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S・D・G  作者: ピジョン
第1章 失われた英雄

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第23話 アキラ・キサラギ


 アキラ・キサラギが、ニーダーサクソンにある己の兵舎にて、緊急報告を受けたのは夜になってからだった。

 レオンハルト・ベッカーがニューアークに現れたというのだ。


 アキラは、何度も報告書の内容を確認して、それからソファに深く腰掛ける。

 驚くに値しないことだ。時間の問題だったのだ。

 そのアキラの思いとは裏腹に、胸の鼓動は早鐘を打つ。


(レオンハルト・ベッカーがボクを見捨てるわけがないんだ……!)


 興奮覚めやらぬアキラは、ランプの明かりを頼りに報告書を読み進めて行く。

 だが、ややもしない内に掠めた違和感に、ふとその手を止める。


「おかしい……」


 レオはニューアークに到着早々、一悶着起こしたようだ。

 ニューアークの関所にて、あの忌ま忌ましいダークナイトの遺物であるサバントを二十体ほども切り捨てたのだ。

 その際、グリムの魔力を解放させたという行為に問題がある。トルーパーが一体いたようだが、以前の彼なら歯牙にかけなかっただろう。

 解放の代償として軽くない負傷をしたらしいが、神官騎士である彼は騎士であるとともに優秀な癒し手でもある。怪我については心配いらない。


(やり過ぎだ……)


 アキラの疑問はなぜ、サバントごときを相手にそこまでせねばならなかったのかということだ。推察してみるが、事態を把握することができない。

 性悪女……イザベラはこのことを知っているのだろうか。彼女なら、何らかの仮説を立てることができるのだろうか。

 そのことについて悩むよりも先に、アキラは従卒に命じ、急ぎ出立の準備をさせる。

 金を多めに準備させ、軽く装備を整えるに止めておいたのは、レオのことに関する限り、イザベラは異常な鋭さを発揮するからだ。

 イザベラに警戒されれば厄介だ。邪魔をされれば、アキラには彼女を無事にしておく自信がない。


「レオは、どんな理由があっても殺しを嫌うからな……」


 アキラは呟いて、用心深く辺りを窺うが誰の気配も感じられない。

 報告書にある獣人の女はニアと見て間違いないだろう。


「クソ犬、ずいぶん鼻が利くじゃないか」


 準備が出来次第、出立しよう。ニューアークまではアポステル経由で三カ月近くもかかる。それまでニアにレオを任せるのは癪だが、やむを得ない。

 アキラは少し唇を尖らせる。


(焦るな……今回は、絶対失敗しない……)



◇ ◇ ◇ ◇



 『アレスの珠』の奪還から八年。

 現在、アキラ・キサラギの身分はバロネス(女性の男爵位)ということになっている。


 バロネスといえば聞こえはいいが、固有の領地も持たない平民出身の成り上がり。それがこのニーダーサクソンに於けるアキラ・キサラギの立位置だ。

 レオが『皇竜』と相討ちの形で消え去り、行き場を無くしたアキラだったが、それを拾ったのが性悪女ことイザベラ・フォン・バックハウスだ。

 イザベラは、現宰相であるバックハウス侯爵の次女で、この大陸では、アルフリード、ザールランドに続く三大騎士団の一つ、『エミーリア騎士団』の元帥として団長を努めている。


 『エミーリア騎士団』は元の始まりはただの修道会で、戦地での主な働きは医療活動だったが、八年前の『アレスの珠』の奪還の頃より、その活動には軍事行動も含まれるようになった。

 前団長であるカロッサ公爵夫人が後任をイザベラに譲り、以来その活動は強い軍事の傾向を帯びるようになった。


 三大騎士団……聞こえはいい。

 だが、アキラが思うに、この評価は過大評価というものだった。元々の活動は医療活動が主であったため、その編成は女性がほぼ半数を占めている。しかも、その大半が神官や治癒者ヒーラーというありさまだ。それでも、三大騎士団という過分な評価を得るに至った理由は、疫病に対する医療活動の成果と『アレスの珠』の奪還が評価されてのことだ。決して武力を評価されてのことではない。実力であれば他の二騎士団には大きく劣る。というのが、このメルクーアの民の一般認識だ。

