第25話 ふたり2
アキラは捻り上げられた頬を摩りながら、先を行くレオの後を追った。
「くそう……何も、ほっぺをつねることはないじゃないか……」
「やかましい! 油断も隙もないやつだ!」
レオは怒っているが、この数日中では、一番元気がいい。
黙り込んだままpcに向かい、疲れれば倒れるようにして眠る彼の姿には不安しか覚えなかった。
沈んでいるときは、騒がしいくらいが丁度よい。アキラには、その思いがある。
人気のない場所で足を止めたレオは、がしがしと頭をかき回すと、先程受け取った紙幣をアキラに押し付けた。
「……まあ、やり方は褒められんが、お前の稼いだ金だ。持ってろ」
紙幣を押し返し、アキラは言う。
「いいよ、一度あげたものだしね。どうせ、メルクーアでは使え、ないし……」
アキラは、少し言い淀む。
レオンハルト・ベッカーが金に始まり、様々な事柄に無関心であったり、無頓着である理由の一端を垣間見たような気がしたのだ。
レオンハルト・ベッカーにとって、メルクーアでの出来事は、皆一様に無価値なのではないか。その思いが胸を掠めたのだ。
「だったら、ケツ紙にでもするんだな。人が来る前に行くぞ」
レオは大きなスポーツバッグを二つ抱え、ずかずかと歩いて行く。その後に続くアキラは暗く、狭い通路に出た所で、一瞬だけ足を止める。
通路の端の消火栓が放つ赤い光が目を穿つ。
『病院』での一幕を経て、レオンハルト・ベッカーは変わりつつある。やはり、以前より悪い方へ。アキラは、理屈でなく、直感でそれを理解している。
立ち止まったアキラに振り返り、レオは短く息を吐き出した。
「……怒って悪かったよ。……拗ねてるのか?」
「……」
理屈ではない。レオの変化に、自分が無縁でないことをアキラは知っている。
明かりを避けた通路に立ち止まり、アキラは言った。
「キミは、レオンハルト・ベッカーだよね……?」
「ああ、俺はレオンハルト・ベッカーだ」
口元だけを歪めて笑う彼の笑みは、薄暗い闇の中では鋭利な光を放っているように見えた。
暗がりで、アキラの表情がくしゃりと歪む。
――止められない。
この変化が、もう止められないことを、アキラは知っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
なにはともあれ――外出の運びと相成った。
通りに出た所で、真夏の太陽が二人を灼く。
アキラ・キサラギのコバルトブルーの瞳は色素が薄く、陽光を嫌う。うっ、としかめっ面になりながら、続いてやって来た熱気に、Tシャツの胸元をパタパタやった。
アキラは、レギンスにTシャツという簡素な格好だ。特長のある長刀『菊一文字』は脇差と一まとめにされて布に包まれ、背負われている。
「その雑嚢には何が入ってるの?」
レオが肩に引っかけた大きなスポーツバッグを指し、アキラは首を傾げる。
「色々だよ。ほれ、おまえのだ。私物もその中に入ってるからな」
言って、レオは自らのものより一回り小さなバッグを投げ渡す。
「トーガだけ着てもいい? このTシャツってやつ、涼しいけど、少し生地が薄すぎる。身体の線が見えちゃってさ……」
「……見られて困るような身体でもないだろうが、まあ、好きにするんだな」
「キミは時々、命知らずだよね」
そんなことを言い交わしながら、二人は『リアル』の街を歩く。
すれ違うサラリーマンやOLたちが、ちらりと二人に視線を送るが、それも一瞬のことだ。何も見なかったかのように、雑踏に消えて行く。
雑踏は川の流れのように駅の構内に流れ込んでいる。
「うわ……何、あれ……ネズミの集団自殺みたいで、すごく不気味なんだけど……」
「ああ、あれか。行ってみるか?」
アキラは疑わしそうに眉を寄せる。
「そんなこと言って、ボクをからかうつもりじゃないだろうね。キミときたら、ふざけが過ぎる時があるからな。その手には乗らないよ?」
「そうか……残念。通勤ラッシュを体感させてやろうと思ったのに」
そう言って、レオは悪戯っぽく笑う。
「き、キミね……よくわかんないけど、いい気はしないよ……」
どきん、とアキラの胸が鳴る。
「それじゃあ予定通り、お食事&ショッピングと洒落込むか」
