながら笑顔で相槌を打つ。
歩いているなか、私だけ視線が低い。いちばん背が高いニイナちゃんとは拳ひとつ分以上離れている。
ふと廊下の窓ガラスに映る自分の姿を見て、しょんぼりする。
背が低い上に童顔で化粧っ気もなくて、歳より上に見られたことがない。
比較的真面目な校風のこの学校でも、バレない程度にメイクしたり、合コンみたいなものを開いて遊んだりしている派手なグループはある。
別にそういうことがしたいわけじゃないけど……楽しんでいる人たちを見ると、やっぱり憧れちゃったりするわけで。
大人っぽくなりたいな……。
昇降口を抜けたところで、突然ニイナちゃんが立ち止まった。
「なんか人だかりができてる」
「あ、本当だー」
「なんだろう、校門になんかあるのかな」
校門を少し離れて取り囲むように、人が集まって騒いでいる。
そんななか、色めいたささやきが聞こえてくる。
「ねえ、あれ大学生かな」
「背が高くてモデルみたーい。私服もなんか超センスいいんだけど」
「なんか人待ちっぽいよね」
「えっ、もしかして彼女とか待ってる!?」
「絶対そうだよー。彼女って先輩の誰かかなぁ」
「年上と付き合ってるなんてすご。格好いい」
「いいなー。デートとか絶対お洒落なとこ連れてってもらえるよー」
どうやら校門に人待ちがいるみたい。こんなに騒ぎになってるなんて、どんな人なんだろう。遠くてぼんやりとしたシルエットしか見えない。
「そんなにいいかねー、自分より年寄りと付き合うとか」
ニイナちゃんが呆れたようにぼそっと言う。
「えっ、私はいいと思うなー。年上の男の人」
「うん、私も付き合うなら年上だな。頼れる人がいい」
「そうか?」
「ニイナは年下が好みなの?」
「ガキに興味ない」
ズバッと率直なニイナちゃんの言葉。
「そっかー、ニイナは柚ちゃんひとすじだもんねー」
「柚ちゃんがお嫁に行っちゃったらどうすんの、ニイナ。出家する?」
「―――するかも」
するの!?
ニイナちゃんは真面目な顔で冗談を言うから困る。
「ニイナは彼氏っていうより父親だね、柚ちゃんの」
「だねー」
「柚ちゃんの彼氏が挨拶に来たら一発ひっぱたいてやる」
「え、えぇ!?」
思わず大きな声を出してしまった。
「ほらー、柚ちゃんが怯えてるよー」
「でもニイナなら本当にやりそうだな」
そんな会話をしているうちに人の輪まで到着してしまって、ニイナちゃんがチッと舌打ちした。
「通れないじゃん。通行人の邪魔するなっつの」
「裏口に回る?」
「そーするか」
ギャラリーは減るどころか増える一方で、校門までの道は塞がれてしまっている。
正門を通るのを諦めて、人だかりに背を向けたときだった。
「――――――柚!」
……え、今。
私は恐る恐る振り返る。
人だかりの向こう。校門の側に立っている人の影。
ギャラリーが沸いた。皆がユズと呼ばれた誰かを探してる。
隣を歩く友達が遠慮がちに尋ねてきた。
「え、もしかして……柚ちゃんの知り合い?」
「……みたい」
私は力なく答えた。
そこでようやくさっきのメールの意味に気づいた。
「はいはーい。ちょっとここ通してー」
ニイナちゃんが急に声をあげ、人だかりを蹴散らすように突っ切り始めた。
「に、ニイナちゃんっ」
「ちょ、待てニイナ!」
慌てて私たちはそのあとを追いかける。
勢いでついてきちゃったけど、気づくと周りから無数の針のような視線が突き刺さっていた。
見られてる……どうしよう、すごく目立っちゃってるよ……。
