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S・D・G  作者: ピジョン
第1章 失われた英雄
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第16話 失われたもの


 ニューアーク一の高級宿場『アデライーデ』にて、レオがエルとアルの猫姉妹に正体をばらしてしまう少し前の出来事だ。

 商店街を抜け、『赤い川』を跨ぐ橋を渡り終えたとき。


「レオ。ニアは、少し用がある」


 思い悩んだ末、ニアは言った。


「え……?」


 振り向いたレオは意外そうに眉を寄せる。それもそのはずだ。このニューアークで、彼女が単独行動を申し出たのは始めてのことだったからだ。


「……その用事は、俺がついて行ったら、駄目なのか?」

「んっ……一人でいい」


 本当は、いつも一緒に居たい。だが、これからすることを思えば、自分一人の方が好都合だ。


「なんの用事だ?」

「んん……」


 ニアは首を傾げた。どのように受け答えればいいか、彼女には分からない。

 二人は沈黙を挟んで向かい合った。基本、二人は饒舌というわけではない。そんな二人の間に流れる沈黙は、いつもならば互いを思いやる優しい静寂だ。だが、このとき流れているのは困惑と疑念の空気だった。


 張り付いた害虫を始末するのだ。本当のことを言うのは容易い。ニアに手を汚すことに対する忌避の感情はない。この八年、彼女はずっとそうして生きて来たのだ。白い手で生きて行けるほど、このメルクーアは甘くない。しかし、そのことをレオに知られるのは、どうしてもためらわれた。


「そうか……まあ、おまえには、おまえの事情があるものな。それに首を突っ込むのは野暮だよな……」


 レオは幾分、悲しそうに言った。途端にニアはうろたえる。


「違う! ニアは、ニアは……!」


 何が違うのだ? 思考が追いつかない。彼女はつい、沈黙を選んでしまう。


「…………」


 ニアは泣きそうになった。全てを放棄して、一緒に帰ってしまいたくなる。いや、そうするべきなのだ。いつものように、夕暮れ頃に部屋に帰り、食事を取り、入浴し、閨を共にする。自分は、一体何が不満なのだ。そもそも一人になって何がしたいのか。それはここまでしてやるべきことなのか。様々な思いが彼女の中を駆け抜け、消えて行った。

 ニアの所々撥ねた髪を、レオの指が梳る。


「そんな顔するな。分かった。一人で帰る」

「あ……」


 ニアは何かを喋ろうとする。だが、何を言えば良いかわからない。気持ちだけが膨らむと、彼女は何も考えられなくなる。

 レオが瞳を閉じ、手を翳す。その口元から聞き慣れたアスクラピアの聖句が溢れだし、ニアの身体を柔らかな光が包みこむ。


 実戦並の加護の力を受け、ニアの視界が霞む。


「危ないことはするなよ……」


 それだけ言い残し、レオはその場を去った。

 ニアにとっては、あまりに重い一時の別離であった。


「うぁ……」


 ニアはついに泣き出した。熱い涙が頬を伝い、嗚咽が胸を突き上げた。


 そんな、ニアの、尻尾に、何かが触れた。


 尻尾に触れる行為は、獣人の間では求愛行動である。嫌悪を露にするよりも先に、ニアは背後に向かって拳を振り抜いた。


 がつん!