 イザベラはその評価を不服とし、団長就任以来、その軍事的評価を覆すべく多大な費用と労力を費やしている。


 現在、イザベラに拾われたアキラは、エミーリア騎士団で一個師団の指揮を執ると共に、隠密部隊の隊長も勤めている。

 平民出身であり、ニンジャとしての技量を磨いてきたアキラの仕事には、汚れたものが多い。要人の暗殺や護衛、間諜、内偵などが任務に含まれる。無論、大っぴらに口に出来る性質のものではない。そのため敵味方の別なく、アキラの存在は嫌悪の対象となっている。


 アキラを用いたイザベラですら、アキラの存在を煙たがっている。


 結局、貴族でありながら、このニーダーサクソンでの居心地の悪さが、ためらうことなく彼女の進退を帰結させる原因になった。


 矢のようにニューアークに向かう心とは別に、アキラは職務に従事する。


 ちなみに、レオンハルト・ベッカー帰還の報告を受けてからのアキラの執務は出鱈目だった。帳票には誤記述が多かったし、部下への指示は精彩を欠いた。

 結局、ニューアークへの出立準備を終えたのは、二日ほど経ってのことだ。


「任務だ。二カ月程で戻る」


 副官のサスケは訝しむようにアキラを見る。


「小官は存じませぬが……」

「……秘密任務だ。詳細を言うことはできない」

「で、ございますか。二カ月、ですな……?」


 サスケはまるで信じていない。

 当然だ。エミーリア騎士団少将であるアキラ・キサラギ自身の単独任務。それはどんな一大事だろう。言ったアキラの方が聞きたいくらいだ。

 面倒臭くなって、アキラは僅かに笑む。


(……殺るか?)


 剣呑な空気が流れ出した執務室に、数回のノック音が響いた。


「アキラ、居る?」


 イザベラは返事も待たずにドアを開けて執務室に入って来た。


「やあ、バックハウス元帥」


 お道化たように言うアキラと、騎士を何人も引き連れたイザベラの目が合う。

 イザベラは、軽く鼻を鳴らし、ゴミを見るような目付きでアキラを見つめた。


「今日は、あんたに頼みがあって来たのよ」


 アキラの背筋に悪寒が走った。ああ、いますぐ彼女を……


(殺したい)


 イザベラは、つんと胸を張り、腕組みして言った。


「レオが現れた」

「……!」


 その言葉に、ついアキラは狼狽してしまう。まさかイザベラがその事実を知っていると思わなかったし、そのことを正直に報告してくるとも思わなかったからだ。


「つい先週のことよ。あのバカ、早速揉め事を起こしたみたいね」


 サバントとの一件を言ってるのだ。イザベラはアキラの狼狽ぶりをおかしいとは思わなかったようだ。得意そうに鼻を鳴らす。


「レオが……」

「そう、ニューアークよ。移動してしまう前に捕捉したい。あなた、単独で先行してくれる?」

「わかった。アポステル経由で向かう」


 単独行動の大義名分が向こうからやって来た。アキラは内心、ほくそ笑む。


「でも、なんでニューアークなのよ……」


 呟くように言うイザベラの言葉の端に強い不満の色が覗いている。

 アキラにも同じ不満があった。なぜ、レオンハルト・ベッカーはニューアークに姿を現したのか。彼に縁がある地にその必要があったというのなら、このニーダーサクソンでもよかったはずなのだ。


