泡沫
ふと眼が醒める。
薄暗い。
朝か?
いや、夕刻か。
喉の渇きを憶えてルカは身体を起こす。頭痛は幾らかマシになっていた。
ドアの隙間から明かりが洩れている。
けれど、リビングにクローヴィスの姿は無かった。
彼が冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをキッチンで立ったまま飲んでいると、足元をひやりとした空気が駆け抜けた。見れば大きな掃き出しの窓のカーテンが小さく揺れている。
そっとカーテンを押し退ける。
ベランダにクローヴィスの背中があった。彼は毛布にくるまって佇み、眼下の街を眺めていた。目障りな位に華やかで眩い、浮き足立った夜の街を。
「どうした、柄にも無くセンチメンタルになっているのか?」
皮肉を籠めて、ルカは言った。今日という日がどんな日かを考えれば、皮肉のひとつも口にしたくなる。
そう、恋人たちの、聖なる夜。
「そんなんじゃないよ」
クローヴィスは振り返らずに答えた。けれど、それから少し笑った様だった。
「そんなんじゃないけど……そうかも」
声に滲む自嘲するかの様な笑みと、何処か淋しげな背中。ルカは吐息で笑ってベランダに降りた。後ろから毛布を抱き寄せる。
「世間の風にあてられたか」
クローヴィスの頭越しに、自分も今夜は特別賑やかな夜の街並みを見下ろしながら。眼の奥が痛くなりそうな程の光量と、風に乗って流れてくるお決まりのメロディ。
「そうかもね」
クローヴィスはくすりと笑い、頭を傾けてルカの首筋に頬を寄せた。
「でも違うんだ」
俺は、あぁやって馬鹿みたいにはしゃぎたい訳じゃない。これ見よがしに幸せだって見せつけたい訳じゃない。
そうじゃなくて。
「俺は指輪のひとつも渡せなかったなと思って」
「残るものはなるべく無い方がいい。後悔と未練だけで充分だろう?」
例えばその指輪を、彼女の指に嵌ったままでずっと見つめていられるならいい。彼女がその指輪を愛おしそうに撫でるのを見つめていられるならいい。
けれどその指輪を、指輪だけを見つめなければならないとしたら。
「それでも、俺はリズとの間に何かを残したかったよ」
それが例え、眼にする度に胸が痛む悲しい思い出だったとしても。
だって、悲しい結末が全てじゃない。少し照れながら指輪を嵌める彼女を、嵌めた指先を掲げて嬉しそうに笑う彼女を眼の前で見る事ができる。
ルカはそんな思い出すらも、残さない方がいいと断ち切ってしまうのだろうか。
「ねぇ、ルカも俺には何も残さずにいなくなるの?」
頑なに何も残そうとしない貴方が悲しい。いつか来る「その刻」にばかり眼を向けて、自分の感情を封じてしまう貴方が悲しい。
ルカはクローヴィスの頭に控えめにキスをする。
「できる事ならそうしたいが…きっと残すべきではないものばかり残してしまうのだろうね」
形の無いものの方が、消す事は難しいから。眼に見えるものならば悉く壊してしまえよう。だが、君の中に残る記憶まで壊していく事はできないから。
君をこれ以上苦しめる位なら、何も残していきたくなどない。
「酷い人だね」
クローヴィスはルカの腕に手を重ねながら、静かに笑う。
前の通りを、仕事帰りといった風情の壮年の紳士が通り過ぎていく。ぶら下げた細長い紙袋はきっと最高級のシャンパンだ。暖かい家では美人の妻と、もしかしたら子供たちが待っているのかもしれない。
そう思っていたら、通りの角で幾らか歳若い男と合流した。二、三言葉を交わし、屈託無く笑うその男を軽く受け流して彼は歩みを進める。
クローヴィスは我知らず微笑んだ。あんな風に今この瞬間を、ふたり共に在れる事を、何ひとつ憂う事無くただ純粋に噛み締められたらいいのに。
「残して欲しいか?」
彼の背中が余りに淋しげだったからだろうか、唐突にルカが言った。返事を待たずに、回していた腕をそっとほどく。
ルカは自分の首に手を宛て、それからクローヴィスの首に何かを掛けた。
「これ…」
ルカが首の後ろで留め具を留める。それは彼が唯一いつも身に付けているネックレスだった。一見するとよく判らないモニュメントの様だが、よく見れば女性を象ったものだと判る。頭と腕の無い、芸術的で美しい女性の裸体。
クローヴィスは胸元で揺れるペンダントヘッドとルカを交互に見つめた。
「これはリタの形見」
ルカは少し困った様に首を傾ける。
「どうして…」
だって貴方は残したくないって…。
「さぁ。私も世間の風にあてられたのかな」
ルカはそう言って、眼を見張ったまま立ち尽くす彼からすっと離れていった。
「戻ろう。此処は冷える」
促されるままに、クローヴィスも部屋へと戻る。窓を閉め、カーテンを引く。
「ビーフシチューでも作ろうか」
キッチンで手を洗いながら、ルカが意外な事を言う。
「仕事は?行かないの?」
こんな時間に起きてくるものだから、仕事に行くのだとばかり思っていた。ルカは苦笑した。
「わざわざこんな日に人殺しをする事もなかろう。流石にそんな気にはならないよ」
ルカは滅多に使われない所為で殆ど汚れの無いキッチンの収納から、これまた新品同様の大きな鍋を取り出し、コンロの上に乗せる。
「手伝う」
クローヴィスは微笑んで、ルカの隣に立つ。
「邪魔にならなければいいがね」
「失礼だね」
「いいの?こんなに大切なもの、貰っちゃって」
クローヴィスは、未だ肌に馴染まない銀色のペンダントヘッドを指先で弄びながら言った。ソファの傍らに座るルカを見上げる。ルカは煙草の煙を吐き出し、くちびるを笑みの形に歪めた。
「これは重いぞ。私とリタのふたり分だ」
「うん、そうだね」
彼は愛おしそうにその小さな重みを掌に包み込む。
ねぇ、ルカ。いつか、その刻がきて、俺の隣に貴方の温もりが消え失せても、これを見て思い出すのは悲しい記憶なんかじゃないよ。
これを見る度俺は、きっと今日のこの記憶を思い出す。
だからどうか、残す事を恐れないで。
刻む事を恐れないで。
永遠なんて何処にも無いと判っているからこそ、可能な限りこうして寄り添っていたいんだよ。
ルカは煙草の匂いのする指先で顎を捕らえ、煙草の匂いのする息を重ねた。
きっとこれが、最後の聖夜。
何だか最後の方駆け足ですみません。
クリスマス合わせで半日で書き上げたので(しかもiPhoneでw)、何卒生暖かい眼で見てやって下せぇ。
それにしても、普段季節感が無いもんで、突然クリスマスが舞い降りてものっそい違和感ですww
えぇ、わしが一番違和感憶えてますよ。
そしてこの小話、本当は本編もうちょい進んでから書きたかったという…ww
でも季節ネタはその時に書かないと意味無いからね。
そんな訳で、触発して下さったフォロワーさんに感謝ww
御拝読有難うございました。