第12話 ある朝
翌、早朝。
ホテル『アデライーデ』の一階にある多目的用途のグレートホールでは、バイキング方式の朝食が振る舞われており、行商人や富貴階級の一般客に混じり、静かに朝食を摂るレオとニアの姿があった。
窓際の席ではガラス越しに差し込む陽光の中、レオが静かに本を読みながら、周囲の喧噪に耳を傾けていた。
商人たちの間では、ニューアーク中央にあるエデン広場で発見された身元不明の焼死体の噂が囁かれている。
(焼死体……? なんのことだ? ヤモ将軍のことか?)
小さなリンは、一時、エルとアルに預けられた。
「また……犬の……」
その際、噛み締めるように呟いたエルの一言にレオは不穏当なものを感じたが、言葉の意味を測り兼ねたのと、アルタイルの反応に気を取られた彼はこの言葉を受け流した。
レオは商人たちの会話に耳を研ぎ澄ませながらも、次なるイベントであるアキラのパーティ勧誘の方法を模索している。
アキラ・キサラギ。
彼女は、オールドシティのスラム街で育った。
ホビットと猫の獣人の血を引く彼女は、優れた敏捷性と高い知性を兼ね備えた『ニンジャ』だ。
特性値の全てにプラス補正のかかるスキル『天禀』の持ち主。このSDGの世界において、彼女以外でこの『天禀』のスキルを所有しているキャラクターの存在をレオは知らない。
アキラをパーティに加えることが出来れば、今後の展開はずっと楽になる。
その気になるアキラの動向であるが、ニアの超能力では、ダラム水上要塞に居るらしい。
以前の所在地がアルタイル本国であったことから、彼女は南下を続けている。都合よく考えるならば、ニューアークに近づいている。
「まさかな……」
レオは呟いて、一口紅茶を飲んだ。
(俺に会いに来る、なんてね。ないない……)
「潮時だな」
ニューアークを出て行く時が来たのだ。次なるイベント達成のためにも、早晩訪れるだろうアルタイルの追っ手から逃れるためにも、ニューアークに止まって良いことなど何一つない。
「旦那、珍しいですね。いつもは部屋で朝食を摂られるのに」
ちらりと視線を上げると、エルフの女性支配人アデルと目が合った。
「たまにはな」
言いながらレオは人差し指でニアのグラスを弾いた。中身の水に練金術を施したのだ。錬金用の杖も無ければ、水以外の素材もない。実験を兼ねた悪戯だ。
「さっき、潮時とか言ってらっしゃいましたが……」
「ああ、そろそろ出て行こうかと思ってな」
「えっ?」
アデルは慌てたように詰め寄る。
「うちに何か不手際でもありましたか?」
「いや」
「でっ、では、何かご不満な点がおありですか?」
「そんなんじゃない。ここはいいホテルだ」
答えながらレオは、ニアのグラスの口を指でなぞる。
指がグラスの口を一周するたびに、水の色が変わる。ニアの視線は、レオの指先とグラスを行ったり来たりしていた。
「アデル、準備してもらいたいものがあるんだが、いいか?」
「そんな! 旦那、そんなに慌ててどこに行こうってんですか?」
「慌ててるのは、おまえだろう」
そうアデルを窘めた後、レオはテーブルの上で指を組む。
「……行き先ね。まあ、色々行こうとは思っているが、そうだな……」
レオは、すっと目を細める。グラスの水は結局ピンクで落ち着いた。
「ニーダーサクソン」
顔色を失くしたアデルは口の中で、もごもごと失礼します、と答えて厨房の方へ消えて行った。
「おいおい……聞かずに行っちまったよ」
背中を見送りながら、ふむとレオは一つ頷く。
やはり、アデルには何か狙いがあることに疑いはないようだ。
紅茶を飲みながら、左手をすっと閃かせ、ステータス画面を開く。やはり、新しいイベントが発生している。
獣人たちへ……2
(……? アデルとなんの関係があるんだ? リンのことか?)