お道化たように言って、レオは恭しく頭を下げるとアキラの手を取った。
「な、なになに?」
困惑するアキラに、レオはぱちりと悪そうなウインクをして見せる。
「こういうのは、雰囲気が大事なんだ」
表情に潜む陰は隠しきれないけれど。そこにいるのは、悪戯好きで、不埒者の、アキラの大好きなレオンハルト・ベッカーだった。
◇ ◇ ◇ ◇
レオは電車での移動を嫌ったアキラのため、レンタカーで移動を決めた。
(許せよ、俺……)
支払いは全て『彼自身』のクレジットカードで行った。
順路から外れ、大きく遠回りをして高速道路に乗り、懐かしいドライブコースを辿るレオの心境は、
(もう、戻れないかもしれない。焼き付けよう……)
というものだ。
助手席で少し悩んでいる様子だったアキラは、車が高速道路を抜け、眺めのいい海岸線を走りだしたころには気分が変わったようだ。きらきらと瞳を輝かせ、あちこちを指して、レオに見慣れぬ物体の説明を求めた。
「ねえ、あれは!? あの不気味な形の岩は、なんのためにあるの!?」
「テトラポットだよ。あれはな……」
車窓を少し開き、潮の匂いのする外気を車中に取り込む。
以前、何度も繰り返し、それこそ飽きるほど通った道だ。助手席には、いつも同じ女性が居て微笑んでいた。
「なんかいいね、こういうの」
その助手席では今、アキラ・キサラギが笑っている。
レオがアキラを連れ立って訪れたのは、郊外にある大きなショッピングモールだ。
食品、衣料品、貴金属、家電製品、書籍のほかには、ゲームセンター、大型のシアター。見晴らしのいい屋上にはレストランを備えており、デートコースとしては定番の場所だ。
「行こう。一番いい席を取ってあるんだ」
「う、うん」
車を降りたところでアキラは赤面し、急に歯切れが悪くなった。視線は定まらず、あちこちを見てはレオを上目使いに見るということを繰り返す。
「どうした?」
「あ、いや、その……ボク、こういうの、その……」
「んん、照れてんのか? まさか、初めてっていうもんでもないだろ」
成人男性であり、日本人である彼には、ごくごく常識的な考えだ。
「ち、違――!」
「あー、うるさいうるさい! 難しく考えるなって! 行くぞ!」
何事か悲鳴を上げ、猛烈に抗議を始めたアキラの手を引いて、レオが目指したのはアクセサリーの販売店だ。先日の『翠石の指輪』の返礼のためだった。
◇ ◇ ◇ ◇
一方、レオに手を引かれるアキラは混乱を起こしつつあった。
見るもの全てがメルクーアの一般常識から掛け離れていることもそうだが、レオと一緒に、邪魔者なしで買い物や食事をするという現実にアキラは対処できずにいる。
異性としてのレオンハルト・ベッカーには少なからず好意を感じている。しかし、実際このような状況に置かれては、どう振る舞っていいかわからない。男女交際経験のないアキラには難しい問題だった。 アキラの視線は、あちこちふらふらとさ迷い、続いて繋がれた手に釘付けになった。
「ア・キ・ラ! 何、ぼーっとしてんだ?」
はっ、とアキラが我に返ったとき、その視界に捕らえたのはガラス越しに飾られたブレスレッドやペンダント等が印象的なアクセサリーのショーケースだった。
一瞬でアキラの意識は飽和状態になった。
「……」
その飽和状態のアキラに、レオは言った。
「どれがいい?」
『でも、レオは以前より優しくて……』
そう言ったニアの言葉を、アキラは思い出した。
レオンハルト・ベッカーの空白の八年間。
彼が生きていて、この『現実』に居たというなら、それなりに経験を積んでいるのは当然のことだ。ニアの言葉は、この変化を指してのことだったのだろう。
アキラの震える指先は、ショーケースに並ぶ一つの指輪を指す。
「……あのプラチナの指輪か。ちょっと待ってろよ」
瞬間、レオは鼻白んだ。値段もきついものがあったが、アキラが指した指輪は、エンゲージリングだったからだ。
アキラは指の径を測られている間、意識を飛ばしたままだった。
やって来た店員は、レオとアキラの格好を一瞬、訝しむように見たものの、取り立てて指摘するようなこともなく、レオと二、三会話をした後、店の奥に引っ込んで行った。
「引き渡しがすぐでよかった」