「……お願いね。細かいことは貴方に一任するから」


 イザベラは何か言いたそうにしていたが、不満を飲み込むと、手をひらひら振ってその場を後にした。


「……そういうことだ。ニューアークに向かう」

「任務はよろしいので?」

「ああ、ボクの任務もそれ絡みさ」


 不敵に笑むアキラとサスケの目が合う。


「レオ……レオンハルト・ベッカー。失われた英雄、で御座いますな」

「ああ、そうとも呼ばれているね」

「アルタイルの最高評議会に忍び込んで、《死の言葉》を使ったとか……」

「ああ、あれか。そんなこともあったね」


 レオンハルト・ベッカーがアルタイルに指名手配される原因となった事件だ。

 眉を寄せるサスケの顔に、アキラは思わず笑ってしまう。

 まったく、あのときのレオは最高だった。

 メルクーアの民すべてを蛮人と罵るアルタイルの高官どもが、パタパタと息絶える様は壮観の一言に尽きた。



『こうなりゃヤケだ。強制イベントだ! 悪く思うな!』



 あの時、レオが言った言葉はどういう意味だろう。

 それは未だにアキラには分からない。ただ、その時死んだアルタイルの高官たちは好戦的な主戦論派であり、その後交わされたニーダーサクソンとの和平条約に大きな影響をもたらしたのは確かだ。

 結論の出ない思案にアキラは首を振った。


「サスケ。言っておくが、レオは遊歴中とはいえ、ウチの騎士だからな」

「は……それはもちろん」


 神妙な面持ちで頷いたサスケは、思い出したように言った。


「なんでも、イザベラ様の婚約相手とか」

「婚約相手? レオは人間だぞ。あんなエルフの性悪女を相手になんかするはずない。そうだろ……? だれが、そんな根も葉も無いことを」


 即座に反応したアキラは、不快感露に眉を寄せた。


「口さがない女官どもの言い草です。失礼しました」

「ふん、いいさ。後は任せる。ニューアーク以外の草は回収してかまわない。別任務に就かせろ、いいな」


 アキラは、レオがどこに現れてもいいように偵察の任に配置していた各国の間諜の任を解いてしまう。彼らはもう邪魔なだけだった。


「はっ」


 サスケの返事を後にアキラはその場を去る。


 アキラはなるべく衛兵の目に付かないように兵舎を出た。替え馬を含めた二頭の馬は既に城下町サクソンに手配してある。準備が早すぎることで疑惑を抱かれてしまうかも知れないが、構いはしない。

 オールドシティの吹きだまり出身の彼女が、騎士などというものをやっていたのは、ただの暇つぶしだ。


 あのレオンハルト・ベッカーが、再びメルクーアに帰って来たのだ。


 今度は何をするんだろう。何処へ連れて行ってくれるのだろう。

 危険と興奮と、見たこともないような、お宝と未知とが待ち受ける冒険の旅が、また始まるのだ。


 ――もう戻るつもりはなかった。


 その日の晩、アキラはニューアークに電報を飛ばした。内容は以下のとおり。


 引き続き監視を続けること。

 監視には護衛も含む。

 トラブルに巻き込まれそうな場合、それとなく助けるように。

 なお、素性はばれないほうが望ましいが、それが障害になった場合に限り、ボクの名前を出すことを許可する。その場合、なるべく彼の意に添うように行動すること。

 ボクの名前を出して、なお理解と協力が得られない場合は、距離を取り、監視を続けるように。


 一瞬、ニアの顔が脳裏を過り、暗殺の指示を出そうかどうか迷ったがやめておいた。


 アキラはニューアークまでの道程を二カ月で走破しようと思っている。イザベラにはアポステル経由と言ったが、海路を辿ることにした。


 アルタイルの領地であるダラム水上要塞を通過すれば、旅程を一月は早めることができる。


 アキラ・キサラギが『失われた英雄』の曾ての仲間であったことはメルクーアの万人が知るところだ。指名手配とまでは行かないが、事件の重要参考人の一人として、アキラも危険であることに変わりはない。

 アキラは不敵に考える。見つからなければいいだけのことだ。


(レオ……今から行くよ。一緒にどこまでも行こう……物語の終わり……いや……)