私はぐっと目をつぶって耐え、やがて人混みを抜けて校門にたどり着いた。
「柚」
明るい茶色の髪と、ネイビーのチェスターコートに首からは十字架のネックレス。そして高い位置からこっちを見据える切れ長の目。
「え、ユズってどの子よ」
「あの背の高い子じゃない? なんか大人っぽいし」
「かな。でも制服のリボンの色、1年生じゃない?」
私は大きく息を吐き、肩を上下させる。落ち着け、落ち着け私。
「あんた、ロリコン?」
唐突にニイナちゃんはそう言った。
ニイナちゃんは自分よりも頭ひとつ分以上背が高い彼を見上げ、クールな表情のまま鋭い視線を放っていた。
「それとも柚ちゃんのストーカー?」
何か言わなくちゃと思った。
ほかの友達ふたりは厳しい顔つきで事態を見守っている。
「なんか言ったらどうよ」
ニイナちゃんは眉間に皺を寄せ、彼を睨み付けた。
「に、ニイナちゃん! 違うの!」
少しだけ声がかすれてしまった。
彼の形のいい眉がぴくりと動く。
「この人は……」
この人は。
この人は私の。
「お、お兄ちゃんだからっ!」
「なんであんなこと言ったの」
沈みかけた陽。その光を浴びて、隣を歩く彼の髪が金色に見える。
「……怒ってる?」
「それなりに」
「ごめん、なさい……」
「友達に彼氏だって紹介してくれないんだ?」
彼氏。そう、彼は私の恋人。
大好きな人。
それは間違いないのに。
言えなかった。
「俺が年下だから」
「……え?」
「だから言いたくなかった?」
ニイナちゃんたちと別れて彼とふたりきりの帰り道。
何も言わなくても当たり前のように車道側を歩いてくれる彼。背の高い影が私を守るようにすぐ隣にある。
「違うよ」
私は首を振って、
「奏多くん、また背が伸びたね」
と彼の方は見ないまま言った。
それから少しの間のあと、彼が口を開く。
「あぁ、180超え」
「成長期だもんね。きっと、もっと伸びるよね……」
「柚」
急に彼が立ち止まった。
「奏多くん……?」
「メール、見た?」
私は首を傾げ、鞄から携帯を取り出す。すると一件メールの通知が入っていた。
『迎えにいく』
相変わらずそっけない用件だけのメール。でも、そんな短いメール1通1通が消去できなくて、大切に保管してしまう。
だって、好きな人からのメールだから。
「あ、ごめんね、友達と一緒だったから……最初のメールは見たんだけど」
「迷惑だった? なんか人集まってきてたし、柚、あーいうの嫌いだろ」
彼はちゃんと私のことをわかってくれていて、だから変な嘘をついた私にもあんまり怒らなかった。
すごく、優しくて。
彼のそういうところが好きだけど、不安になる。
「目立たない格好してったつもりだったんだけど」
たしかに普段より少し地味な服装だった。
でも、彼が着たらどんな服だってお洒落に見えるし、その隣にいる私は子供に見える。
「……奏多くん、格好いいんだもん」
私はぽつりと言った。
「私なんかが彼女だって言ったら、皆がっかりする」
例えば彼の隣にいるのがニイナちゃんだったら。
ニイナちゃんは私より背が高いし、お化粧はしてないけど目鼻立ちのはっきりした顔つきで美人だし、私の何倍も何倍もお似合いだ。
やだな、私。友達にまで嫉妬してる。
彼を自分のお兄ちゃんだと言った。
ニイナちゃんは相変わらずのクールな表情で「あ、そ」と言った。「あんま似てないね」とも。
嘘をついた。下らない嘘。
彼を傷つけた。最低。
私なんて彼女失格だ。
「ごめんね、奏多くん……」
「好きだよ」
……え?