レオは言って、店員から受け取った白い小箱をひらひら振った。
「アキラ、メシにしようか。腹減って来た」
「うん……」
◇ ◇ ◇ ◇
その後、アキラは無言だった。
屋上へ続くエレベーターを待つ間、苦しそうに胸を押さえ付けたままのアキラは、時折、せつなそうに熱い吐息を吐き出し、口を噤んでいる。
徐々にそういう雰囲気になるのを感じ、レオは軽く頬をかく。
平日の午前中ということもあり、ショッピングモール全体において利用者は少なく、人影はまばらだった。
海岸線を一望できるエレベーターの狭い一室で、レオとアキラは二人きりになった。
胸ほどまでしかないアキラの手が弱々しく伸びて来て、レオの袖口を引っ張った。
「…………」
アキラ・キサラギのコバルトブルーの瞳が、瞬きすらせずレオを見つめている。
レオが一瞬、思い浮かべたのはニアの顔だった。
彼という男は女好きではあったけれど、二股は好まない。
ニアとは『そういう関係』だ。だが、この場でそれを口にするのは野暮が過ぎるというものだった。
彼は特別、ニアとの『そういう関係』を隠した覚えはない。つまり、アキラは、知っていてやっている。面倒なことになるのを承知でやっている。要するに、受け入れるかどうかは、彼自身の問題なのだった。
二人きりのエレベーターは、ゆっくりと、だが確実に目標に近づく。
そして、レオンハルト・ベッカーという男は迷うことが好きでもなければ、このエレベーター内で女性とキスすることが初めてであるというわけでもない。
潤んだ瞳を逸らさぬままでいたアキラ・キサラギが、そっと瞳を閉じた。
アキラは覚悟を決めている。面倒を承知で欲しい時もある。男はそういう生き物だ。だとすれば、答えは一つだった。
力強い腕で、アキラの腰を引き付けると、レオは迷うことなく口づける。
ここでキスをするのが初めてというわけではない。違うのは、この日求めた唇は、彼が知っているものよりいくぶん小さく、そして少し震えているということだけだ。
「あいしてる……」
掠れた声で、アキラが囁く。
レオは、更に強い口づけで応える。
――何もかも、遠くなる。
『リアル』の海岸線を一望する狭い一室で、扉が開くまでの短い時間、二人は、固く抱き合ったままでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
レストランに予約しておいた一番眺めのよい席に案内される間、二人は無言だった。
アキラは、顔から火が出るのではないかというくらい赤面し、倒れてもおかしくないくらい緊張していたが、レオの方はいつもと変わりなかった。
礼儀正しそうなウェイターは、気の毒なアキラを一瞥し、やはり奇妙な二人の衣装に怪訝な表情になったものの、追及するような真似はしなかった。
席に腰掛けたアキラは、眺めのよい景色など目に入らないようで、俯き加減に受け取ったメニューと睨めっこしている。
その様子にレオは笑んで、静かに待つウェイターに、
「今日のおすすめで。彼女にも同じものを」
オーダーをした後、メニューを閉じた。
少し慌てた様子のアキラもそれに倣い、ウェイターは一礼してその場を去った。
平日の午前中ということもあり、このレストランも人気は少なく、閑散としている。
沈黙が作る男女の緊張に耐え切れず、アキラが言った。
「キミは、こういうの、な、慣れてるみたいだね」
レオは殊更返答をすることはせず、間近にあったコップの水を一口飲む。
彼にとって、この一幕は、なんら変わり映えしないいつものことだ。分厚い強化ガラスから見下ろす海に視線を送る。
「アキラ、砂時計は? 時間はまだありそうか?」
「え? あ、うん」
アーティファクト『時の砂時計』はアキラ・キサラギの所持品だ。譲り受けることもできたろうが、今のところ、管理はアキラに一任してあった。
「見える所に置いてくれ」
「そうだね」
ごそごそとバッグを探るアキラに、レオは言った。
「余裕はあるか? 部屋を取ろうと思う……」
俯いたまま砂時計を確認したアキラは、再び、かっと頬を染め、こくりと頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇
