第36話 連戦
この日、ニューアークの夜空に星は輝かず、オレンジ色の満月が唯一の存在を主張している。
残暑の熱一枚隔て、押し込めたような緊張感が漂う。そんな夜だった。
市街地から少し南に下がり、ニューアーク一の施設設備を持つ高級宿場『アデライーデ』の地下部分。
従業員の私室が並ぶ、一番奥。客室を含めて、最も大きな間取りを確保している支配人の私室。アデライーデの支配人の居室には、失意のアデルが引きこもって早、六日になろうとしている。
薄暗いオレンジ色の予備灯が照らし出す室の中では、セシルの死後、着の身着のままのアデルがソファに横になり、瞬きすらせず虚空を見つめている。
「…………」
娘が、セシルが死んだ。
その事実から思い描く未来図は、いつもアデルを強かに打ちのめし、絶望させた。
テーブルの上では柑橘系の果実が腐臭を撒き散らしている。
すえたような匂いの漂う室内を、のろのろと覚束無い足取りで歩み、アデルは腐った果実を一つ手に取ると、口元に寄せ、齧り付く。
「……」
口の中一杯に腐った果汁が広がり、猛烈な吐き気を催したが、アデルは咀嚼を繰り返し、それを飲み下す。目元には、びっしりと黒い隈が張り付いている。
このような状況になって尚、生にしがみつくのは、レオンハルト・ベッカーのためだ。
最早、何事にも関心を覚えないアデルだが、悪いことをしたとは思っている。
レオンハルト・ベッカーという男は傲慢であったし、意地が悪くもあったが、弱者には努めて寛容であり、慈悲深くもあった。全てを告白したアデルに怒りを露にしたものの、セシルに対しては全力を尽くして助けて見せた。
あのとき、レオは『治す』とはっきり口にし、それを果たした。だが、アデル自身がふいにした。礼も言ってない。
そのレオが、『お前には罰を与える』と言った。その一言が、今もまだアデルを生に縛り付けている。
アデルは口元に笑みを浮かべた。涙はもう涸れたのだ。だったら笑うよりない。
最早、レオンハルト・ベッカーが下すであろう裁きだけが、アデルが生きる一番強い縁になっている。
――願わくば、死を賜らんことを。
レオンハルト・ベッカーという男は正義でも悪でもない。
正義にも悪にも、等しく価値を認めないアデルには解るのだ。彼はそのようなものは歯牙にもかけない。常に、望むままを行う。
――或いは、それが真の悪。
――或いは、それが真の善。
そのレオンハルト・ベッカーなら、必ずや己の期待に応えるに違いない。どうせ死ぬなら裁きを受けてから死にたい。
壁に据え付けてある内線用のコードレスフォンが鳴った。
室内をけたたましく鳴り響くそれに手に取ると、アデルはいつもの言葉を口にする。
「なんだい……心配しなくったって、まだ生きてるよ。うるさいね。それとも旦那が帰って来たのかい?」
六日前、忽然と失踪したレオがいつ帰って来るか。アデルの興味はそこにしかない。
常ならば、暗い調子のエルが事務的にアデルの生死を確認し、業務連絡を行うのだが、この日は違った。
内線を通して連絡して来たのは、底抜けに明るい調子のアルだった。
「はい、マダム! レオさま、帰って来ますよ!」
「そうかい……」
アデルは疲れたように息を吐き、それから壁際にある姿見に視線を移した。
そこでは、髪がぼさぼさなり、不健康な顔色をした初老のエルフの女がアデルを見つめ返している。衣服は替えてないせいで所々、よくわからない汚い染みが浮かんでいた。
この数日で十年は年を取ったと言っても過言ではない惨状に、アデルは泣き笑いの表情になった。
「ん、わかった。ちっと身支度して行くから、部屋に通しておいとくれ……」
言いながら、アデルは多少の違和感を覚える。アルは『帰って来る』と言ったのだ。その情景が思いつかない。
「……アル。旦那は、今どこに居るんだい?」
内線越しのアルからは、自信満々の返答があった。
「はい、わかりません!」
「……」
アデルは駆けつけてアルを張り倒してやりたい衝動に駆られたが、辛抱強く堪える。
「……馬鹿にしてんのかい? あたしゃ、まだ耄碌したおぼえはないよ」
「それよりマダム、急いだ方がいいですよ? 皆、ラウンジで待ってますから!」
「ラウンジ……?」
一向に見えて来ない会話の内容に、焦れたアデルは内線を切った。
その後、アデルは少し考えて、手早く身体を拭き、衣服を整える。エルやアルのようなメイドの着るエプロンドレスではなく、地味な紺色のロングドレスだ。派手すぎず、かと言ってエルフとしての風格を損なわないよう気を回す。ばっちり化粧をしてコロンを叩きながら、ふと考える。
(だから旦那は、あたしを嫌うのかねえ……)
これまでこのように生きて来た。これしか知らないアデルは変わりようがない。セシルを、全てを失おうともだ。
みっともない姿を晒して、皆になめられるわけにはいかない。まして同情されようものなら舌を噛み切って果てた方がいい。この期に及んでも、アデルはそのように考える。
