第8話 獣人たちへ
翌朝、早い時間からドアをノックする音があった。
プレイヤーの現身であるレオンハルト・ベッカーは眠たげな目を擦りながら応対する。
「失せろ」
そして再び、ベッドの住人になる。
むっちりとしたニアの肢体がレオに絡み付く。このSDGの世界にやって来てからというもの、二人が閨を共にしなかったことは一度もない。
「……?」
ニアは一瞬覚醒しかけたが、すんすんと匂いを嗅ぐ仕草をして、レオの存在を確認すると、こちらも再び眠りの世界の住人になろうとする。
とんとん、と再びノック音がする。
「レオ様。レオンハルト様。エルでございます。起きて下さいませ……」
「ん……」
起き上がったのはニアだ。豊かな裸体に、昨夜脱ぎ捨てたままのバスローブを纏おうとして……レオの衣服に身を通す。大きな欠伸を一つして、それから、ぱちんと指を鳴らすと、かちりとドアが解錠する音が響いた。
廊下からリビングに通じるドアを解錠したのは、ニアの『超能力』である『サイコキネシス』(念力)だ。
リビングを抜け、今度は寝室のドアをノックするエルを出迎えたのは、上半身に騎士の聖衣を纏ったニアだった。
寝室に漂う情事の匂いに赤面しながら、
「おっ、おはようございます……」
となんとか告げたエルは、羞恥のあまり、そのまま黙り込んでしまう。
「……用?」
「は、はいっ。昨夜、レオ様とお約束した通り、家族の者を連れて、下のロビーで待っております」
「…………」
ニアは、一時はエルの方をぼんやり眺めていたが、内耳炎の治療の説明については、レオから説明を受けていたのを思い出し、くるりと踵を返すと、眠ったままのレオの肩を揺する。
一方、エルはその様子を目を大きくして見やる。
これはなんだ? 二人はまるで番のようではないか。昨夜もそのことを妹のアルと話し合ったが、レオには獣人に対する差別意識がまるでない。
「んん? ああ、エルか。すまん、寝ぼけていた……」
レオは一つ大きな欠伸をして、身を起こす。
「いえ、とんでもございません」
寝室にまでやって来たエルに対しても寛容だ。というより、気にしていない。名前からすれば貴族ではないようだが、神官としての手並みを見るに彼が治療だけでなく、患者の側に立った考えもできる人格者であることは疑いない。
このニューアークの寺院にいる神官たちに昨夜のケガを治療させれば一体、いくらかかるのだろう。エルは、ぼんやりと考える。代価は銀貨では間に合わないかもしれない。
エルは、仕立て直したニアの衣服を手渡しながら、
「お湯の準備もできております」
と、てきぱきと朝の支度を進めていく。
「……俺の服、出してくれ……」
寝不足のレオは鞄を指さす。
レオは何度か頭を強く振る。
「さあて……はりきって行きますか……!」
そしてまた、長い一日が始まろうとしている。
◇ ◇ ◇ ◇
ロビーでは、エルとアルの家族であろう猫型獣人が二十人以上もひしめきあっていた。その光景に、レオはぎょっとする。
(何人いるんだ……!)