ぽんと私の頭の上に彼の手が載った。
「俺の彼女は柚だけだから」
1年前、まだ同じ中学に通っていたときに彼に言われたことを思い出す。
奏多くんの初恋は、私だって。
初めて好きになった人で、初めての彼女だって。
「……ちょうど撫でやすいサイズだな」
ぽんぽんと私の頭を撫でながら、彼はクスッと笑った。
「ひどい」
「あ、ふくれた」
「身長、私のコンプレックス……」
「大きくてもいいことないけど?」
「あっ、嫌味だー」
「ほんとのこと。教室入るのにかがまないといけないから。ぶつけると結構痛い」
「奏多くんなんてそのままどんどん背が伸びて、着られる服のサイズがなくなっちゃえばいいんだ」
彼が吹き出す。私も膨れっ面をほどいて笑った。
「なんかこういうの、好き」
彼の頬が夕陽のせいかわずかに紅く染まっていた。
「勇気出して来てよかった。久しぶりに柚と話せて、なんか心軽くなった気がする」
「……受験勉強、大変?」
彼は私より1個下の中学3年生。塾とかで忙しいみたいで、会ったのは1か月ぶりだ。
「受験っていうより、柚と会えないのがつらい」
心なしか、前に会ったときより顔色が優れない気もする。
「今日も塾あったんだけど、模試の結果だけ受け取って帰って来た。なんか、無性に柚に会いたくなってさ」
「それで、来てくれたの?」
「エネルギー切れだもん、俺。これ以上柚に会えなかったら死ぬ、と思って」
「………………」
「来ちゃいました」
ゆで上がったタコみたいになってるんだろうな、と思った。今の私の顔。
奏多くんが私の顔をのぞきこんでいた。咄嗟に顔を背けようとして、
「エネルギー補給」
と近づいてきた彼の唇とぶつかった。軽く唇同士が触れあったあと、ゆっくりと絡まりあった。私は静かに目を閉じる。
「落ちたらどうしよ」
わずかに熱を帯びた目を光らせながら、彼は深く息を吐いた。
「受かるよ。奏多くん、なんでもできちゃうもん」
「本当にそう思ってる?」
「うん」
私は頷いて、頬を上気させて笑う。
「受かったらまた同じ学校だね」
「その制服」
「……うん?」
「スカート短すぎ」
「え? 短い子はもっと短いよー。私なんて長い方だよ、ちゃんと校則守ってるもん」
「短い」
「えーっ」
彼はそのまま私の肩に顎を載せて体重を預けてきた。一瞬びっくりしたけど、見た目のわりにそんなに重くなかったから、加減してくれてるのかもしれない。
「奏多くん、歩かないと。家に着く前に暗くなっちゃう」
「……ん」
彼がようやく身体を起こす。
陽が地平線に触れ、目を刺すような眩しいオレンジ色の光が地上を照らす。
目の前にふたり分の濃い影が落ちた。
「柚、あの学校なんで選んだの?」
「え? ……うーんと、家からいちばん近かったからかなぁ。でも近すぎて自転車通学許してもらえなかった」
「受験勉強、結構した?」
「ほかの人と同じぐらいかな」
「塾、行かなかったよな」
「知らない人は苦手だもん。緊張する」
同じ理由で家庭教師も駄目。ずっとひとりで勉強してた。
塾に缶詰めになってた人たちよりは余裕があったかな。模試でも志望校は合格圏内だったし、特別必死になった記憶はない。
「奏多くんなら大丈夫だよ」
そう言ったとき、彼の表情が一瞬だけ変化した。
よくわからないけど、悲しそうな、苦しそうな、そしてそれを必死に押し込めているような、そんな。
「……奏多くん?」
「………………」
私の家の前に着いた。
奏多くんの家はもう少しだけ先。
「近いな」
「うん。徒歩15分だよ」
今日は立ち止まったりしていたからもう少しだけ長かった。
通学時間が短いのは朝寝坊の私にとってすごく助かることだけど、このときだけはもっと遠かったらよかったのにと思った。
もっと一緒にいたい。
でも、あまり引き留めると本当に暗くなってしまう。
「じゃあね、奏多くん。勉強頑張って」
「ん……また、時間空いたら連絡する」
別れ際のキスはなし。家の誰かに見られたらいやだし、名残惜しくて離れられなくなっちゃうから。
私は家の門の前で「バイバイ」と手を振る。
彼の背中が遠ざかっていくのを見送った。
数日前に降った雪がまだ溶け残っていた。
ストーブを焚いた教室に、窓から刺すような冷気が入り込んでくる。
