第7話 威圧
『大魔法』の奇跡以来、アデライーデのダイニングルームは一般人に向けても解放されるようになった。レオンハルト・ベッカーを一目見たいという民衆の意をアデルが汲んだ形であるが、本人は、当初これには消極的であった。
アデルは元を辿れば、魔道都市『オンデュミオン』の貴族である。彼女のエルフとしての矜持と、元貴族としてのプライドが一般大衆との交流を拒んだのだ。
ホテル『アデライーデ』への一般人の来客を頑なに拒んでいたアデルではあるが、『大魔法』の一件ではそれが危うく暴動に繋がりかけた。
貴族崩れのアデルにとって、『アデライーデ』は最後の城である。それを民衆の暴動によって失うわけにはいかない。やむを得ず、一般大衆へのダイニングルームの解放ではあったが、これはアデルの予想を大幅に超え、大成功の傾向を見せつつある。
当初、アデルは一般人の来客によるマナーの低下や衛生環境の劣化、格式を重んじるエルフらしく風格の低迷を嫌ったが、その懸念は無意味なものだった。
窓際の席にて朝食を摂るレオンハルト・ベッカーが撒き散らす静寂と厳粛な雰囲気がそれらの懸念を全て吹き飛ばした。
レオンハルト・ベッカーは朝の喧噪を嫌う。彼の持つ独特な雰囲気と緊張感があらゆるアンチマナーを許さない。港でのサバントの一件以来、それは大きな抑止力と強制力を纏うようになった。
ダイニングルームには連日、大勢の一般大衆が詰め掛けるが、彼らは皆、清潔な身なりと節度ある態度を心掛け、アデルは己の懸念が杞憂であったと胸を撫で下ろした。
災い転じて福と為す。レオンハルト・ベッカーの持つ不遜と傲岸が『アデライーデ』のホテルとしての格と名声を上げつつあるのは、未だ彼との間に友誼を築くことのできないアデルにとっては皮肉である。
ホテル『アデライーデ』は、英雄『レオンハルト・ベッカー』の逗留先である。その事実は、民衆には敬意と感謝、そして脅威の対象であるという事実にも直結している。
そして、今朝。
支配人のアデルは、そわそわと落ち着きがない。レオンハルト・ベッカーとその従者ニアの足元にある大きな二つの鞄がアデルの不安を煽っている。
「どうしたんだい、バアさん。尻に虫でもいるの?」
声を掛けてきたのは、ニーダーサクソンの女騎士、アキラ・キサラギだ。
「これはデイムどの(女騎士)。おはようございます」
なんと無礼なやつだろう。アデルは額に青筋を浮かべながらも、口元に笑みを浮かべて応対する。
「ボクはバロネス(女性の男爵位)だ。みくびるんじゃない」
アキラ・キサラギは長い髪を青いリボンで一つに纏め、騎士の衣装に身を固め、特長のある長刀を背負っている。
「これは失礼をいたしました」
(このチビ、スカしやがって!)
アキラは腕を組み、アデルの隣で遠巻きにレオに視線を送る。
「おや、彼、出て行くみたいだね」
「……!」
やはり、とアデルは内心焦る。そもそも、レオンハルト・ベッカーが出て行くと言ったのはいつの話だ? あれから何日経った? 彼が去って、このニューアークはどうなるのだ? セシルは? だれが彼の代わりをするんだ?
「止めないの?」
にやにやと笑うアキラは嬉しそうだ。内心の焦りを見抜かれているような気がして、アデルは、あまり面白くない。
「……そりゃ、止めたいですよ。けど、あたしゃ、これ以上ないくらい嫌われてるんですよ。止めたって、旦那は口も利きやしませんよ……」
アキラは眉を寄せ、首を傾げる。
「バアさんは、人殺しなのかい?」
「はい?」
「じゃなきゃ、あれか。レオが嫌うとしたら、あれしかないもんな」
「な、なに言ってんだい?」
アデルの被った接客用の仮面が、言葉遣いと共に崩れ出す。
アキラは嫌悪感を剥き出しに、言った。
「幼児虐待が趣味の変態め……! なんておぞましいやつだろう」
「なっ! この悪魔っ娘! なんてこと言うんだい!」
「……あれ、違うのかい?」
「違うよ! ったく、いいかげんにおし!」
その後、二人は、そっぽを向いて、ぱったりと沈黙を選んだ。
「……」
アデルはそわそわとレオに視線を送る。その隣でアキラは腕組みのまま動かない。
痺れを切らしたのはアデルだ。
「悪魔っ娘……落ち着かないから、どっかに行きな」
「おやおや、そっちが本性か。まあ、ボクはそっちの方が好きだけどね」
「あんたに好かれたって、これっぽちも嬉しかないよ。……行きな!」
最早、苛立ちを隠そうともしないアデルに、アキラは溜め息混じりに答える。
「行ったって無駄なんだよ。黙行の最中だから」
アデルは、あっと叫びそうになった。
(なんて忌ま忌ましい坊主だ! レオンハルト・ベッカー!)
