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作者: 華月 ゆき

ふわり、一陣の風が吹き抜ける。花々が甘い香りと共に柔らかに舞う。

杏子(きょうこ)は腕を思い切り伸ばしてその風を感じた。

陽が空に眩しく透ける。春だ、と思う。何か起こりそうな、期待と予感を孕んだ春風。

杏子は甘く微笑み足を一歩踏み出した。

白い頬に淡紅が差す。わくわくと手足が感じてはじめている。

ああ、あたし、こういうのに弱いのよね。



「杏ー」

鼻にかかった甘い声に振り向くと、ゆかりが手を振って人の行き交う街中で存在をアピールしていた。雑踏。そう呼ぶに相応しい日曜日の昼下がり。あたしが振り返るとゆかりははあはあ言いながら駆け寄ってきた。ミュールが歩きにくそうにぱたんぱたんと音を立てている。ライトブラウンのウェーブヘアが汗ばんだ首筋に少し貼り付いていた。

ゆかりは人差し指をびっと立てるとあたしに非難の目を向けた。

「遅いーっ」

「ごめんごめん、かなり待った?」

あたしが苦笑しながら謝ると、ゆかりは頬を膨らませてみせた後、少し機嫌を直して首を傾け頷いた。

「うーんまあ、そこのショップ見てたからいいけどお」

ゆかりが指した方向にあるのは夏物のワンピースの飾られているショーウィンドウだった。人込みの中でも華やかに硝子が光って目立っている。夏物の帽子やバッグ、爽やかなワンピースにミュールも飾ってある。見せ方も商品も洗練されている。あたしは首を伸ばして店内を観察した。