栗色の髪をシニョン(団子)に纏め、喪中であることを示す為、黒いショールを目深に被る。
アデルは少し窶れた自らの頬を一つ張って喝を入れる。
「……」
このエルフの矜持を、レオンハルト・ベッカーは虚勢と切り捨て、笑うだろうか。それともまた怒りだすだろうか。
それでも、これ以上の無様を晒すわけには行かなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
六日振りに室外に出たアデルは、一階へと続く階段の踊り場付近で思ってもない再会をすることになる。
赤茶の跳ね髪に、少し下がった眦を持つその獣人は、やや憔悴した様子で床に座り込み、通りかかったアデルを上目使いに見上げた。
「犬っ娘じゃないか。こんなとこで何してんだい?」
「隠れているんだ……」
呟くように言ったニアは、膝を抱えるようにして俯き、それきり黙り込んだ。
「はあ?」
見えない話の内容にアデルは首を傾げるが、元々、犬の獣人は多弁でなければ、知能が高い訳でもない。早々にこの場での問答を諦め、告げる。
「旦那、帰って来るってさ」
「……!」
ニアは瞬間、びくりと震えただけで、応えようとはしなかった。
「あんたは行かないのかい?」
「……」
「これまた……何があったか知んないけど、意外な反応だねぇ……。ま、好きにしな」
アデルはだるそうに言い捨てて、ショール越しに階上を見上げた。
そこでは、何故かこちらも少し疲れた様子のエルがやって来る途中だった。
「マダム」
アデルは眉間に皺を寄せる。
エルから暇の申し出があったのは三日前のことだ。ニーダーサクソンの将官アキラ・キサラギから個人の侍女として雇い入れの要請を受けたらしい。
ほかならぬアデルが仕込んだのだ。エルならば上手くやって行くだろう。
アキラ・キサラギは、成り上がりの山出しではあるものの、一応バロネス(女性の男爵位)だ。貴族のお抱えとなるならば、そこらの平民などより余程待遇はいい。獣人のエルにとっては最高の未来の一つだ。
だが、妹のアルは、どうなるのだ? 頓着しないところが如何にも猫の獣人らしい。臆病、惰弱の性質は聡さにも通じる所がある。
それとも、妹のアルより、アキラの方に共感するものがあったのだろうか。と、アデルはそんなことを考える。
エルは蹲るニアを軽く一瞥して、それから言った。
「アルタイルとエミーリア騎士団から、何度か使者がやって来ました」
「うん……? ああ……」
アデルは納得したような返事をして、やはりニアを一瞥すると表情を険しくした。
「旦那と、アレクサンダー・ヤモのことだね」
「はい。レオンハルトさまのことは上手くごまかしましたが……」
騎士としての『戒律』に縛られるエミーリア騎士団ならともかく、アルタイルが簡単に引き下がったのは納得できない。エルにはその思惑がある。レオがアデライーデに逗留していたという事実がある以上、支配人のアデルが拘束された所で何の不思議もないのだ。現に、アルタイルは冒険者ギルドの支所を接収している。
エルは詰問こそしないものの、言外に匂わせるのは、アデルとアルタイルとの個人的な関係性だ。口調には多少の非難が含まれている。
アレクサンダー・ヤモは、『アデライーデ』のお得意様であった。しかし、居ない方がいいお得意様だ。飲んだくれ、気まぐれに銃を振り回し、勢いで発砲し、殺人すらも平気でやらかす。ニューアークに住む者なら、彼の無法を憎まない者はいない。それはアデルとて例外ではない。
アデルは肩を竦めた。
「あたしゃ、別に後ろめたいことはありゃしないよ」
言い置いて、アデルは階段を上がる。もう一度、ニアに視線を向けたが、抱えた膝の間に顔を埋めるようにして蹲ったままだった。
「そうですか」
突っ慳貪に言って、エルもその後に続く。
アデルは『エルフ』だ。プライドの高い彼女は、獣人のエルに言い訳はしない。エルの方でも追及はしない。
一階に辿り着いた所で、アデルは一度足を止め、独り言のように言った。
「あたしがどうとか言うより、背後で動いてるやつの影響だと思うけどねえ……」
エミーリア騎士団が出張ったというなら、『姫将軍』の存在も考慮に入れるべきだろう。少なくとも、アデルはそう考える。
レオンハルト・ベッカーという男の身柄は、アルタイルとニーダーサクソンの間で揺れているのではないか。まるで綱引きのように。それが原因となって、現在の中途半端な状況を作り上げているのではないか。
渡り廊下を本館へ向かって歩くアデルは、空を見上げる。
星一つない満月の夜。だが、曇った空が赤黒く光り、揺れている。雲一つ隔てて地獄が存在するのかもしれない。
「なんだいこりゃあ。世も末じゃないか」
そう言えば……レオンハルト・ベッカーは以前、ニーダーサクソンに行くと言ったのだった。そのことを思い出し、アデルは歪んだ形の笑みを浮かべる。