メルクーアの神官が朝食時に黙行をするのは特に珍しいことではない。『アスクラピアの沈黙』だ。それを邪魔すればどうなるか。
先日のレオの態度を思い出す。
『明日世界が終わるとしても、俺が望まない限り静かにするんだ』
全くもって忌ま忌ましい。あれが坊主の言うことか。両肩を怒りに震わせ、アデルはその場を立ち去った。
◇ ◇ ◇ ◇
レオンハルト・ベッカーは黙行を行っている。通常、黙行の時間は神官によってまちまちである。高位の神官ほど、黙行の時間は長くなり、邪魔されることを嫌う傾向がある。
「エル、アル……来な」
姉妹を呼ぶアデルの声は、怒りのため刺々しい。
姉妹は前掛けを揉み絞りながら、二人で何事か言い交わしていたのだが、女主の呼ぶ声に反応してやって来た。
姉妹の様子は対称的なものだった。
エルの場合、アデルなど比較にならないほど困惑していた。
「ああ、ああ、マダム!」
「いいよ、何も言わなくて。……で、坊主のだんまりはいつ終わるんだい?」
「わかりません。ああ、わからないんです……!」
「おまえでもかい? そいつは重症だねえ……」
このやり取りも腹が立つ。姉妹は主である己よりもレオンハルト・ベッカーという男を理解していたのだ。なるほど仲良くやるわけだ。
エルの頬に、涙が一筋落ちる。
「サバントです! あの憎たらしい機械人形が、レオさまの声を持って行ってしまいました……」
「そんなわきゃ、ないだろう。でもまあ……あそこで何かを掴んだんだろうねえ」
アデルは眉を寄せる。
数日前の話になるが、港から帰って来たレオの様子はただ事ではなかった。全身を己の血に染め、何時もなら側に侍るニアですらも引き連れず、ただ一人で帰って来たのだ。
レオンハルト・ベッカーが港での戦いで掴んだものは、絶対に良くないものだ。それは彼自身の命を削る不吉な何かである。アデルはそのように考える。
取り乱したエルとは違い、アルの方は、あっけらかんとしている。
「だいじょうぶだよ、きっと。王さまに任せておけばさ。何か、深い考えがあるんだよ」
「王さまだって!?」
アデルは飛び上がりそうになった。
(ああ~……それだよ! あたしがこの前思ったのは!)
あの憎たらしいレオンハルト・ベッカーを坊主などという善良なもので片付けられしまっては、たまったものではない。
王。
それならば説明が付く。俗世に関する無関心や、弱者に対する慈愛。時には冷酷であるとすら感じるあの迫力、威圧感。そもそも神官騎士の戒律は、一国の王としての美徳を備えているのではないか。その思いがアデルの脳裏を過る。
だが、エルが全身でそれを否定する。
「違います、違います! レオンハルトさまは、英雄でも、王でもいけません。そのどちらの生き方もあの方を殺します!」
エルの言葉はただの願望である。好ましいかもしれないが、それだけだ。レオンハルト・ベッカーの実像をより正確に反映しているのはアルの方だ。それだけにアデルは持て余す。王などというものを、どの様に扱えばよいのだろう。
差し当たって、アデルは告げる。
「エル。おまえは、少し旦那に入れ込み過ぎだよ。頭を冷やしな。まだ旦那に付いていたいんだったらね」
ひぐっ、とエルは黙り込む。
「それと、アル。旦那は、まだ王じゃない。わかるね。あたしらの王じゃないんだ。このニューアークを捨てて、他所に行っちまうことだってあるんだ」
アルは、にっこりと笑った。
「いやですよ、マダム。王さまが、自分の国を捨てるわけがないじゃないですか」
それは盲信というのではないか? アデルは口をへの字に曲げる。
この姉妹に『レオンハルト・ベッカー』という個性は強すぎるようだ。このままなら、二人の役目を解かねばならないかもしれない。
アデルの懊悩は尽きないのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
さて、アデライーデの三人が見守っている当人レオンハルト・ベッカーであるが、当の本人には黙行などという行為を行っているつもりは毛頭ない。他人から見て、実際そうであるとしても。
「重ね重ね、すまない……」
「ううん、いいんだ」
対面に腰掛け、朝食を取るニアは嬉しそうに頬を緩ませる。
「それで、これからどうするんだ?」
「そうだな……」
とレオは考える。
『大魔法』の奇跡にて『法皇の杖』が金貨にて二十枚。港での戦闘で使用した『タワーシールド』その他の雑費で所持金が乏しくなったレオは、アデライーデからの退去を決断した。
「まあ、ポーションでも作って売り飛ばすか。で、その後は……宿屋巡りでもしよう」
