一話
真夏の盛り。甲子園もはじまってそろそろ課題と向き合わなければと現実を意識せざるおえない今日この頃。
私、川崎琴音は図書館の自習室にいた。外の湿気と上昇し続ける気温を感じさせない完璧な空間で今、私の心拍数と体温だけが異常に変動している。
一緒に来ていた友達はそんなことはお構いなしとばかりに一心不乱にシャーペンの芯を消費している。わたしにはカリカリとノートに英文を書き写す音よりも、自分の心臓が騒ぎ立てる音のほうが大きい気がしてならない。
「きりさん、ちょっと・・・」
迷惑そうに、目をほそめる彼女は山本季梨17歳。さらさらとした明るい色の髪を無造作にかき上げるしぐさに周りで勉強している異性がざわめく。それほどに目を引く存在なのだ。きりさんが冷ややかな目で辺りを一瞥し、小さく舌打ちをする。体感温度がざっと3℃は下がったに違いない。
「なんなん?ことちゃん。今、めっちゃいいとこ」
おそらく、書き写していた英文の内容のことだろう。
「え?」
「犯人が復讐によって殺されるとこ」
「はあ・・・・」
そんな内容が書かれたテキストは課題に存在しないとだけ、お伝えしておこう。
きりさんは英語に関して言えばずば抜けてレベルが高いため説明は求めないのが暗黙のルールだ。聞いてもわからないのに、わざわざ説明を求めるのは心苦しいというものだ。
「こっちもやばいんじゃって」
「しー」
ついつい声が大きくなってしまってたしなめられる。
「いったん出よ」
このままじゃらちがあかんと、きりさんが立ち上がる。そして私の手をとりすたすたと出口に向かった。
ごめんね、きりさんと手をつないでいるのが私なんかで。ときりさんに対する熱い視線に焼かれそうな私は申し訳なさそうな表情を作ってみせた。
効果があるなんてこれっぽちも思ってないけど。
変な優越感を感じてしまう自分が怖い・・・・
「で、うちの楽しみを途中でさえぎっただけの何かが起こったと見えますが何?」
「きりさん冷たいわー。あんな、さっき自習室に入ってきた人めっちゃかっこよくなかった?かっこいいというか綺麗というかもう・・・」
もうそれはため息が出るくらいの美形さんでした。きりさんも美人だけど、わたしの少ない語彙を精一杯使って表現するなら、彼はたぶんこの世界ではなくアニメか少女マンガの世界の住人です。それほどの容姿をもった人が近くにいて心臓が壊れない自信がない。感動に浸る私を面倒くさそうに見ているきりさんがこの3秒かんのうちに2回はため息をついている。もちろん、あきれているのだ。
「しっかりせられっ!」
「!!」
きりさんがしびれを切らしたようにわたしの額に強烈なでこピンをかます。
冗談抜きの本気のでこピンほど痛いものはない。くわえてきりさんのやつは普通でも十分痛いからしゃれにならん。
「いった、いったー。きりさん、これもう立派な暴力じゃわ」
額をがっちりガードして涙目の私にきりさんは容赦なく告げる。
「さっきって、いつの話?自習室に入ったのはうちらが最後でいまのいままで誰も来とらんよ?」
・・・・・・っえ??