「ひい、ふう、みい……そう言えば、俺、なんて言った? 家族とかなんとか言ったような気がするな……自業自得、なのか?」
指を差しながら猫型獣人の数を数えるレオに、困った表情でエルフの支配人アデルが歩み寄ってくる。
「旦那……エルとアルに何言ったんですか? こんなに獣人を集めて……」
「内耳炎の治療を頼まれてな……これほどの人数を連れてくるとは思わなかったんだ、すまない」
大雑把に事情を説明する。顔色が変わったのはアデルだ。
「治療? 内耳炎のですか?」
その質問にレオは短く肯定する。
「ロビーでなくともかまわない。どこかに広い場所はないか?」
アデルの返事はレオの予想からは大分、外れていた。
「いえ、ここでかまいません。私もお手伝いいたします」
「そうか、すまないな」
アデルの口調からは確固たる意志が感じられた。そこに何となくトラブルの匂いを嗅ぎ取ったレオはうさん臭そうにアデルを見つめる。
「旦那、それでどうなさるんです? 獣人の間では、内耳炎は不治の病ですよ?」
レオは面倒臭そうに頬を掻いた。
「まずは……椅子でも準備してやってくれ。話はそれからだな……」
レオはマントを脱ぐとニアに押し付ける。腕まくりして、それから大声でエルとアルを呼び付けた。
「一人づつ見る! 順番に連れて来てくれ!」
勿論、彼は医者などではない。自信などまったくありはしない。ただ、現実世界では犬を飼っていたことがあり、治療法や予防に若干の知識があるだけだ。
内耳炎という病気は、細菌感染によるものが最も多く、これは感染性の外耳炎や中耳炎から波及して生じる場合が殆どだ。
内耳炎の原因が、中耳炎や外耳炎などから波及している場合、それらの治療を行うことが、内耳炎の治療に繋がる。
簡単な聞き取りや観察の結果、わかったことは、獣人の間でこの内耳炎という病気の罹患率は、年を取るにつれて年々高くなる傾向にあり、症状もそれに連れて重くなっているということだ。
内耳炎の本来の治療は抗生物質の投与や抗真菌剤を用いての治療が常であるが、このメルクーアにそんなものはない。あるのかもしれないが、少なくともレオは知らない。レオが替わりに用意したものはポーションである。
レオが思うに、ポーションと傷薬という二つのアイテムには謎がある。この二つのアイテムの効果は同じHPの回復に用いるものであるが、なぜ、SDGの世界は同じ効果を持つアイテムを二種類用意せねばならなかったのだろう。
――その使用方法は?
傷薬は分かる。これは文字どおり傷に塗るものだ。
だが、ポーションは? 塗るのか? 飲むのか? ニアの話では、どちらでも同じ効果が得られるようだ。
このSDGの世界が現実になってからというもの、彼はアイテムの使用法の考察に短くない時間を費やしている。というのが、この傷薬とポーションのように、同じ効果を持つアイテムはSDGの世界において珍しくない。
このような事態を想像していたのではないだろうか。彼は、この機会にその疑問を払拭するつもりでいる。
レオはまず、患者を重症の者と比較的軽症の者の二つに大別した。それから、軽症者から順に、アデルとエルとアルの三人に耳の洗浄を指示した。
獣人の耳は脳に近い場所にあるためか、非常に敏感な部位である。それは昨夜のニアで経験済みだ。くすぐったいと暴れるニアに対し、レオが用いたのは『パラライズ』(麻痺)の魔法であった。パワーレベルを絞って耳の部位に使用すると感覚が鈍くなったようで、その後ニアは大人しく洗浄を受け入れた。
その経験を踏まえ、獣人一人一人にパラライズの魔法を施して行く。
「旦那……面白い治療をなさいますね」
アデルが興味深そうに聞く。
「寺院の神官たちは違うのか?」
「あのいんちき坊主どもは、こんなことしやしませんよ。効果があろうが、なかろうが、魔法をかけて、はいお仕舞いってなもんです」
「そうなのか?」
「はい。旦那みたいに、一人一人、聞き取りなんて面倒なことしやしません。やつらの頭の中は、金のことばっかりですよ」
アデルは忌ま忌ましげに吐き捨てた。
「…………」
一方、レオはアデルの愚痴など聞いてはいない。注意深く、獣人の容体を診る。
(これは……?)
レオの注意が幾人かの獣人に集まった。
幾人かの獣人が、だらだらと涎を流している。その中の一人……老人の獣人に詰め寄ると、じっと難しい表情で様子を見る。
(流涎の症状が見られる……これは内耳炎の症状じゃない)
更に、見様見真似で瞼の裏と口控内を見る。
(全員共通して口臭がある。歯茎の変色も見られる……これは、何の症状だ……?)