 物語の向こうまで。



◇ ◇ ◇ ◇



 一カ月程が経ち、アキラの旅は非常に順調だ。

 一番の難所と思われたダラム水上要塞も問題なく通過できた。駐在しているニーダーサクソンの外務官の話によると、アルタイル本国で何やら大きな事件が起こったらしい。

 それとは関係なく、アキラの気持ちは下降線だ。


 不快な内容の報告書のせいだ。


 どうやらニアは、レオとよろしくやっている。


 レオはニアを連れて買い物をしたり、公園で一日中ひなたぼっこをしたり……全部、アキラがレオとしたかったことばかりだ。

 この怒りを何処へ向ければいいのだろう。だが、それを圧し殺し、アキラは、もう一度頭から報告書に目を通す。

 何かを見落としている。そんな気がするからだ。


(まさか……レオは、あのクソ犬を……)


 そこまで考え、言下にそれを否定する。


「そんなことはあり得ない」


 だが違和感が存在する。

 何かを見落としている。大切な何かだ。


「レオ……何を隠して……いや、何を考えてるんだ?」


 この一月余りのレオンハルト・ベッカーの行動はおかしな点が多い。

 ほぼ、毎日のように図書館に通い詰め、それ以外は観光客のようにニューアークの町中を見て回っている。

 しばしば行っている無料での医療活動もおかしい。神官騎士の戒律には『奉仕』も含まれるが、それにしたってやり過ぎだ。『治癒魔法』を使いたがっているように感じる。


「なんなんだ……?」


 アキラはアポステルに程近い村落に取った宿の中を意味もなく歩き回った。


「何かおかしい。それは絶対間違いない」


 奉公人に幾度か話しかけられるがすべて無視する。

 ニューアークまではあと半月程で着く。異常と言っていいハイペースだ。ここまでの道程で馬を四頭も乗り潰してしまったが。

 アキラはここで若干、ペースを落とすことにする。

 無論、レオには一刻も早く会いたい。そのためだったら、馬が百頭潰れてしまってもかまわない。そんなアキラの思惑を圧し止めるのはレオの『異変』だ。それが喉に刺さった小骨のように引っ掛かる。それに気づかなければ、何か取り返しのつかない失敗をしてしまいそうな気がするのだ。


 アキラは改めて報告書を読み返す。……相変わらず不快な内容だ。


「一体なんなんだ、レオ。馬鹿になっちゃったのか? ひなたぼっこやら、買い物なんかはボクとすればいいんだよ! クソ犬と遊ぶのはそんなに楽しい――」


 それに気が付いたのは、まったくの閃きと言っていいのかも知れない。


(遊んでるんじゃないとしたら、どうだろう。これは……)


 獣人のニアを連れて行くには、絶対に不向きな場所に宿を取っている。

 『ホテル』アデライーデの支配人はエルフだ。

 エルフという生き物は、生来プライドが高く、獣人を嫌う。彼が知らないわけはない。


 何より一番おかしいのは、レオがニューアークで足踏みしているということだ。

 消極は活発で行動力過多の彼らしくない。自問自答を繰り返すアキラに、不意に天啓が訪れる。


「情報を集めてる……?」


 レオには日々の生活を通して、必要な知識を学ぶための時間が必要なのではないだろうか。メルクーア一の蔵書を誇る図書館にも毎日のように通い詰めている。


 アキラの報告書を持つ手が震える。


 まさか、レオ……また死んだのだろうか? 蘇生後のショックで記憶に障害が生じたというのなら、全ての辻褄は合う。


「クソ犬……!」


(あいつは番犬にもならないのか!)


 アキラはニアを嫌っている。忌避していると言ってもいいだろう。

 レオと出会ったころにはもう存在していた。

 毎日、頭を撫でられ身体を洗ってもらい、思う存分甘やかされ、ひざ枕で耳掃除してもらっている。背中に毛ヅヤを出すためのオイルを塗り付けられてる蕩けるようなニアの表情を見たとき、アキラは真剣に殺意を抱いたものだ。


 アキラだってレオに甘えたいし、褒められたい。けどアキラは、レオに認められているから、甘えさせてもくれないし、褒めても貰えない。


 アキラには、本来、自分が得るはずだった幸福を横取りされたとしか思えない。


 なんと目障りで忌ま忌ましいヤツだろう。死ねばいいのに。


(レオには記憶の欠落がある。これは恐らく間違いない。ここからは全くの推測だが、レオの記憶障害は広範囲に及ぶものだ。ニューアークから動かないのは、戦闘経験にも影響が出たためではないだろうか。関所でサバントと戦闘になった際にグリムを覚醒させたことも説明が付く。程度が分からないから、やり過ぎたんだ……)