赤い川のほとりで、「一緒に来るか?」と尋ねたレオに対し、リンは、しっかり頷いて意思表示したのだ。
救いの無かったヤモ将軍の一件で、唯一の救済がこのリンの存在だ。
その後、現れたニアの姿にレオは、ますますその思いを強くした。
徒労ではない。命を一つ、救うことができたのだと。その思いがレオの気持ちを暗殺者の後ろめたいものでなく、堂々としたものに変えている。
目の前で、チンと空のグラスが鳴る。
ニアが上目使いにグラスを差し出して来た。
「飲んだのか? 旨いのか、それ……」
「すごく甘い」
レオは、がたりと身を起こすと空のグラスに水を注ぎ、再び錬金を行う。
「よし、実験だ。実験」
◇ ◇ ◇ ◇
「おまえたち、旦那に何かやらかしたのかい?」
アデルは厨房の片隅に、エルとアルの姉妹を引っ張りこむと鼻息を荒くした。
「血相変えてどうしたんですか、マダム?」
エルは首を傾げながら、ちらりとレオに視線を走らせる。
「おお、ピンクはピーチ味だな!」
キッチンのカウンター越しに見える窓際の席では、レオが暢気な声を上げている。
「旦那、ウチを出て行くって言うんだよ」
「「えっ?」」
姉妹は異口同音に驚いて、しばらくの沈黙の後、答えを返したのは姉のエルだ。
「マダム……あの方は、私たちとは見てるものが違うんですよ。奇跡のようなお方です。たどり着く先は、きっと神話の世界にでもあるんでしょう。そんなお方が私たちのことになんて気を使うはずないですよ……」
エルは捨て鉢に言い放ち、諦めたように俯いた。
「なに馬鹿言ってんだい。旦那が行くって言ってんのはニーダーサクソンさ」
「ニーダーサクソン……」
ぼんやりと反芻するアルは、レオとニアの二人を遠い目で見つめていた。
ニーダーサクソンと言えば、最近軍国化を進める北の大国である。エミーリア騎士団の本拠地であり、神官の総本山でもある。騎士とはいえ、神官であるレオが身を寄せるのに何の不思議もない。
エルが言った。
「ニーダーサクソンには『光の剣』がありますね」
『失われた英雄』であるレオンハルト・ベッカーが皇竜を討ち取った伝説の剣だ。ニーダーサクソンでは『アーティファクト』に指定されている。
「紫はマスカット味だ!」
三人の視線の先でレオが笑い声を上げながら騒いでいる。周りに目ざとい商人たちが集まり、興味深そうにその様子を見つめていた。
レオンハルト・ベッカーには不思議な魅力があった。
時には武勇を旨とする騎士であり、時には慈愛溢れる神官であった。屈託なく笑う彼は、少年の容貌を見せており、見るものを引き付ける。そんな彼が『失われた英雄』その人であったとして、何の不思議があるのだ。
アデルには確信に近いその思惑がある。
「あたしゃ、このまま旦那を行かせるつもりは毫もないよ。おまえたち、旦那のことで知ってることは全部話しな」
「マダム……まだわかりませんか?」
エルは盛大に溜め息を吐いた。
「神官騎士は死神ほどに容赦ありません。手酷いしっぺ返しをくらいますよ?」
う、とアデルはたじろいだ。以前、旅の詩人が歌った『失われた英雄』の詩の一説を思い出したのだ。
神官騎士の十戒――
無私、無欲、奉仕、公正、慈愛、礼節、勇気、武勇、信仰、寛容。
神官騎士はこの十戒を何より尊ぶ。騎士でありながら、名誉や忠節に縛られぬこの戒律から、神官騎士はテオフラストの剣、アレクエイデスの目と呼ばれている。
こうも謳われる。
命を選ぶ神官騎士。慈愛はあれど、容赦なし。
神官騎士の剣は立ち塞がる者に容赦ない。癒しを行う手で、騎士としても剣を奮う。そして剣を持つ以上、ためらいなく命を奪う。命を選ぶと言われる所以だ。
「それに」
とエルは付け加える。
「あの犬の従者さんも、ただ者じゃありません」
「や、やりようはあるはずさ」
アデルは目の前のエルでなく、己に言い聞かせるように言った。
「……そうですね。やりようは、あります」
はしゃぎ、商人たちと歓談するレオに視線を向けたまま、アルが呟くように言う。
「なにかいい案があるのかい、アル?」
「ちょっ、アル? 何を言い出すの!」
エルの驚きまじりの制止の声に、アルはゆっくりと首を振った。
「希望……」
少しの沈黙を挟んで、アルは言った。
「レオンハルトさまは、このニューアークの……私たち獣人の希望なんだよ……だから、行ってほしくない……」
「アル……」
エルは二の句を継げず、黙り込んだ。彼女も妹と同じ思いがあったからかもしれない。
「マダム、着いて来て下さい。紹介したい娘がいます。きっとあの娘がカギになります」
「紹介したい娘だって?」
今はレオンハルト・ベッカーの話をしているのだ。アデルは腹立たしそうに眉を寄せる。
「はい、マダム」