「寒っ。誰か窓閉めて」
「あ、私やるよ」
私は立ち上がり、窓をがらがらっと引く。戸締まりのときに困らないようついでに鍵もかけようとして、自分の身長を呪った。
「んん、届かない……あっ」
かしゃん。後ろから手が伸びてきて、鍵をかけた。
「あ、ありがと……」
振り返ると、そこにはその無邪気な笑顔から子犬みたいと称されるクラスメイトが立っていた。
「どういたしまして」
彼はいつもと変わらない笑顔を弾けさせ、
「庭野さんの一生懸命背伸びしてるとこ、可愛かった」
と言った。
「え……!?」
私は息を呑む。
パコンッ。
いい音をさせて彼の頭を後ろから殴りつけたニイナちゃんの姿に。
「に、ニイナちゃんっ!?」
「いってぇ……」
「原田くん、大丈夫?」
ニイナちゃんは「任務完了」と涼しい顔。
「柚ちゃんに近づこうとは100年早いわ、原田」
「俺はただ、庭野さんが困ってたから……」
「問答無用っ」
ニイナちゃんの目がぎろっと原田くんを睨む。
「今日がなんの日か知っててやったんでしょーが。魂胆が見え見えなんだよ」
今日は2月14日。
そうバレンタインデー。
ニイナちゃんがクールな顔でぐっと拳を握る。
「柚ちゃんのチョコを狙うやつは私がぶっ潰す」
「ニイナー。また柚ちゃん引いてるよー」
机の上に持ち寄ったお菓子を広げて食べていた友達がひらひらーっと手を振る。
「そ、そりゃあ庭野さんからチョコもらえたら嬉しいけどさー。俺は別に……」
「とっとと失せろ」
ニイナちゃんの声が冷たい。
「ご、ごめんね、原田くん……」
原田くんはいつもの無邪気な笑顔はどこへやら、ピキピキっと固まった表情で頷き、回れ右をした。
そんな異様な雰囲気を変えようと、友達が明るい声を出す。
「ニイナもこっち来て一緒に食べようよー。柚ちゃんの作ったブラウニー美味しいよ」
「ほんと、柚ちゃん料理上手! 将来いいお嫁さんになるな」
「あ、それ禁句……」
それまでクールだったニイナちゃんの表情が曇る。
「そっかー、柚ちゃんもいつか、お嫁に行くのかー」
「に、ニイナ元気出しな! ね?」
「ほらほら、お菓子いっぱいあるよー。食べようよー」
「……食べる」
それからニイナちゃんは無言で大量のお菓子を口に放り込み始めた。
「あーあ、やけ食いしてる……」
「ニイナ、すごいショック受けてたもんねー、柚ちゃんに彼氏がいるって聞いて」
「娘を嫁に出す父親の心境なんだろうね」
「早く子離れしてくれるといいねー」
あれから私はちゃんと話した。
奏多くんが本当はお兄ちゃんじゃなくて私の彼氏だって。皆はそれを聞いてもそう驚かなかった。そんなことだろうと思ったよー、と嘘をついたことも笑って許してくれた。
ニイナちゃんだけは、ひどくショックを受けてたみたいだったけど。
それから彼が年下の中3だと話すと、それには皆驚愕した。
「柚ちゃん、彼に本命チョコ渡すんでしょ?」
「うん」
「彼、受験生だっけ。勉強で疲れた脳には甘いものだもんね。きっと喜んでくれるよ」
どうして私が彼氏がいることを黙っていたのか、皆は追及しなかった。
代わりに優しい言葉をくれる。いい友達だなって思う。
「男の子にチョコ渡すのって初めてだから緊張するな……」
「去年はあげなかったの?」
「あげなかったっていうか、去年はちゃんとした感じじゃなかったから」
「受験あったしね」
「うん」
今日は授業が終わったら渡しに行くつもりで、友達用と一緒に鞄に忍ばせてきた。
朝、『学校まで届けにいくね』ってメールもしたし。返信来てないけど、ちゃんと見てくれたかな。
「柚ちゃんたちってさー、普段どんな会話してるの?」
「え? どんなって……別に普通だよ」
「学校違ってしかも向こうが受験生じゃなかなか会う時間もないでしょ。基本、電話とかメール?」
「うーん……奏多くん、そういうのあんまり好きじゃないから。メールは用件だけだし、電話はしないかな」
「えー、じゃあ前に話したのっていつ」
「この前一緒に帰ったとき」
「それって、え、あれが最後? 1か月も前じゃん」
「っていうか柚ちゃん、彼のこと“くん”付けで呼ぶんだねー。向こうは柚って呼び捨てにしてたのに」
「……うん、なんとなく、そうなってて」