「でもたしかに見たし、見まごう事なき王子だったあれは!!」
「なんが王子か、ほんまに大丈夫??幻想的な世界の入り口を発見してしまうほどなんか悩み事しとん?」きりさんがめずらしく心配そうに顔をのぞきこんで尋ねるから、逆に自分が見たものが信じられなくなりそうだ。しかし、瞼のうらに焼きついて離れない姿が確かに存在している。
「恋患いで死ぬかも・・・・」
いやこれも冗談抜きで、心臓止まりそうなんだって。
「なんじゃそれ、死んだらお葬式くらいいったげるけど。じゃなくて、冗談じゃなくてまじめな話、ことちゃん幻覚とかみたんじゃない?」
それはない。と即座に否定する。幽霊が見えたり、霊感が強くて・・・・という話はわりとよくある。私はどちらかというと信じるほうだ。実際そうだという人が近くにいるからだ。
そう、きりさんである。きりさんとは幼稚園のときからの付き合いだが、きりさんには幽霊が見える。あまりその話はしないことにしているが幼いころからそのことできりさんがつらい思いをしているのを私は知っている。
このことは私ときりさんだけの秘密だ。きりさんはこのことを他人に知られるのを何よりも嫌がった。
「まさか幽霊、とか言わんよね」
きりさんが声のトーンを落とす。
少し怖い。この話をするきりさんはなんか浮世離れした雰囲気になるのだ。
「きりさんには、見えてなかんたんじゃったら違うと思う」
やはり、あの姿はわたしが勝手に作り出した幻想の一種なのだろうか?妄想中毒とはいわないが、さえない私でも人並みに恋に憧れることもある。
「ことちゃん、勘違いせんでよ。うちが見とるのだって全部とは限らんのよ。うち周りにはほかの人に見えん者が常におる。それは相対的にことちゃんとか親とかと違うものが見えとるってなっとるだけでのこと。比較に過ぎんわけよ。うちにはことちゃんが見とる世界がわからんもん」
「どゆこと?」
全部じゃないって?
「うちが見とるのはたぶん、あの世にいけれんくってここにとどまってしまった者だけ。もしかしたらことちゃんにはそうじゃないものが見えたんかもしれんてこと。みんながみんな同じもの見とるとは限らんじゃろ?ことちゃんだって例外じゃないかも」
「そんなーーーー」
でも確かにわからないのだ、私には。きりさんが見ている景色を私が見ることはできない。それはきりさんも同じことだ。
みんながみんな同じものを見ている訳じゃない。その言葉は私の心に思いのほか重く響いた。
「妖怪でも見たんじゃない?」
きりさんが面白そうにはぐらかす。
事態は結構深刻なんですよ、きりさん。
「この世のものじゃないって感じなんじゃろ、ことちゃん的に。化かされたんじゃない?狸とか」
「楽しそうに言わんでよー。ほんとにそんなの見えたらどうすればいいん」
「その言い方じゃったら、うちと同類になるんが嫌みたいに聞こえるんですけど~」
「もう、いじめんでよ」
私も釣られて笑ってしまう。そんなこと思うわけがない。きりさんは揚げ足を掬うのがうまい。いつも、思っていた。きりさんと同じものが見えたらいいのにと。勝手な自己満足だけど、そうなれば仲間だよって言えたのに。私たちは一番近い距離にいて、実はものすごく、遠い。
「嫌なわけ、ないじゃん」
きりさんが驚いたように目を見開いている。
「そっか、うちはことちゃんにそのままでいてほしいよ」
自分と同じつらさなんて味わってほしくない。わかってほしいけど絶対にわからなくていい。暗にそう言われているのだ。優しく突き放すきりさんの孤独はきっと百年かかっても私にはわからないんだろう。
「じゃあ、王子さま探しに行きますか。夢見ることちゃんの王子さまを」
勝手に王子さまと呼んでいるがこれが結構恥ずかしい。17歳にもなっておとぎばなしに出てくる王子さまを信じているみたいではないか。あの人はたしかに完璧王子だけれども・・・・私は顔が熱くなるのを感じて耳を隠した。いつだって真っ赤になるときは耳からだ。
これもきりさんにとっては私をからかういいネタなのである。
いつも間に買ったのやらきりさんが私に向かって缶コーヒーを投げる。甲子園で投げるピッチャーのように堂々として、実に美しいフォームだ。っていやいや、ここは一応図書館のロビーですぜ。注意しようとしたら先に職員の男性に注意されていた。
ざまあない。
けれど、きりさんが申し訳なさそうな顔を作って、謝れば許さない男なんていない。この世の摂理とはつまり不公平なのだ。
受け取った缶コーヒーは無糖のブラック。彼女は私がブラックを好まないことを知っている。きりさんこそ純然たるブラックスワンである。
私はさりずめ、みにくいアヒルの子というところだ。
みにくいアヒルの子は王子さまを見つけてしまいました。
そして、たぶん。
叶わぬ恋をしてしまったのです。
神様、きりさま、私はどうしたらいいのでしょう。