 と、肉を打つ確かな感触があり、目標を確認するよりも早く飛びのいて距離を取る。


「…………」


 ニアは、月よりも醒めた視線に『それ』を捕らえていた。

 通路の端まで吹き飛び、壁にぶつかって転がっているのは、犬の獣人の男だった。気絶しているようだ。死んでいるといっても通用したかもしれない。ぴくりともしない。

 彼がどのような思惑から、ニアの尻尾に触れたのかは分からないが、決してニアには好ましい意味合いのものではないだろう。


 道を行き交う人々が、石畳みに転がる獣人とニアとを交互に一瞥し、何事もなかったかのように通り過ぎて行く。


「汚い!」


 ニアは牙を剥いて、口汚く吐き捨てた。苛々と牡犬を打った拳を拭う。涙は既に止まっていた。

 隙があった。油断した。はっと気づいて辺りを見回す。

 レオはいない。よかった。見られなかった。ほかの男に身体を触られた。とんでもないことだ。大問題だ。

 ニアに混乱はなかった。レオンハルト・ベッカーが係わらない限り、彼女は常に冷静でいられる。

 幸いなことに、問題の解決法は間近にあった。


 赤い川だ。面倒事はそこに投げ込めばいい。


 ニアは躊躇することなく、近くの橋から牡犬を投げ捨てた。

 彼は流れて行った。生きていれば、すぐにでも目を覚ますだろう。死んでいれば、彼はこれから『悲しみの海』へ航海の旅に出る。彼の行き先を確かめることはせず、ニアはニューアークの中央広場へ向かった。

 とりあえず手を洗って、それから尻尾も洗わないと。ニアはそんなことを考えている。目的は既に頭の中から抜け落ちていた。赤い川に流れて行ったのかもしれない。


 詰まるところ――彼女の問題は、目先のことしか考えることができない。ということに尽きる。


 レオを尾行していた四人は、気づくことなく重大な危険を乗り越えた。



◇ ◇ ◇ ◇



 スイートルームでは、レオが疲れた表情で、ソファで眠っていた。

 部屋の中に充満する猫の匂いに、ニアは眉を顰める。


「?」


 ニアは、おや? と首を傾げる。レオの腰にしがみついて、こちらも惰眠を貪るリンの鬣の色が銀から黒に変わっている。

 実は犬だったのだろうか。ニアは近づいて、リンの唇を捲り犬歯を確認する。


 ……大きめの牙がある。やはり、犬ではない。それに、ウェアウルフの匂いは、ニアには少しきついものがある。臭い、というのではなく、強すぎる。


 リンは眠りながらも、首筋をレオの腰辺りに擦り付けている。その行為はこの上なくニアを苛つかせた。

 成人した獣人の首筋からは、性的なフェロモンが分泌されている。人間には嗅ぎ取ることのできない匂いだ。

 未だ幼いリンが性的なフェロモンを分泌しているわけではないが、その行為は幼いとはいえ成人した獣人のものだ。番となる牡に自分の匂いをつけているのだ。いくら本能とはいえ、煩わしいことこの上ない。子供でなければ、赤い川に投げ込んでいるところだ。


「レオっ、レオっ……」


 ニアはレオの肩を揺する。これ以上、リンの好きにさせてはおけない。そろそろこの辺で上下関係をはっきりさせておく必要があった。


「……ニア? 用事は済んだのか?」


 レオは眠そうに目を擦っている。


「用……?」

「そうだよ――って、おまえ!」


 レオは、ぎょっとしたように身を起こす。


「尻尾が! 尻尾が、びしょ濡れじゃないか!」


 レオの張り上げた声に、リンがぱちっと目を開ける。


「このばか! せっかくツヤが出てきたとこだったのに! 雑にしやがってっ!」

「うぁっ」


 ニアはなぜ怒られるのか理解できない。レオを恐れる様子はないが、困惑は隠せない。


「座れ! ああっ、違う! そのままでいろ!」

「んん?」


 クエスチョンマークを顔面に張り付けるニア。


「ったく……おまえはどうしてこう、無頓着なんだ……」


 いらいらとレオは部屋の奥に引き下がり、慌ててバスタオルを持って来ると、我慢ならない様子で、キッとニアとリンを睨みつけた。


「いいか、おまえたち! 本来、おまえたちの鬣や尻尾の毛は、柔らかく繊細で美しくできている。それが見窄らしく薄汚れたり、硬そうに見えるのは日々の手入れを怠るからだ。たかが水とバカにしちゃダメだ。自然乾燥なんてもってのほかだ」

「……拭いてくれる?」


 ニアは、ふふんと口元に笑みを浮かべ、リンを一瞥すると、レオにお尻を突き出した。


「ああ、拭くよ! このばか! 笑ってんじゃない!」

「ひゃっ」


 ニアは一瞬肩を竦める。だがレオが口から飛び出す言葉とは裏腹に、優しく尻尾を拭き出すと、途端に頬を緩め、とろんとした表情になった。


「リン、おまえはこんなだらしない大人になるんじゃないぞ?」

「……」


 リンは煙るような表情で、レオの手つきを黙って見つめていた。



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