第20話 夜に見る夢
メルクーア暦 6115年。
ニューアークから聖域アポステルへ続く街道『真っすぐな道』での出来事。
灼け付くような日差しが、ニアを睨みつけている。
熱い。溶けてしまいそうだ。そもそも犬の獣人であるニアは、日中の行動を苦手としている。
「ニアー! ニアー!」
石畳みの道の遥か向こうから、未だ少年のレオンハルト・ベッカーが大声で叫んでいる。
「どーした?」
「うう……」
それにしても元気な少年である。先程から、少年は斥候として先行しては引き返し、後方でぐったりしたニアの出迎えにと忙しい。全く、呆れ果てた体力だ。いくら真昼とは言え、獣人である自分が体力面で人間に不覚を取るとは思えなかった。
「顔、真っ赤じゃないか。少し休むか?」
「うー……」
ニアは力なく頷く。ニューアークを出発して、三日。意地も見栄も尽き果てた。
「しょうがねえよ、おまえとオレじゃ、レベルが違うもんよ」
「れぇる?」
未だニアは言葉を発することが出来るほど声帯が発達していない。それでも見様見真似で会話を交わそうとする。
「そうそう。けど、それも一年くらいの辛抱さ。体力じゃ、獣人の方が人間より伸びしろがあるんだからさ」
「ん……」
「あっちの沢で涼もうぜ。ほれっ、背負ってやるよ!」
沢で少年は、足を洗ってくれた。とてもくすぐったい。自分より小さい少年に世話を焼かれるのは、何だかおかしな気分だった。
「気にすんなよー、面倒見るっつったの、オレなんだからよー」
「ん」
少年は優しかった。ニューアークでは良いことばかりではなかったが、服を買って貰ったし、久しぶりに屋根のある部屋で眠れた。
小さい背丈のこの少年は、いつもニアの前に立った。ニューアークでは寝食を共にし、そして一緒に差別された。
戦闘はいつもはらはらした。少年はいつも前に立つから、いつも傷だらけだった。大怪我を負った少年を背負って逃げたことも度々あった。
「オレ、今は冴えないけどさあ、騎士になって、絶対強くなるから。だから……見捨てないでくれよな」
少年は独りを怖がった。そんな彼が、自分の倍も生きているとはとても思えなかった。一三歳という年齢は嘘だろう。きっと三、四歳くらいに違いない。ニアはそのように考えていた。
少年は夜になると泣いていることが多かった。
「なんでだよ……なんで、オレが……ゲームの世界なんかに……」
泣き虫の少年がニアに抱かれて眠ることはよくあることだった。
様々な出会いと別れを繰り返し、少年は青年になって行く。それはとても眩しい光景で、それでいて、悲しい光景でもあった。
「ニア、俺は戦争に行こうと思う。騎士になるんだ」
「危ない、駄目……」
「死ぬのは怖くない。そんなことより、元の世界を忘れそうになる自分の方が怖いんだ」
青年はやはり前に立つ。だが、以前よりずっと速足で歩くようになった。ニアはもう置いて行かれそうだ。
「待って!」
青年が笑う。以前より大きな身体。以前より強い心。
「待って、レオ!」
青年は振り向かない。以前より大きな歩幅。以前より屈強な魂。
◇ ◇ ◇ ◇
メルクーア暦 6128年。
『ブリギッド』はここニューアークでは『アデライーデ』に次ぐ高級宿場である。
レオはブリギッドの中では一番高い部屋を取ったが、室内設備は『アデライーデ』とは比較にならないくらいお粗末なものだった。室内に電灯は無く、風呂も無かった。身体を洗いたいと申し出れば、桶にお湯が運ばれて来た。レオは唇を尖らせたが、メルクーアではこれがスタンダードである。
(慣れとかなきゃな……)
電化製品に囲まれたアデライーデの方が異常なのだ。
室内に空調が無いため、残暑厳しいメルクーアの夜は寝苦しい。レオは窓を開け放ち、外気を取り込むと、涼しげなテラスに出て、暗い表の通りに視線を向ける。
「……増えてるな。どこまで増えるんだ……?」
ここ最近、数を増した監視と尾行にレオは首を傾げる。
(余程、暇なのかね……)
のんびりと考えながら、一つ大きな欠伸をする。
ニアにとって、今夜がいい夜になったとは思えないが、少なくとも忘れられない夜にはなったようである。いつもより積極的な情事を終えると、すぐ眠ってしまった。
レオはステータス画面を開いてレベルアップ後のボーナスポイントを振り分け始める。
(パーフェクトガードと詠唱破棄のスキルだな……)
