第11話 変わる未来
暗殺イベントの表示欄に、completion(完遂)の文字が踊る。
酷い疲労感があった。パーフェクトガードはスタミナの消費が激しすぎる。
彼自身、理解できない高揚感は既に胸の内を去り、疲労だけが後に残った。
レオは血の海に沈むヤモ将軍の手から、『レールガン』を奪い取ると、腰のベルトに差し込んだ。
視線をちらりと隣に移すと、小さな犬の獣人の少女と目が合った。
「――!」
脅える少女の顔を見て、レオは激しく狼狽した。
「あぅ……あぅ……」
少女の顔には額の左から、右の顎へと抜ける深い切り傷がある。察するに、ヤモ将軍が戯れに刻んだものだろう。
哀れだ。その反面、見られたからには見逃すわけにもいかない、とも考える。
レオは、そっと獣人の少女の額に触れる。
直接触れることが出来れば、この少女の基本的なステータスに限り、閲覧することができる。
犬の獣人は猫の獣人に比べ、知性で劣る替わりに、はるかに強い生命力と運動能力を持っている。SDGの世界では、獣人は八歳を越えると戦闘に参加できる年齢になる。少女の年齢は四歳だ。名前はまだない。ニアのように、売られたのだろうか。
そう、ニアのように。
(ん……? 犬の獣人じゃない……これは……)
そのとき、ステータス画面に浮かんだ黒い瞳のマークが白く光った。ディテクト・アイの索敵に誰か引っ掛かったのだ。
咄嗟の行動だった。レオは外套で少女を覆うと胸に抱え、脱兎のごとく駆け出した。
ディテクト・アイの索敵を頼りに人目を避け、レオはひたすら走り続けた。人気のない路地を抜け、明かりのない暗がりに飛び込んだ。
やがて水の流れる音が耳を打ち、そこがニューアークの北端である『赤い川』の下流に程近い場所であることに気づいた。
辺りに光源はなく、深い闇と静かな水の流れが周囲に広がっている。
胸の中で、獣人の少女が脅えて震えている。
『面倒は赤い川に投げ込め』
ならず者たちの言葉だ。
レオは、どっと背中から冷たい汗が吹き出すのを感じた。
良からぬことを考える。すぐにでもホテルの自室にとって返し、ニアの胸に顔を埋めて眠ってしまいたい。
(何を考えている!)
レオは己を叱咤する。一人の人間として、そのようなことが許されるわけがない。
胸に去来する思いは、自己に対する強い嫌悪だった。この状況を何度も頭の中でシミュレーションし、実際上手く行った。強い達成感も得られた。
だが、魔剣グリムが肉を貫くあの感触を思い出すと、
(もうゲームじゃない……)
そう思わずにいられない。
このメルクーアで初めて、命ある存在を殺した。レオの胸は、その事実に戦き恐怖に震えた。そういうイベントだ、と自己正当化してみるが無駄だった。
己の胸の内で、小さな命が弱々しく震えている。
レオは、そっと外套を捲り少女に語りかける。
「今、治してやるからな……」
とんでもない偽善だ。レオは内心、肩をすくめる。
神官魔法の暖かく目映い光が少女を包む。命を奪った手で、癒しを行うのだ。こんなに酷い偽善はない。
「……!」
少女の瞳が驚愕に見開かれる。
「アスクラピアの加護を……」
最近、この文句が彼の口癖になりつつある。
続いて、混乱状態を治すマインドヒールの詠唱を行う。特に、少女が混乱状態にあったわけではない。脅えている少女の助けになれば、と思ってのことだ。
(茶番だ……)
レオに激しい疲労と徒労感がのしかかる。
闇の中できらめく少女の瞳と、疲労に淀むレオの瞳がぶつかる。
「なあ、きみはどうしたい……?」
レオは静かに言う。
赤い川は全てを受け止め、静かな流れとともに新しい運命を運び込もうとしている。
◇ ◇ ◇ ◇
ホテルの高級スイートの一室で、ニアは独り震えていた。
思い詰めた表情のレオが外出して一時間ほど経過している。
ニアは、レオの言い付けを守って外出しないのではない。《予知》を守って、レオの後を追わないのだ。
《予知》で見た光景では、レオは朝まで帰ってこない。帰ってくるのは、日付が変わり明け方近くなってからだ。
疲労困憊のレオは、帰ってくるなり眠りに落ちる。ただ……これが自分にとって、よいことなのか、それとも悪いことなのかの区別が着かず、ニアはひたすら思い悩んだ。
このまま静かにしていればレオは帰ってくるのだ。ニアは必死で自分に言い聞かせる。 だから、《予知》を破ってはいけない、と。
「う、うううう……」
ニアは苦痛に似た呻き声を上げた。
《予知》で見たレオの表情。ぼろぼろで、見る影も無く憔悴しきった顔だった……。
《予知》で見えるのは自分の未来のみだ。夜遅く、外出したレオが何をしているかは分からない。分からないが、ここで待ち続けることが自分にとって、本当にベストの判断なのだろうか。
ニアは、どうしてもその判断がつかなかった。
失われた知性の存在が恨めしい。『メシア』の能力を使う前の自分なら、レオのあの表情を見てもなお、動ずることなくいられるのだろうか。
ニアは強い焦燥感を覚える。これが初めてのことではない。レオとの再会を経てから、ずっとそうだ。なにか大切なことを忘れているような気がするのだ。必死で思い出そうとする。
……そう、このようなときのために、自分は何か対策を立てていたはずなのだ。それがなんであるか。焦燥感の原因はそれだ。思い出さなければならない。このままでは、泥棒猫や性悪女と戦えない。きっと馬鹿な自分はなす術もなくやられてしまう。