 腹の底から笑いが込み上げる。


「……役立たずのクソ犬、お前はもう、お仕舞いだよ。もう十分楽しんだろ? レオは、やっぱりボクのモノさ。……レオ、すぐ会いに行くからね」


 だがニアは警戒しているだろう。密偵は露見していると見て間違いない。彼らはそれなりに手練だが、ニアの目をごまかしきれるほどではない。

 報告書の端々に、露見を疑う記述があり、中には命の危険を訴える悲鳴混じりの内容がある。

 だが、それはアキラの懸念材料にはならない。

 あのレオなら狙いが分かるまで密偵を泳がせるだろう。ニアを制止してでもそうするに違いない。困った性分だが、彼は危険が好きなのだ。

 アキラが放った密偵に害意はない。それなら好都合だ。



◇ ◇ ◇ ◇



 獣人の聖域『アポステル』を抜け、街道『真っすぐな道』に入った。ここを抜ければいよいよニューアークだ。


 その日、アキラは街道沿いにある集落で意外な人物と遭遇することになった。


「あら……早いわね」


 湧き立つような金髪の女が、深く青い瞳を細めて苛立たしそうに言った。


 イザベラ・フォン・バックハウスだ。


 アキラは仰天した。予定した旅程を倍以上のスピードで走破してきたのだ。後発したはずのイザベラが、なぜアキラより先にここにいるのか。

 イザベラは小綺麗なドレスで身を飾っているのに対し、無茶なスピードで道程を急いだアキラは砂埃に塗れ、ぼろぞうきんみたいな格好をしている。


「汚いわね。まさか、その格好でレオに会うつもりじゃないでしょうね?」


 イザベラがぬけぬけと言い放つ。アキラは羞恥と惨めさで泣きそうになった。


「き、キミこそ、早いね……」

「ゲートを使ったのよ」


 イザベラは何でもないことみたいに、しれっと言った。


「……『転送扉』か。使用に必要なエーテルが足りないって聞いてたけど」

「ああ、そのこと? アルタイルとの同盟が締結されてね、使用に必要なエーテルの目処がついたのよ」


(こいつ……知っててやったな! アレクサンダー・ヤモが承知するわけないだろ!)


 アキラはその言葉を飲み、ぎりっと歯を食いしばる。


 きっと、内々に裏取引を交わしたのだろう。そうでなければ、アルタイルの王族であり強い発言権を持つアレクサンダー・ヤモが、都合よく死んだかだ。


「あなたも一応は女なんだから、湯浴みの一つもしなさいよ。まったく、汚いったらありゃしない」


 イザベラはアキラのことをゴミを見るような目で見ている。


「私の天幕には入らないでちょうだいね。匂いが移ったら困るから」


 イザベラは、しっしっと手を振る。宿は勝手になんとかしろ、という意味だ。


(今に見てろよ、性悪女め!)


 イザベラの天幕は集落の外にある。

 アキラは集落で宿を求めることにした。予定では、ここから先はペースを緩め、密偵と連絡を密にしながら進むつもりだったのだが、イザベラとここで出会ってしまった以上そうも行かない。


 宿でアキラは必死になって身体を洗った。

 アキラだって、レオには綺麗に見てもらいたい。だが、旅で傷んだ髪や焼けてしまった肌はどうにもならなくて……ずっと馬に跨がっていたせいで、お尻もぼろぼろになってしまった。


(どうしよう……)


 この日の晩、アキラは少しだけ泣いた。



◇ ◇ ◇ ◇



 その日の朝、イザベラの使者がアキラの逗留する宿にやって来た。

 イザベラの副官を勤めているエルフの女だ。短いモスグリーンの髪を指で撫で付け、グリーンの瞳に見下したような侮蔑の色を浮かべている。

 朝早く叩き起こされたアキラは、眠い目を擦りながら応対する。


(名前は、なんて言ったっけ……変な名前だったよな……確か……)