私よりずっと奏多くんの方が年上っぽい。私たちが並ぶと、恋人同士っていうより兄妹みたいで。
「はっ、あんな老け顔のどこがいいのさー」
ニイナちゃんがまるで酔っ払った人みたいに赤い顔で言った。
「私はあんなの認めないぞー」
「え、なんかニイナ酔ってる?」
「まさかお菓子に入ってる少量で酔うとか……」
「あーんなチャラくて頭の軽そうな男のもとに、柚ちゃんを嫁には出せーん」
「やっぱ酔ってるね」
「しょうがない、ほっとこ」
それから昼休みが終わるまでニイナちゃんはずっとぶつぶつ言っていた。
「柚ちゃんが泣くのは、目に……見えて……る」
「あー、寝ちゃった」
「先生来る前に起こせばいいでしょ」
ほかのふたりは机の上に広がったものを手際よく片付ける。
私が泣くのは目に見えてる。
……そう、かもしれない。
今だって不安で不安で仕方ない。
私じゃ奏多くんに釣り合わない。
大人っぽくなりたい。歳の問題じゃない。見た目とか、そういう表面的なことでもなくて。
ただ、自信を持って奏多くんの隣にいられるような女の子になりたい。
私と彼の間には「好き」って言葉じゃ埋められない隙間がある。
それを埋めるにはどうしたらいいんだろう。
久しぶりの中学校。懐かしい通学路を通る。溶けかけの雪の塊に足を滑らせそうになりながら、私はそこへ向かった。
マフラーに手袋、分厚いコートと完全防寒。暦の上ではもう春だけど、吐く息は白い煙のように空へ昇っていく。
校門の人待ちは目立つってことを学習したから、少し離れた電柱の影で彼を待つ。
「奏多くん!」
ふと聞こえてきた名前にドキッとする。
「あの、受験前のこんな時期に告白するの、すごく迷ったんだけど……でも、後悔したくないから! これ、受け取ってくださいっ」
校門の人がたくさんいる前で、堂々とチョコを差し出す女の子。背が高くてモデルみたいにスタイルがいい。顔はよく見えないけど、声からして洗練された美人という感じ。
下校する生徒たちが何事かと足を止める。そんな注目の渦中にいても、その女の子は真っ直ぐに目の前の彼を見つめていた。
強い子なんだな、と思った。
羨ましい。
ああいう子になりたかった。
私も……あんなふうに、堂々と奏多くんの隣にいられるようになりたかった。
ヒューヒューと冷やかす声が生まれる。
お似合いのカップルだって、周りが認めた瞬間だった。
あぁ、私の居場所はないんだなって。
他人事みたいに思った。
「悪いけど、あんたみたいに暇じゃないから」
周りの雰囲気を破るような、冷たい声が聞こえた。
「そこどいて。通れない」
彼は女の子が差し出したチョコに目もくれず、人混みを突っ切った。
「か、奏多くん!」
女の子が泣きそうな顔で彼の名前を呼んだ。
「なんだー。フラれたのかよ」
「せっかくなんだから受け取ってやればいいのに。冷たいやつ」
「かわいそ」
ギャラリーは見物を終えて、がっかりしたようにはけていく。
女の子がうつむき、うなるような声をあげた。
「なによ、私が私立の推薦組だからって……」
「あ、そーいや奏多って私立の滑り止め落ちたんだっけ。そりゃ必死にもなるよな。高校浪人の危機じゃ」
「それで告白されて八つ当たりかよ。かっこわりー」
「マジそれな」
彼はそんな周りの声が聞こえていないのか、聞こえないふりをしているのか、顔色ひとつ変えずにこっちに向かってくる。
私立の滑り止めに……落ちた?
私は電柱の影でジリッと身を後退させた。彼が近づいてくる。どうしよう、見つかっちゃう。
お願い、気づかないで通りすぎて。
私はきつく目を閉じた。
気配を感じた。すぐ横を通りすぎていく気配。恐る恐る目を開けると、目の前に彼の顔があった。
「何、かくれんぼ?」
「ひゃっ」
私はビクッと身体を震わせる。
「奏多……くん」
「どうしたの、こんなとこで」
「……メール、見た?」
「ごめん、最近携帯の電源切ってて」
「………………」
拒否された、と思った。なぜだかわからないけど、そんな気がした。
私、ここにいてもいいの?
奏多くん、本当は私に会いたくなかったんじゃ……。
「歩きながら話そっか」
「……うん」
気まずい沈黙が訪れる。
あれ、私たち、いつもどんな話してたっけ。別に普通だよ。普通の話。
……普通の話って何?
何を話せばいいの?