レオとの再会以来、ニアのその強い危機感は、ぬるま湯の生活に埋没しつつある。
ニアは立ち上がった。
そうだ。このままではいけない。何かを変えるのだ。その思いが彼女に《予知》を破らせる。
「レオ、いま行く……!」
この行為が愚かであるか、賢明であるか。正しい行動が正しい結果を生むとは限らない。後日、ニアはそのことを身を持って知ることになる。
レオから遅れること一時間、ニアは高級スイートの一室を飛び出した。
途中、アルとすれ違ったが、彼女はニアを認識できなかった。アルが見たのは、正体不明の物体が、とてつもないスピードで糸を引きながら、廊下を移動する様子であった。
ニアのエクストラスキルであるワイルドスピードの能力だ。
ホテル『アデライーデ』を飛び出したニアは、一瞬、停止すると周囲を見回して、くんくんと鼻を鳴らす。
夜のベッドで……いや、この半月の間、ずっと彼女の胸を焼き続けた匂いが鼻孔をくすぐる。
神速で駆け出したニアの行き先はニューアークの中心にある広場の方角だ。
両手足を使い駆けるニアは野生に立ち返り、ますますスピードを上げて行く。その彼女の耳を、電磁誘導を利用して特殊な弾丸を射出する『レールガン』の発砲音が刺し貫いた。
ニアは、ぎょっとして足を止める。何かを思う間もなく、続けざまに激しい衝突音。
この音は聞いたことがある。あれだ。レオがニアを守るため、トルーパーに使ったあの力。
つまり――レオンハルト・ベッカーが戦闘を行っている。
唇が震え、ニアは一歩も動けなくなった。
これでは自分はとんでもない役立たずだ。なんのために行動を共にしているのだ。今度こそ、彼から離れず、何者も近づけさせないためではなかったか。その思いが胸を貫いたのだ。
レオンハルト・ベッカーが、単独で戦闘を行っている。
その事実がニアの足取りを重くする。
出会った頃から、ずっとそうだ。レオは、いざというとき独りを選ぶ。独りを頼む。誰の助けも当てにはしない。
レオは……ニアを頼りにしない。それは八年経った今も変わらない。
(だから……)
それを変えるのだ。ニアは落ち込みがちな思考を振り払うと、再び神速で駆け出した。
◇ ◇ ◇ ◇
ニューアークのほぼ中央に位置する『エデン広場』は、血なまぐさい匂いが夜風に乗って漂よっている。
エデン広場の中央で、アレクサンダー・ヤモが裁きを請う罪人のように、ひれ伏して死んでいた。
その光景は、ニアに何の感慨も与えなかった。
「…………」
血の匂いが強すぎる。おかげでレオを追えない。
ニアは考える。
ヤモ将軍が死んでいる。それはよい。ただ、あまりにも綺麗にやりすぎだ。これでは蘇生の可能性を残してしまう。
ヤモ将軍を殺したのはレオだろうか。……だれでもいいか。
ニアが、ぱちりと指を鳴らすとヤモ将軍の赤い軍服は紅蓮の炎に包まれた。パイロキネシス(発火能力)で完全に死体を破壊してしまうつもりだった。
ヤモ将軍は不快な人物だ。好戦的で、弱者をいたぶることに歪んだ快感を覚える狂人であった。そんな彼がこの世から永遠に消えたとしても、ニアは一向に困らない。
ニアは、冷たく冴えた月を睨み付ける。
焼けて行くヤモ将軍が放つ脂の匂いで、ますますレオの匂いは薄くなる。それに混じって……なんだか不穏な匂いを感じるのは気のせいか。
これから先は超能力で追うしかない。
レオンハルト・ベッカーが獣人の少女に、ニアとの出会いを重ねた正にその瞬間、外ならぬニアの気配を察知して、思わず少女を連れてこの場を去ったことは、ニアにどのような運命の変遷を齎すのか。
ニアは腕を組んだ姿勢で俯き、視線を伏せると瞑想を行った。
レオンハルト・ベッカーは赤い川にいる。
アキラ・キサラギはダラム水上要塞にいる。
イザベラ・フォン・バックハウスはニーダーサクソンにいる。
アレクサンダー・ヤモは死んでいる。
再び駆け出しながら、ニアは強い焦燥感に襲われている。
ここ数日、ニアが気にかけているのは、他のパーティメンバーの動向である。
彼女の記憶が確かなら、アキラはイザベラと共にニーダーサクソンの『エミーリア騎士団』に所属していたはずだ。それが、すごいスピードで移動を始めている。アキラは抜け目ない。きっとレオの存在を嗅ぎ付けたに違いない。動きのない性悪女……イザベラのことも気掛かりだ。
いや、そんなことより今の自分は、レオを追わなければ……。知性の失われた自分自身が恨めしい。ニアの思考は些か纏まりに欠けた。
レオは赤い川のほとりで見つかった。彼の言い付けを守らなかったことを思い出し、一瞬ためらうが、構わず飛び出す。
「レオっ!」
血の匂いが強くなる。レオのものではない。そのことに胸を撫で降ろしながら、彼に纏わりつく小さな人影に目を凝らす。
「……?」
一方、夜目の利かないレオは、人影を庇いながら身を小さくするが、ニアの姿を確認すると、柔らかな笑みを浮かべた。
「ニア、来て、くれたのか……」
その笑みは小さな一輪の花の蕾が開花するさまを想起させ、ニアの胸にじんわりと暖かいものが込み上げた。
やはり、これで正しかったのだ。自分は間に合ったのだと。
「だれ……?」
ニアは困惑しながら、小さな人影を指さす。それは彼女の《予知》には無かったものだ。
「ああ、この子か? リンだ。俺たちの、新しい仲間だ」