パーフェクトガードの重要性は当然だが、レオが詠唱破棄のスキルに拘ったのはスペルの暴発や逆流を恐れたためである。神官魔法は治癒系統のものが殆どであるが、攻撃用のスペルがない訳ではない。死の言葉や聖なる光のような強力なスペルが逆流すれば、全滅の危険があった。
(魔法の成功率を助長するアクセサリーや装備品はなかったかな……)
朧げな記憶を辿り、考察を続けるレオの耳に小さくニアのうめき声が聞こえる。どうやら魘されているようであった。
(アデライーデと違って寝苦しいからな……)
早くもアデライーデが恋しくなって来た。苦笑いを浮かべるレオの耳に今度は悲鳴が聞こえて来た。
「ああああああ! レオっ、レオーーーーっ!」
慌てて室内に戻ると真っすぐに寝室を目指す。
暗闇を照らす『ライト』は魔道士のスペルである。暗い室内で調度品に何度か身体をぶつけながら、レオが寝室に飛び込むと、半狂乱になったニアが飛びついて来た。
「レオ、レオ……」
「どうどう、落ち着け」
暗闇で室内の様子は窺えないが人影はない。侵入者の存在を疑ったがそれはないようである。ほっとしたレオは、ニアの腰に回した手に湿った感触を覚え、眉を寄せた。
「水……血……?」
夜目の利かないレオは目視の変わりにパーティステータスの画面を開いて確認するが、ニアがダメージを受けた様子はない。
「レオ……どこにも、いかないで……」
「え? ああ、すまない。テラスに行ってた」
レオの頭の中は疑問符で一杯になった。取り乱したニアも、手を濡らす感触も謎だらけだ。
レオの胸の中でニアは泣きじゃくった。シャツを濡らす感触に辟易しながらも目をすがめる。ややあって周囲に漂う匂いに、レオは口をへの字に曲げた。
(漏らした? 俺の不在が原因? 体調不良?)
ニアのステータスに異変はない。体調不良の線は消えた。これをどう解釈すればよいのか分からず、レオはひたすら途方に暮れることになった。
◇ ◇ ◇ ◇
ブリギッドの早朝は、レオが思わぬ形で慌ただしく明けようとしていた。
夜半過ぎに癇癪を起こしたニアを宥めるのに、レオは想像以上の時間を費やすことになった。そのニアは、現在、騎士の外套を巻き付けただけの姿でソファで眠りについている。
夜明けの群青を眺めながら、レオは室内の片付けを始める。汚れてしまったシーツを畳み、ドレスは皺にならないようソファに掛ける。
続いて『赤水晶の腕輪』の探索に移る。
現在、ソファで眠るニアの手首にそれが嵌まっていないことに気づいたのは、つい先程のことだった。
(いつの間に外したんだ? 昨夜の行動もそれが原因か?)
赤水晶の腕輪は苦労することなく見つかった。鏡台の引き出しの中に入っていた。
しかし、とレオは考え込む。
知性にボーナスのある『赤水晶の腕輪』であるが、その効果は疑わしいものだった。言葉は流暢になり、表情も豊かになったものの、昨夜の観劇中の行動は短慮の謗りを免れぬものであった。それが元々のニアの性質に因るものか、それとも中途半端に得た知性の影響に因るものか。
犬の獣人であるニアの性格は、基本的に従順で大人しい。感情的になり、攻撃性を前面に押し出した姿を見るのは初めてのことだった。
無責任な事をしてしまった。自分は神にでもなったつもりなのか。昨夜から今朝にかけての出来事は、己の軽率な行為に対するしっぺ返しではないのか。
行動があり、結果があり、報いがある。原因が彼の軽率な行為にある以上、与えてしまったもの(知性)を返せとは言えない。
「なるようになる……か」
そこまで考えたとき、遠慮がちにドアがノックされる。
「レオさま」
出迎えたのは見慣れた猫の姉妹であった。
「エルとアルか。何かあったか」
いえ、と首を振って、姉妹は渋い表情になった。
「長時間の無断外出は困ります。それになんですか、この部屋は。こんなボロ宿に泊まらなくても、うちに部屋を取ってるじゃないですか」
「お金の無駄遣いだよ、レオさま」
「まったくだ。それに関しては、全部俺が悪い。すまない」
レオは素直に謝罪する。この状況に、エルとアルは胸が暖かくなる。メイドの叱責に騎士が謝罪するなど、メルクーアの一般常識ではあり得ないことだ。
すん、とアルが鼻を鳴らす。エルは鼻の頭に皺を寄せる。
「この匂い……」
レオは天を仰いで嘆息した。
「なにも言うな。頼むから……」
「……部屋に入れてくれますか。お手伝いできることがあると思うんですけど……」
エルもアルも軽蔑しきった表情でレオを見つめている。
レオは何も言い訳せず、一言だけ、
「なるようになれ……」
と呟いた。