それが酷く気掛かりではあるが、先ずは内耳炎の治療に専念すべきである。
「ポーションで洗浄してくれ。分かってると思うが、デリケートな場所だ。丁寧に、優しくだ」
患者の額に触れてステータスを確認する。
やはり、コンディションの欄に《痒み》を表す表示が出ている。これは物理攻撃の命中率や呪文の成功率に影響するバッドステータスの一種の表示だ。
ここで更に実験的治療を行う。
耳の洗浄を済ませた者と、洗浄を行わなかった者にキュア・ライト・コンディション(CLC)の魔法をかけてみる。
前者に対する効果は覿面で、症状の大幅な改善が見られたが、後者に至っては全く効果が見られなかった。原因を消さない限り、症状の改善は見込めないようだ。
(魔法のパワーレベルを上げればどうだろう……)
思ったが、検証はやめておく。何しろ、数が数だ。とてもでないが、MPがもたない。諦めて耳の洗浄を指示するとともに、彼自身も治療に加わって獣人たちの耳を洗浄していく。
(よし、さくさくいこう)
なんとかなりそうだ。調子を上げたレオは、洗浄の終わった獣人から順に(CLC)の魔法をかけて行く。
最後にステータスを確認して、《痒み》のバッドステータスの表示が解除されたことを確認する。
「おお、耳が痒くない!」
獣人たちは口々に快哉の声を上げた。
「治ったか?」
「はい、はい……! ありがとうございます!」
手を取り、跪いて礼を言う獣人にレオは軽く頷く。
その光景を見ながら、アデルはエルとアルに視線を走らせる。
「一体何者だい、あの旦那。内耳炎をこんなにあっさり治しちまうなんて……おまえたち、名前は聞いてんのかい?」
「はい! レオ様です!」
目をキラキラと輝かせてアルが応える。
「そりゃ、あたしだって知ってるよ。台帳にそうあったからね。あたしが知りたいのは――」
言い直すアデルを遮って、
「レオンハルト・ベッカー様です!」
エルが自信満々で胸を張って応える。
「ベッカー? どっかで聞いた名前だねえ……」
呟きながらアデルは、今もまだ治療を続けるレオを見やる。
レオンハルト・ベッカーは獣人の額に手を当て、静かに視線を落とした。ステータスを確認するその様子は、アデルたちには何らかの加護を与えている神々しい姿に見える。
「失われた英雄さまと同じ名前だなんて、よくできた話ですよ……」
うっとりと囁くように言うエルの言葉を聞いて、アデルは心臓が止まりそうになった。
「失われた英雄!? あれが!?」
「そんなわけないですよ、マダム」
エルは口を動かしながらも、患者たちの耳の洗浄を続けて行く。患者は全員が彼女の親戚縁者である。ないがしろにできようはずがない。
「確かに、レオさまは素敵なお方です。わたしたち獣人を差別しませんし、両の眼にはアレクエイデスの加護の証しがはっきり出ておられます。神官としての腕前だって、ホンとに大したもんです。まさかって、わたしもアルも思いました。でも……あんまりにも若すぎますよ……」
エルの言葉は後半部分が酷く残念そうだった。
「……」
アデルは、きゅっと唇を噛み締める。
サバントをものともしないあの剛腕は? 両目に刻まれたアレクエイデスの印は? 彼は何者だ? 失われた英雄ではないのか。一瞬浮かんだ答えを吹き飛ばしたのはエルの、
若すぎる。
という一言だった。それはアデルの胸に浮かんだ希望も一瞬で打ち砕いた。
『アレスの宝珠』がテオフラストの手に戻ったのが、八年前の話だ。
このことは惑星メルクーアに住む者なら誰でも知っている。皇竜は討伐され、メルクーアの大地には再び緑が戻った。
皇竜とレオンハルト・ベッカーとの戦いは壮絶を極め、レオンハルト・ベッカーは勝利したものの、その存在は『竜の巣』にて永遠に失われた。
目の前で治癒の力を奮うレオンハルト・ベッカーは、どう見ても二十歳そこそこの若造である。八年前はただの子供でしかなかっただろう。『失われた英雄』のレオンハルト・ベッカーが生きていれば、もう少し成熟した男の容姿であるはずだ。
「…………」
アデルは俯き、涙を零しそうになった。
自分が諦めてしまえば、娘のセシルはどうなってしまうのだ。目の前の男があの『失われた英雄』であるレオンハルト・ベッカーなら、娘の『黄金病』も何とかなるのではないか?