 アキラは、ぽんと手を打った。


「そう、丸太。何か用なのか、丸太」


 マルティナ・フォン・アーベライン。通称、マルタだ。

 そのマルタが、つんとすまして言い放つ。


「イザベラ様がお呼びです」

「しょ…イザベラが?」


 アキラは苛立ちを禁じ得ず、マルタを睨み付けた。視線で人が殺せるなら、マルタは三回は死んだだろう。


「朝食を共にされたいそうです」

「……わかった」


 アキラは、お尻に傷薬を塗ったあと、身なりを整え、集落の外れに設営されたイザベラの天幕に向かった。


 イザベラはかなり苛ついているようだった。従卒に何やら大声で喚き散らす声が天幕の外まで響いて来た。


「なによ、このまずいお茶は! この私にこんなドブ水を飲ませるなんて、貴方、いい度胸してるじゃない!」


 アキラは思わず吹き出した。その使用人には見所がある。

 天幕に入ると、イザベラが何やら分厚い書類を押し付けてきた。


「遅いわよ、アキラ。ちょっとその書類に目を通して」


「え? ……うん」


 アキラが書類に視線を落としている間中、イザベラは苛々と天幕の中を歩き回った。親指の爪を噛みながら、ありえない、と呟いた。


 書類の内容に、アキラは少なからず落胆した。その内容は簡潔に言えば、ニアがレオとよろしくやってるというものだったからだ。


 同時に安心する。やはりイザベラは、想像を越えることはない。


(おまえの情報は遅れてるんだよ、性悪女)


 アキラは思ってもいない返事を返す。


「二人とも、仲良くしてるみたいだ」


 アキラがさわやかに笑みさえ浮かべて見せると、イザベラは、わなわなと肩を震わせた。


「あ、ああなたね、正気で言ってんの? レオとあのメス犬は同じ部屋に寝泊まりしてんのよ!? ったく冗談じゃない!」

「まあ、レオも男だし……ある意味健全なんじゃないかな?」

「なによ! なによなによなによ! あんた、バッカじゃない!?」


 イザベラは憤懣やる方ない様子でアキラに詰め寄った。


「あいつが、レオがどんな風に女を……! なんにも知らないくせに!」


 イザベラの顔は、くしゃくしゃに引き歪んだ。

 神の血を引くとさえ言われるエルフらしくない嫉妬に塗れた表情だ。

 初めて見る表情に、アキラは少し驚きを隠せなかった。高慢ちきなエルフが、他者の前でそんな表情をするとは思わなかったのだ。


「イザベラは……レオが、犬と不適切な関係にあることが気に入らないの?」


 イザベラは、はっとして、また親指の爪を噛み始めた。


「そんなわけ、ない……」

「そうだよね。高貴なエルフの血を引くイザベラが、人間の下世話な行為に関心を……まして嫉妬するなんてありえない」

「そ、そうよ……。私はただ……あいつが……そう、人間にしては強いし、なんと言っても高位の神官でもあるし……だから……私の騎士団に迎えようと、そう思っただけで……」


 頼りなく呟いたイザベラの言葉は、自分に言い聞かせるようだった。


「アキラ……お願いがあるんだけど……」

「うん、なに?」


 とぼけてアキラは聞き返す。


「彼の、レオの様子を探って欲しいの……私の部下は……その、間諜なんていう仕事は、慣れていないようで、その……」


 イザベラは酷く歯切れが悪くなった。親指の爪を噛みながら、上目使いに睨み付けてくる。


「よく撒かれるらしいの……」

「それは大変だね」


 アキラは吹き出しそうになった。

 イザベラの方でも、やはりレオの様子はいまいち掴めないようだ。考えてることが分からない。何かを判断しようにも、斥候から伝わる情報は少なすぎる。違和感を感じてはいるが、それが何か分からない。


 ――不安なのだ。


「もう少しだけ、ここで待機するわ。できるだけ、彼の情報を集めて」

「いいよ。それじゃあ、先行するね」


 アキラは薄く笑むのだった。


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