遠く北方からやって来た『姫将軍』と『失われた英雄』。
曾て、失われた英雄は、見目麗しいエルフの娘を愛した。
そして――『アルタイル』。
新しいサーガの誕生を思わずに、いられない。
不気味に染まる夜空には関心がないアデルだったが、使用人の姿が見えないロビーの光景には不快を露にした。いつもなら忙しなく動く掃除女の姿も見えない。
「なんだ、皆揃って業務放棄かい。いい根性してるじゃないか」
それに関する返答をしたのはエルだ。
「皆、三階のラウンジにいます。あそこが一番、空に近いですから」
「空に近い……?」
訝しげにアデルは反芻し、首を傾げると正面ロビーのエントランスに視線をやる。
そこでは黒い装束を着込んだ男が二人、何をするでもなく、柱にもたれ掛かっている。
彼らは通常の騎士と姿格好は違うものの、身に纏う物々しい雰囲気と剣呑な視線は、戦場を行き来する者のそれだ。
エルが言った。
「今、アデライーデは、キサラギ少将直属の一個連隊『猫目石』の保護下にあります」
アデルは強い視線でエルを睨んだ。
「エル、あんたが手引きしたのかい?」
「はい」
エルは目を逸らすことなく、アデルと向き合った。
己の預かり知らぬ所で『軍隊』を引き込んだのか。そんなことは、大きな騒動の原因にしかならない。
アデルの肩は強い怒りに震えたが、それも一瞬のこと。小さく舌打ちし、それ以上言葉を発することはなかった。踵を返し、階段を三階のラウンジに向かう。
エルは強い目をするようになった。少し信仰が強いくらいしか特徴のなかった娘だったが、アキラ・キサラギとの出会いを経て、己の赴く先を見つけたのだろう。瞳には意志が感じられる。
娘は死に、使用人にはそっぽを向かれる。
(あたしも年を取るわけさ……)
自嘲の笑みを浮かべるアデルに、エルが追従する。
三階のラウンジは、アデライーデの従業員のほとんどが集まっており、物々しい熱気に包まれている。
窓際では、アルを先頭に、従業員たちが祈るようにして胸の前で手を組み、赤黒く染まった空を見上げていた。
「なんだい、ありゃ。なんだか、カルトの匂いがするねえ……」
怪訝そうに言うアデルに答えたのはエルだ。世界の終わりすら予期させる空を指し、言う。
「あんなことが出来る方は、そうはいません」
「え?」
脳裏に稲妻のようにレオンハルト・ベッカーの顔が浮かび、アデルは呆然としてしまう。
「いや、それはおまえ……幾らなんでも……」
ない、とは言い切れない。現実主義のアデルですら、或いは、と思ってしまう。それだけの不思議と期待感が、彼には確かに存在する。
「おい、姐さんの勝負服、持って来てるか?」
ごくり、と息を飲むアデルの耳に、黒装束の男の声が飛び込んで来る。
カウンターの席に腰掛け、のんびりと酒を飲んでいる三人の男たちは、エルが手引きした『猫目石』の連中だ。
「おお、エロ・スーツ!!」
「馬鹿、ニンジャスーツって言え。姐さんに、どやされっぞ」
「あー、やばい! 本隊――サスケさんとこにありますよ」
なんだあの馬鹿共は。
雰囲気を弁えない三人組に、しかめっ面のアデルが振り返るのと、アルが声を上げたのは同時のことだった。
「ああっ!!!」
再び振り返ったアデルは、窓越しに見える光景に、言葉を失った。
赤黒く揺れるばかりだった空が、幾重にもひび割れ、縦横に金色の光を放っている。
『ひび』は、益々大きくなり――今度は『猫目石』の三人組が席を立つ。
「はじまったな!」
「うわっ、やばいっすよ! エロ・スーツ持って来ないと!!」
「うし! 猫目石、出るか!!」
アルが叫んだ。
「さん!」
赤黒い空に走ったひびは、更に大きくなり、今にも割れ砕けそうだ。
エルが唇を震わせ、呟いた。
「ああ、レオンハルトさま……そんな、そんな……」
アルが再び叫んだ。
「にい!!」
猫目石の三人組が怒鳴りながら、ラウンジを飛び出して行く。
「丸太ん棒はどうしますか!?」
「ギルドの前に誘導してやれ!」
「アルタイルへの当て馬にするのか!? そりゃいい!」
立ち眩みを感じたアデルは、蹌踉めくようにしてその場にへたりこんだ。それにはまったくおかまいなく、アルが快哉を叫ぶ。
「いち!!!」
アデルは、ぽかんと大口を開いたまま、大きく裂けた空を見つめる。
「う、嘘だろ……」
だが、確信にも似た予感がある。こんなことが出来る人間は、レオンハルト・ベッカー以外にはありえない。それを裏打ちするように、
「ぜろ!!!!」
そして――
「どっかーーん!!!!!」
アルが正拳突きを繰り出すのと同時に、世界の終末すら想起させた空は、罅から溢れ出す青白い光りによって内側から砕け散った。
月夜の闇を切り裂いて、あまりにも剣呑な夜のしじまを突き破り、青白い稲光に身を包み現れたのは、失われた英雄――。
レオンハルト・ベッカーだ!