運ばれて来た料理に舌鼓を打つわけでもなく、二人の食事は淡々と始まった。
レオには特別珍しいメニューではなかったし、アキラは上の空でグリーンピースを皿の端に寄せていた。
やがて、レオが視線を背けたまま、言った。
「そうだ、言い忘れていたことがあった……」
「な、何かな……?」
レオの一挙手、一投足に鼓動を打ち鳴らす心臓を憎らしく思いつつ、アキラは視線を上げる。
「俺は……」
何事か言おうとして、躊躇いがちに黙り込む。その動作を何度か繰り返し、やはり、レオは視線を合わせないまま、言った。
「俺は、どうしても、昔のことが思い出せない」
「……」
「俺は、お前の知ってるレオンハルト・ベッカーじゃない」
アキラにとって目の前の彼は、レオンハルト・ベッカー以外の何者でもあり得ない。
きょとんとするアキラに、レオは、やや気まずそうに、やや憂鬱そうに言う。
「二度目……漠然とだが……そういう実感はある。けど、それだけだ。ニューアークで会うまでは、お前の顔も知らなかった」
この何日かの間、何度も思い出そうと努力した彼の得たものは、自らが『レオンハルト・ベッカー』足り得ない、というその認識だった。
二度目。ただ、それだけ。記憶の整合性を保つため、過去は完全に『ゲーム』として認識され、思い出は壊れ、何も残さなかった。
メルクーアでの『死』が彼に与えたものがそれだ。
記憶は虚構と現実の間に揺蕩い、思い出は永遠に損なう。
レオンハルト・ベッカーという『パーソナリティ(個性)』は、永遠に壊れたのだ。
メルクーアの住人であるアキラ・キサラギには痛いほどよくわかる。
――それらはもう、永遠に戻らない。
アキラは、ここに至り、ようやく悟った。
目の前の彼にとって、『レオンハルト・ベッカー』という過去の残像は、最早、重荷でしかないということに。
おそらく、彼は努力し続けたのだ。レオンハルト・ベッカーであるために。
レオンハルト・ベッカーであるために、変わらず英雄であるために、万人のために命を削り、命を賭けて戦った。
――努力し、失敗し、涙を流したのだ。
アキラは選ばねばならない。
過去の思い出の延長線にあるレオンハルト・ベッカーを愛するか。
目の前の、最早、誰でもないことを欲する彼を愛するか。
アキラの頬に、涙の筋が伝う。
彼女が愛したのは――レオンハルト・ベッカーという名前ではない。それを世界の全てに誓ってもよい。
だが、彼に、何度も『レオンハルト・ベッカー』であることを強いた。
何度も、何度も――。
その事実が、胸に、痛い――。
「ご、ごめんなさい……」
アキラは、生まれて初めて、その言葉を吐き出した。
「ごめんなさい……いつも、自分のことばっかりで、ごめんなさい……」
嗚咽が次から次に湧いて来て、アキラの言葉を妨げようとする。
それでもアキラは止まらない。途切れがちに、精一杯言葉を紡ぐ。
――大っ嫌いだ! 死んじまえ!
――キミは、レオンハルト・ベッカーだよ。
「ごめ、んなさい……キミに、いっぱい、いっぱい、ごめんなさい……」
八年間の月日が、アキラ・キサラギを大人にしていた。
過去に於いて、自分がどれだけ残酷に奪ったか。そしてまた現在、どれだけ残酷に彼を傷つけたか。知らぬ振りを出来るほど、彼女はもう、子供ではなかった。
レオは困ったように言った。
「なんで謝る。お前は何も悪くない。俺が言いたかったのは――」
レオは言葉を切り、疲れ切った様子で、溜め息を吐き出した。
「もういい。混乱させて悪かったな。そういうつもりじゃなかった。さっきの言葉は忘れてくれ」
「え? ……え?」
レオは、アキラの涙に動じることもなければ、困惑することもなかった。
彼はもう、理解されることを必要としていない。視線を窓ガラスの向こうに飛ばし、呆れたように首を振ってから、ひたすら困惑するアキラに言った。
「もうメルクーアに帰ろう。砂時計の術を解いてくれ」
「…………」
力なく項垂れるアキラの頬に、新しい涙が伝う。
レオンハルト・ベッカーという男の心はもう、擦り切れてしまったのだ。それは、ほかならぬアキラがやったのだ。そしてもう――
自分には、この変化が止められないことを、アキラは既に知っていた。