「うんうん」
アデライーデの設備はレオのお気に入りである。そのため、ニアはそれは楽しみだ、とは言わないでおく。
「しばらくニューアークに足止めか。……ぱっとしないな……」
なにせ金がない。そのため、馬車を受け取っても路銀がない。レオは頭を抱えて唸る。
「……よし、考えていても埒が開かない。出るか!」
「うん!」
いつになく晴れやかに笑うニア。
「なあ、レオ。ニアは、海沿いの宿に泊まってみたいんだ」
「お、いいね。そうしよう」
そんな二人の平和を打ち破ったのは、エルフの女支配人だ。
「何、観光客みたいなこと言ってんですか」
返事を返したのはニアだ。
「消えろ、エルフ。おまえは臭いんだ」
「なっ! このワン公! なんてこと抜かしやがるんだ!」
「やめろ、二人とも」
二人の間に割って入ったレオが厳しい視線で牽制する。
「旦那! いくらなんでも、こいつは無礼でしょう!」
相手は『礼節』の戒律を持つレオンハルト・ベッカーだ。どう出る? アデルは内心、底意地悪く考える。
「アデル……!」
レオは、ぎろっとアデルを睨んだ。腕組みした人差し指が立っているのは、ニアに対して『黙れ』の合図だ。
「何の用だ……」
「おいおい、犬可愛さに頭がボケちゃったのかい? ここは謝るところだろ」
割り込んだのはアキラ・キサラギだ。
レオはアキラにもきつい視線を飛ばす。腕組みしたまま突き出した指が二本になった。おまえも『黙れ』の合図にアキラも黙る。戦闘時と交渉時で、サインは同じでも意味が異なるこの合図は、十年前から変わらない。
「何の用だ、と言ったぞ、アデル」
低く言うレオの両目の聖痕が赤く燃えていた。
絶体絶命の極限状態に於いては裏返り、プレイヤーに新なる力を与える可能性を秘めるサディスティックシステムが、個人による大規模戦闘の勝利という結果を経て、レオに新なる力を授けている。
精神スキル『威圧』である。パッシヴ系のスキルであるこの『威圧』であるが、その発動は本人には制御できない。戦闘中の効果は対象を萎縮させ、能力を低下させる。無機物とドラゴンには通用しない。交渉時には交渉を有利に展開出来るこの能力の習得条件は、
生涯トータル撃退数一千体オーバー。
三カ国以上で戦争犯罪人であること。
大規模戦闘に於いて、個人での戦果が二〇〇体を超えること。
「ひっ……!」
腰を抜かして、アデルはその場に座り込む。
「なっ、なんだってんです……あたしゃ、何もしてないじゃないですかぁ……」
レオは舌打ちして、視線を逸らした。
「キミ、今、目が……」
脅えたように身を小さくするアキラに、レオは二本の指をちらつかせる。また『黙れ』の合図だ。
アデライーデのグレートホールは、しいんと静まり返った。ニアを始め、エルやアルは勿論、一般大衆に及ぶまで全員が俯き、食事中にも拘わらず物音一つない。
「アデル……おまえは、何を隠している」
スキル『威圧』の影響は未だ続いている。アデルは、がちがちと歯を鳴らしながら、一枚の書状を前に突き出した。
「いいかげんにしろ……! この瞬間にも――」
レオは動かない。ただ、アデルを威圧の影響下に置き続ける。差し出されたままの書状が、ぶるぶると上下に震え、その眦に涙が溜まる。
見かねて飛び出したアキラが、書状を横から奪い取る。
「やり過ぎだ、レオ。もうやめなよ。ボクが読む。……いいね?」
「……」
レオは俯き『威圧』の影響を解いた。ふっと、辺りの空気が軽くなったような気がして、場に居合わせた全員が息を吐く。
「……ニューアークのギルマス達からだね。港の一件だ。所有権や使用法……今後の利用について揉めてるみたいだね。キミにも会合に参加して欲しいってさ」
「興味がない」
レオが興味を抱くのは、あくまでもイベントの解決だけだ。
アキラの頬が僅かに緩む。
「でも、キミがやったことだろ? 相手はこうやって、要請の形を取ってる」
「……会合の主催者は?」
「マティアス・アードラー」
その名を聞いた瞬間、レオは拳を振り上げ、簡素だがしっかりとしたテーブルに叩きつけた。
大きな衝撃音が辺りに響き、皆何事かと注目する。
レオは激しく舌打ちした。
マティアス・アードラーには『大魔法』の一件で借りがある。それを無視するのは彼の信義に悖る。
思うように、うまく行かない。
港での戦いでは、終に折れぬ心を得た。それはよい。だが、その影で何が起こったか。レオ以外には、この場にいる誰にも理解できないだろう。それがここ数日の停滞を沈黙という形で生んでいる。
こんな不快な街は捨ててやるつもりだったのだ。