「へえ、いい感じじゃん。寄っていい?」

「うん。てゆーか杏の好きそうなものいっぱいあったし」

ゆかりはあたしの腕を取って歩き出した。フラワーベリーの甘い香りが風に乗って届く。どこか初夏を思わせる香りだ。

あたし達は人波を器用に避けて、目的の店へと向かった。



 散々見て回ったショップを後にして、あたし達は本題の美術館へ行った。そう、美術館に行くために今日は約束したのだ。

受付のひとに事前に貰っていたチケットを渡すと、空調機のひんやりとした空気が心地よく流れてきた。

強い日差しにじわじわと火照った体を冷やしてゆく。実は買い物の最中も気になって仕方がなかった。

「あたし、こういうのあんま来ないんだよね」

ゆかりがきょろきょろと物珍しそうに周囲を見回した。

「ゆかり、こっち行くよ」

 あたしは放っておくと迷子になりそうなゆかりの腕を取って、案内通り進んでいった。紹介や注意事項の看板を通り過ぎ、あたしは真直ぐにメインの写真の前へ立った。

 そして、大きなパネルに目を奪われる。

「これが……」

 仁志の写真。

 あたしが息を呑んでいると、ゆかりがひょいと覗き込んだ。

「へぇ、綺麗じゃん」

 それは川の写真だった。森の中で小川が横たわり、燦々とした陽光に煌めいている。

 その清らかな流れは見る者の心まで洗い、ごうごうという流水音がパネル越しに聞こえてくるようだ。

 こういうものを撮るんだ、仁志。あたしは確かめるように呟いた。

「これが、仁志の写真」

 胸の前で強く握った手が、汗ばんでいた。


 仁志に声を掛けられたのは、1年前の春だった。

 短い髪に少し痩せて背の高い、今時のふつうの男。

 いつもなら適当にあしらうんだけれど。

 春の陽気に浮かれていたある意味単純なあたしは、声をかけてきた男に取り合う気になっていた。

 仁志はあたしを気に入ったらしく、熱心にお茶に誘った。

 おごりならいいかと喫茶店に付き合い、あれこれ話して仁志は始終笑顔だった。

 こいつも春の陽気にやられた口か、と思った。

 連絡先を交換しようよと言われ、あたしは軽く頷くと赤外線を触れ合わせた。

 それきりのつもりだった。

 それがどういう訳か、仁志はますます熱心にメールを寄越した。

 杏子ちゃんはなにが好きだの、次はいつ逢える、だの。

 あまりに届くメールに無視してやろうかとも思ったけど、その熱心さに断るのも面倒くさくなって、あたしは時々仁志に付き合った。

 色々話している内に、悪い人じゃないらしい、というのは伝わってきた。

 けれど、それだけ。

 紅茶にミルクをくるりかき混ぜ、あたしは小さなため息をついた。

 仁志はそれを見てにこり笑った。あたしは仁志に恋をすることはないだろうと思った。

 そんなあたしの様子にお構いなしの仁志は、あちこちへと引っぱり回してくれた。

 男としては意識しないけれど、前向きで人のいい仁志といるのが楽しくて、あたしは誘い幾度となく付き合った。


 それから突然、仁志は写真を撮るから外国へ行くと言った。

 ふぅん、行ってらっしゃいとあたしは空港で手を振った。

 それくらいの情は二人の間にできていた。仁志は友達としては、とてもいい奴だと思うから。


 しばらくして、仁志の事を忘れそうになった頃、綺麗な絵はがきが届いた。

 ピンク色の大きな花がこんもりした緑に縁取られ、瑞々しく映っていた。

『この花を見てると、杏子ちゃんのこと思い出すよ。』

 メッセージはそれだけ。

 あたしはこの花か、とまじまじと見ると、結構可愛かったのでいい気分になった。

 返事を書こうにも相手は放浪しているらしく、宛名が定まらないのであたしは受け取るままだった。

 それからもバナナの花が写っていたり、ゴンドラの往く水面が写っていたり、鮮やかなオレンジが写っていたり、

『杏子ちゃん、こういうの好きかと思って。』

『杏子ちゃんもこの月を見てるだろうか。なんてね。』

 書いてあるのはいつもあたしのことばかり。仁志の行動の手がかりはまるでなし。

 ……あんたのことを書いてほしいのに。

 あたしはちょっと苛立って、寝坊した朝アイラインを乱暴に書いてしまった。


 ある日、絵はがきがまた一枚届いた。仁志が居なくなってから3ヶ月目だった。封筒には写真と、

『今度写真展を開くので、よかったら来てください。』

と書いてあった。

 あたしはぽかんと口を開けた。なんなの、仁志、こっちに帰ってるんだったら先に連絡くらいよこしなさいっていうの。

 緩む頬を抑えきれずにあたしは支度をした。スカートなんて新調してしまった。

 あたしは大学時代の友人のゆかりを誘って行くことにした。


 仁志と出逢ってからの時間をゆっくり本のページを捲るように回想していると、

「杏子……ちゃん?」

聞き慣れた声がした。否、しばらく聞けなかった声。

 あたしはいつの間にか閉じていた目をゆっくりと見開いた。

 そして、スローモーションのように振り向く。

 仁志は、あたしの後ろに立っていた。


「仁志!」

 あたしは思い切り仁志の額を弾いた。

「痛っ!」

「ばか、なんで連絡先教えないのよ。電話も全然繋がらないし。それがいきなりなに?個展をします、って、なんなのよ!」

 あたしは仁志を睨みつけ、そろそろと伸ばされる腕を振り払った。仁志ときたら、惚けるような表情であたしを見ている。

「杏子ちゃん、俺のこと、気にしてくれてたんだ?」

「そんなわけないでしょ、っていうかあんな葉書来てたら誰でも気になるでしょ」

 あたしが吐き捨てるように言っても、仁志はお構いなしに目を輝かせている。

 そして鞄の中を探り、一枚の写真を取り出した。

 仁志はあたしの手を宝物の様にそっと取って、その写真を乗せた。

 それはスワロフスキーが鏤められた見事なティアラの写真だった。

「俺と、付き合ってください」

「ばか」

 私は仁志にもたれて顔を押し付けた。

 本当に、なにもわかっていない、鈍感で勝手な仁志。

 あたしの気持ちを気にしているようで全然気にしていない、それなのに好きだと言う。

 どうしようもなくとんちんかんだけど、いつの間にか好きになっていた。

 春の陽気に当てられて、絡めとられていたのは、あたしの方だった。

 あたしはきつく、仁志の腕を掴んだ。

 こいつがまたどこか行ってしまわないように。

お蔵入り予定でしたが、思い切って投稿してよかったです。

読んでいただいてありがとうございました。

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