アデルは未練がましく、レオを見つめた。
「アスクラピアの加護があらんことを」
跪き、祈りを捧げる獣人たちに応えるようにレオンハルト・ベッカーは瞳を伏せ、静かに聖なる印を切った。
◇ ◇ ◇ ◇
内耳炎の治療を滞りなく終えたレオは、流涎の症状が見られた四人の獣人を前に、厳しい表情で立ち尽くした。
四人の内耳炎を治療後、彼らのステータスに浮かんだ表示は、
? poisoning
中毒だ。《痒み》の表示に隠れて、これまでは見えなかったのだ。
(なんだこれは……?)
初めて見るステータス表示であった。言葉の内容からして、バッドステータスの一種であることには間違いないだろう。
?は不確定名。つまり、何の中毒かはっきりしない。
特性値の著しい減退が見て取れる。特に生命力の減退が酷い。仮に、この症状を改善できたとしても余命はいくばくもないだろう。
「どうだ? 痛みは、酷くないか……?」
彼らはもう、長くない。その思いから、レオは優しく問いかける。
「…………」
老いた獣人たちは、話す気力もないようだ。ゆっくりと首を振る。
その意思表示はよくわからない。痛いのか、それとも痛くないのか。四人の手指は小さく震えている。……これも『症状』の一つだ。
その光景の痛々しさに、レオは目を背ける。
「ニア、この四人に毛布を」
指示を受けたニアが、アデルに伴われ、いそいそと動き出す。続いて、人目を避けた場所にエルとアルを呼び付ける。
「あの四人は、もう助からない」
その言葉に姉妹は棒立ちになった。
「えっ? おじいちゃん、たちが、ですか……?」
「ああ、手遅れだ」
レオは毛布にくるまれた四人の獣人を遠目に見つめる。
「なんの毒かわからないが……中毒だ」
「ち、中毒……?」
二人は、その言葉の意味するところに恐怖しているようだ。口元がわなわなと震えている。
「なにか心当たりはないか?」
「ありません!」
強く反応したのは妹のアルだ。眉を逆立てて、
「わたしたちが毒でも盛ったって、いいたいんですか!?」
悲鳴にも似た声を上げる。
「高価な薬なんて、買って上げられないけど……おじいちゃんたちには、いつだって綺麗な水を飲んでもらってる! おいしいものだって……!」
「アル、やめなさい。レオさまはそういう意味で言ったんじゃないわ」
一方、姉のエルは落ち着いた様子だ。涙を溜めているものの、取り乱すようなことはなく、激高したアルを窘める。
「出来るだけのことはしよう」
これはゲームにしては酷すぎる。レオは胸の内に強い怒りを覚えた。
彼らが何をしたというのだろう。犬も猫もない。獣人たちは体格や容姿に若干の差異があれど、その似姿は人間と大差無い。
このまま彼らを見捨てる……? ありえない。ことさら善人というわけではないが、この状況を前に無関心を装えるほど、彼は不人情ではない。
苦しむ四人に高位の神官呪文『キュア・ヘヴィ・コンディション』をかける。パワーレベルはマックスだ。
まばゆい光が辺りに溢れ、アスクラピアの加護の光が周囲を照らす。
四人の表情から緊張が消え、安らいだ表情になる。続いて、強い治癒の術である『ヒールフル』を詠唱しようとしたところで、立ち眩みを覚えた。
自らのステータス画面を開くと、残MPが半分を切っている。
よろめいたレオを、ぐっと引き寄せるようにして抱えたのはニアだ。
「もうやめよう……?」
「いや、まだだ」
流れ出した冷たい汗を拭い、レオは翳した手に祈りを込める。
「…………」
何に祈るというのだろう。プレイヤーとしての彼は、徹底した現実主義者だ。魔法などという実際にはありもしないあやふやな方法に頼るのは酷い茶番であるように思われる。
その彼の内心とは裏腹に、アデルとエルとアルは初めて見る高位の神官魔法に、はっと息を飲んだ。
『ヒールフル』は複数人を対象とした高位の神官魔法である。そしてそもそも神官騎士のMPは、生粋の神官ほどは多くない。使用限界は、一日辺り五回といったところか。
詠唱を終えたレオは、血の気の引いた青い顔で獣人たちのステータスを確認する。
「よし、治った、ぞ……」
そう呟いて、レオは昏倒した。