甘い記憶
ごくり、とのどの奥で唾を飲み込む音。
これは私。
目の前にいるのは、自称冬の女王、小さな人型のクリスタル、私の涙が結晶化したもの。
それは、自身が冬の女王だといった。そして私に向っても、そういった。
「あなたは何も覚えていないかもしれない。
でも私はずっとあなたの中にいたの。
私はあなたの中の封じられた記憶」
人型の小さなそれは、泣いているように見えた。
小さな小さなダイヤモンドみたいなキラキラとした透明な粒が人型の足元に落ち、ぽつぽつとシーツについた。
「さあ、来て。最後の部屋、秋の女王の部屋へ案内するわ」
その部屋は、塔のいちばん端っこの、奥まった場所にあった。
この小さい冬の女王―――私の分身の案内なしには迷ってしまってとうてい来られなかったろうと思う。
その、真っ赤に色づいた蔦に覆われた扉を開き進むと、カサカサと枯葉を踏んだ。
部屋の中にしては広すぎる景色。どこまでも続く紅葉に染まった並木道。
夏の女王の部屋のように、ここはまた塔の中ではないのだろう。
あちらにはどんぐりが、銀杏の葉と実、稲穂の群れ、秋桜―――
そういったものがとても豊かに色づいている。空は青く高くどこまでも澄み渡っている。
分身のゆくとおり進むと東屋みたいなものがあった。
入ると、そこは図書館のようになっていた。これも東屋の外見からは想像できないほど広い。
この中の空間も、何か法則がねじ曲がっているのかもしれない。
壁に沿って大きな本棚が何重にもあって、(おそらく可動式で後ろの本も取れそう)、中央にはいくつかの大きなテーブル。
ペンや鉛筆などの筆記用具にメモ用紙。
開けっ放しの東屋のドアから紅葉や銀杏の葉がひらひらと吹き込んできたので慌てて閉めた。
「秋の女王は思慮深く、立派な研究家だった。
毎年、秋の間にありとあらゆることを思考して、これらの本を執筆してきた。
春の女王の部屋に、読めない言語の本があったでしょう。
あれは、すべて秋の女王が書いたもの。
これは王様と、季節の女王たちの共通言語」
クリスタルの分身は、すっとこちらに手を差し伸べた。
「触って」
言われた通り私も手を伸ばして、触れると、何かひやり、としたものが体中に一瞬で広がった。
「あ」
本棚の、背表紙。
さっきまでわけがわからなかったのに、読める。
そして胸の奥に、これまたわけがわからないけど、何かずっしりと沈む気持ちがある。
そして一冊の本に目が行った。
「世界の記録―――女王たちの記憶より―――」
その本をとって、中央のテーブルに置いて、ぱらぱらとめくる。
手書きで書かれていて、これは主に王様から伝聞したものを記したものである、この本にはこの世界のこと、季節についてをわかる限り記してゆく、と書かれていた。
この世界の始まり、季節がなかったころの記録から始まっていた。
しばし読みふける。
しばらくすると分身が言った。
「それを読んでだいたい分かったと思うけど、
王様に恋をした4人の女王たちは、心中穏やかではなかった。
それぞれが胸の中に苦しい気持ちを抱いた。でも、それでも耐え、なんとか役割をこなした。
王様もそのことを知り、皆に人格を求めたことを後悔した。
王様はまだろくに会ったこともない4人の女王たちが城に近づくこと、王の姿を見ることを禁じた。
王様自身もまた、4人には合わないように気を付けていた。
互いに姿を知らないままならこのまま何事もなく過ごせる、そう思ったのね。
そんなある日、王様は、偶然町の中で出会った町娘と、一瞬で恋に落ちた。
町娘だと思ってたその子は、実は冬の女王で、王様はそのことを知ってなお、冬の女王をそのそばから手放すことができなくなった」
それはもう、どれほど前のことになるのだろうか。
夏になったある日のことだ。
ずっと恋い慕っていたその人に、一目会いたくて。ほんの一目だけでよかった。
王様が人目を忍んで町を散策するという日を偶然知った私は、通販で町娘が着るような目立たない服と帽子など一式買って、それを着てこっそり出かけた。
そして、陰に隠れて見ようとしたけど植込みの木が邪魔で、もっとよく見たいと、王様が目の前の道を通り過ぎてすぐ、向かいの小屋の裏に向って猛ダッシュした、その時。
履きなれないブーツで足が滑って、王様の後方で盛大に転んだ。
自分自身の名誉のために言うが、わざとではない。断じてわざとではない。
王様は、あこがれのその人は、びっくりして振り返ると大丈夫かと声をかけ、優しく助け起こしてくれた。
手が触れて、その手はとてもあたたくて、こちらを覗き込む眼が、まるで深海のようにとても深くて、どこか悲しくて、
目をそらそうと思っていたのにそれができなかった。
「わたしと一緒に来てくれないか」
優しい声だった。
私は言われるがままそのまま城についていき、客間に通され、王様は深くかぶっていた私の帽子に手をやった。
はらり、と帽子が落ちた。
こちらを見つめる王様の目が見開かれていくのを、私はぼうっと見ていた。
正体がばれればきっと追い返される。
はっきりと見たことはなくても、なんとなく風貌を知ってはいるだろう。
何より私に触れたとき、冷たい空気にまとわれていることに気が付いたに違いない。
「そなた、まさか、冬の女王、なのか」
「はい」
王様は私が冬の女王と知っても、帰れとは言わなかった。
むしろ自室に招き入れ、留守の間ここで待っていてくれないか、と頼まれた。
広い広いその部屋で、ゲームや本や大量の娯楽を与えられ、王様が執務で出かけているときは、快適に遊び、
眠くなればその娯楽室の一角に用意してもらった客用のベッドで眠った。
部屋の中はそれはそれは過ごしやすかった。
王様が返ってくると、楽しく食事をとり、お話しして、
きれいな庭を散歩したり、バルコニーで一緒に夜空を見上げたりした。
楽しかった。
王様も楽しんでいた、と思う。
そして夏が終わり、秋も過ぎようとしていた。
もうこの楽しいときも終わる。
私は、あの塔へ行かなければならない。
しかし冬がはじまるその日、王様は言った。
行かなくてもよいのだぞ、と。
私はほんの少し、肩透かしを食らったような、がっかりした気持ちなって、
でも同時にうれしくて、結局それに甘えてしまった。
春の女王に使者を送り、秋の女王の次に塔に入るよう、王の命令が下った。
私も王様も、一度くらい、一つくらい、季節を飛ばしても大丈夫だろう、と思っていた。
何より目の前の大好きな人と離れるなんて、考えるのも嫌だったのだ。たぶん王様もそうだった。
その年、冬は来なかった。
秋が終わり、そのまま春になった。
人々は、寒さが来なかったことを喜んだ。
虫も、動物たちも、木々も生き生きとしていた。
次の年も、その次の年も、冬は来なかった。
私達ははなれることのできぬまま、ずるずると、何度も冬を飛ばして廻る季節をただ、城の中から眺めていた。
少しずつ、大地が蝕まれていることに、私も、王様もおそらくほかの女王たちですら、そのときはまだ気が付かなかった。