「柚、学校に何しに来たの」
先に口を開いたのは彼だった。
正直に答えればいい。
私は別にやましいことなんてしてない。
なのに、私はすぐに答えを返せなかった。
チョコを受け取ってもらえないかもしれない。
そう思ったから。
「たまたま……その、通りかかって」
「高校と反対方向だけど、こっち」
「健康のために歩こっかなって」
「……まぁ、いいことだね、それは」
信じてないなってすぐにわかる声のトーン。
「奏多くん、もしかして体調よくないの?」
「……ん、なんで」
「前会ったときも、今も。あんまり顔色がよくない」
「無理してないかって、そういうこと?」
「うん」
彼は鞄ごと腕をくっと伸ばして「してないよ」と言った。
「……って言えたらよかったんだけど」
「………………」
「柚は知らないかもしれないけど、俺、馬鹿だから。ヤバイかも、ね」
よく見ると、切れ長の目の周りが黒ずんで、窪んでいる。寝てないんだ。どれぐらい?
ねえ……どれぐらい、無理してた?
「なんでもできちゃうなんて、そんなわけないんだよ。柚の前だからかっこつけてただけ」
前に会ったとき。
奏多くん、なんでもできちゃうもん。
私はそう言った。
私こそ、馬鹿だった。
「もしかしたら俺、自分で思ってるより気にしてたのかも。歳の差、みたいなやつ」
「1個しか違わないよ」
「大層な違いだよ。それだけで先輩と後輩ってなる。柚が先輩で俺は後輩」
なんかね、そこにプライドみたいなものが絡んできちゃうわけですよ、と彼は真面目な顔をしたまま言った。
年下だけど年増に見える奏多くんと、年上だけど幼く見える私。
ちぐはぐなふたり。まるでお似合いなんかじゃないふたり。
「見た目とか、そういう表面的なことでなく」
「……うん」
「優位に立ちたいっていうのはちょっと傲慢なんだけど、なんていうか。柚が安心して胸に飛び込めるのが俺だったら嬉しい、かな」
私はその言葉を聞いて、鞄の持ち手を強く握りしめた。
「柚?」
「格好いいなぁ、奏多くん……」
「かな?」
「うん。すごく格好いい」
奏多くんが格好いいから、私はいつも不安になる。自分が信じられなくなる。
奏多くんに好きでいてもらえる自信がない。
いつもいつも。
背伸びをしても届かない奏多くんとの距離を嘆いて、落胆する。
奏多くんも同じ気持ちだったのかもしれない。
彼は全然大人なんかじゃなかったのかもしれない。
私と同じ、子供だった。
「柚。今日、なんの日か知ってる?」
彼がしびれを切らしたように口を開いた。
私は小さく笑って頷く。
「男性が女性に花を贈る日、かな」
「え、いや、待って。そうなんだけど、たしかにそういう風習もあるけど」
彼がここまで慌てる姿を見せるのは珍しい。
いつもからかわれてばっかりだったから、ちょっと優越感。
「もうすぐテストがあるので全然暇じゃないんだけど、頑張って作ってきました」
私はにこっと笑って、鞄からラッピングしたチョコを取り出す。
「あー……柚、さっきの聞いてた?」
「なんのことでしょう?」
こくっと首を傾げて、彼の手にチョコを渡した。
「……ありがと」
ちゃんと受け取ってくれたことに安堵して、思わず頬がゆるむ。
彼は少し気まずそうに明るい茶色の髪をくしゃっとかきあげた。
「さっきのは……まぁ、俺も態度悪すぎたって思うけど。でも、好きな人以外のは受け取りたくない」
「……私、別に嫉妬したりしないよ」
「そこはして。俺、柚がほかの男と喋ってるの見るだけで殺意湧いてくるから。俺ばっかり嫉妬深いみたいでなんか悔しい」
可愛いな、と思ってしまった。
いつもよりなんだか子供っぽい。
でも、そういう一面もいいなって思う。
浮かれながら歩いていたら、雪が積もって凍った道路に足を滑らせた。
「……ひゃあっ」
転びそうになった私を奏多くんが咄嗟に抱き留めて、溜め息をつく。
「セーフ」
「あ、ありがとう……」
こんなときに迷わず助けてくれて。
「柚、ほら」
もう転ばないようにって手を差し出してくれる。
私がその手を取ろうとすると、彼は尋ねた。
「手袋、取っていい?」
「うん……」
お互いに片方だけ手袋を脱いで、手を繋ぐ。
澄み切った冬の空気の中、彼の温もりを求めて指を絡める。
大きな影と小さな影が仲良く手を繋いで、地面にそっとその足跡を残していく。
読んでいただき、ありがとうございます。
感想、アドバイスなど、お待ちしています。