そしてアルは、昨夜の出来事を話し出す。
夜遅く自室に帰ったレオが、傷つき薄汚れた獣人の娘『リン』をエルとアルに預け、身の回りの世話と新しい衣服の準備を頼んだ件だ。
その際、レオが『リン』の所在を隠匿するよう要請したこと。
リンの鬣が薄い銀色を帯びていること。
リンの顔に大きな傷痕があること。
全てを話してしまったアルを前に、エルは顔面蒼白になった。
エルの想像では……リンは恐らく逃亡奴隷だ。うっすら銀を帯びた鬣は、リンが純粋な犬の獣人でないことを示している。
恐らく、リンは狼の獣人の血を引いている。或いは、狼の獣人そのものだ。
狼の獣人――ウェアウルフは見た目こそ犬の獣人のそれだが、犬の獣人より生命力に優れ、高い知能を備えている。
ウェアウルフは聖域アポステルにのみ存在する希少種で、奴隷市場では、その子供は非常に高価に取引される。無論、エルもアルもレオが奴隷売買に手を出したとは思わない。しかし、レオがウェアウルフの希少価値と危険性を知っているとも思わない。
ウェアウルフは孤高の生物だ。ドラコニア(竜人種)に並び、獣人種の頂点に立つ存在だ。故に、他者には絶対服従しない。ただし――成長すればの話だ。子供のうちであれば、従わせることができる。
懐き辛いウェアウルフを仕付けるためよく用いられる手段は、絶食と暴力である。子供のうちに絶食と暴力によって支配するのだ。
レオの人格がそのような方法を嗜好するとは思えない。やむを得ない理由から、一時身柄を保護したことは疑いない。本人に確認したわけではないが、エルはそのことを保証してもよいくらいだ。
問題は、レオがどのような状況下でリンを保護したかだ。
高価なウェアウルフの少女を所有する『誰か』から、どのようにして、今回の状況に及んだのか。
レオは固く口止めした。そして、エルは考えないことにしていた。
「アル……あなた、なんてことを……」
もし、レオがリンに纏わる全てを理解して、エルとアルの二人に協力を要請したのであれば、今回の一件は許し難い裏切りだ。
この明確な裏切りを、レオはどのように遇するだろう。エルは戦慄せずにいられない。
「…………」
全てを聞いたアデルは、しばらく黙り込んでいたが、苦笑いを浮かべ、言った。
「エル、そんな顔すんじゃないよ。あたしゃ、なにも旦那にケンカ売ろうとか、どうにかしてやろうってんじゃないんだ。強いて言えば……そうさね、恩を売りたいだけなんだ」
「恩を……」
どうやら最悪の未来だけは回避したようだ。アデルの言葉に、エルはほっと胸を撫で下ろす。
だが、次の一言がエルとアルの胸の内を貫くと知っていれば、アデルはきっと口を謹んだだろう。
「しかし……旦那は、よっぽと犬が好きなんだねえ」
冷やかすような口調で放たれたその一言は、無形のナイフとなって猫の姉妹の心を切り裂いた。
『いやらしい猫』
顔色一つ変えず言ったニアの言葉が姉妹の脳裏を過る。
「マダムは……そう思われますか?」
「そりゃそうさ、あの二人ときたら、朝から晩までべったりじゃないか。ま……犬の娘の方が旦那に夢中なのは間違いないようだけど、旦那の方もまんざらでもないみたいだし」
アデルは二人に向き直る。
「まあ、犬っ娘のことはいいさ。そのリンとやらに会ってみようじゃないか」
「…………」
エルとアルは顔を見合わせた。姉妹の脳裏に、銀貨にたかる親族の姿がちらつく。
「何言ってんですか、マダム」
「え?」
「そうですよ。あの犬の従者さんが、どうでもいいなんてことは、ありえないんですよ」
「な、何言ってんだい、おまえたち」
アデルはひたすら困惑した。冷たいものが背筋をしたたる。
厨房の中は、忙しく走り回る料理人たちと給仕の使用人やらの熱気でごった返していたが、アデルには真冬の冷気が漂っているかのように、薄ら寒いものに感じられた。
「レオさま……あの方は、私たち獣人の希望なんですよ。それが、犬の従者さん一人のものであって、いいわけないじゃないですか」
アルの言葉にエルがためらいがちに頷いた。
(そうだ。私たちは、いやらしい猫なんだ……なら、徹底的に……)
「あんたたち、一体、何を考えて……」
どのような苦境にも耐え、数々の逆境を持ち前の知性と勇気で乗り切り、ついには身一つでこの『アデライーデ』を起ち上げるに至った才媛、アデルは事の成り行きに不安を隠せない。姉妹の瞳に映った色に薄ら寒いものを感じたからだ。
アデルは、強く姉妹を睨みつけると厳しい口調で言った。
「おまえたち、馬鹿をするんじゃないよ。あたしにまかせりゃいいんだ。大丈夫、悪いようにはしないよ」
アデルの視界の端では、集まり出した商人たちと歓談するレオが、年相応の朗らかな笑みを浮かべていた。