第9話 収束
昏倒したレオに駆け寄ろうとしたアデルら三人を制したのは、ニアだ。
あご先から冷たい汗が滴り落ちるレオの瞳は、苦悶の表情に堅く閉じられている。ニアは、しなやかな、だが力強い両腕にレオを抱えると、牙を剥き出してうなり声を上げた。
レオの症状は、典型的なマジックドランカー(魔法酔い)の症状だ。通常なら、未熟な神官や魔道士などが陥るこの症状であるが、高位の術を使用した場合、熟練の神官や司教ですら避けられぬ症状だ。
「レオは……よく、やった」
「…………」
ごくり、と息を飲むアデル。
「いやらしい猫……!」
怒りに震えるニアが感情に任せて爆発してしまわないのは、この場でそうすることでレオの行為の全てを台なしにしてしまうことに対する懸念からだ。
マジックドランカーから来る貧血が、命に拘わるほど深刻なものでないことを知っていたからということもある。
ニアは圧し殺すように、言った。
「おまえらの、せいだ!」
「…………」
エルとアルは眦に涙を溜め、俯いた。
怒りに鼻を鳴らし、レオを抱えたまま、部屋に引き上げようとしたニアをアデルが呼び止める。
「ちょっ、ちょっとお待ち!」
「なんだ、薄汚いエルフ……」
鼻の頭に深い皺を寄せ、振り返るニアの表情には、アデル――エルフに対する嫌悪がはっきりと見て取れた。
「…………」
アデルは、またしても黙り込む。いわれのない侮辱であったが、先ずそれを向けたのは外ならぬ彼女なのだから。
「金、か」
「ちっ、違う!」
嫌悪を隠そうとしないニアに、アデルは酷くうろたえたように否定する。
「好きなだけ、くれてやる」
ニアは鞄の中から、ありったけの銀貨を取り出すと階下にばらまいた。
ロビーは大混乱になった。
ニアのばらまいた銀貨に、ホテルの使用人やエルとアルの家族が殺到したためだ。
「お止め! おまえたち、止めるんだよ!」
制止の声を張り上げながら、今度こそアデルは涙を流した。
悲しみからではない。娘を思ってのことでもない。情けなさのあまりだ。
「止めて! みんな、お願いだから止めて!」
エルとアルも悲鳴交じりの声を上げる。
いやらしい猫。
ニアの言葉が姉妹の胸を刺す。
姉妹とニアとの間に種族間の対立の図式はない。同じ境遇を背景に持つ獣人種の彼女らにあるのは、本来なら共通意識と仲間意識だ。
ニアは大パニックの様相を呈するロビーを一瞥すると、後ろも見ずにその場を去った。面白くもなんともなかった。
治癒魔法の乱発で昏倒したレオが目を覚ましたのは、それから丸二日経過してのことだ。その後の経緯を知らない彼は、内耳炎防止のための簡単な衛生講習会を申し出たのだがエルとアルに固辞された。
姉妹は目を真っ赤にし平伏していた。
レオは、獣人たちの衛生環境の改善の必要性を強く訴え、姉妹の翻意を促したが、これは無駄に終わった。背後から、姉妹を刺すように睨み付けるニアの視線に気づいていれば、違う結果になったかも知れないが、レオが気づくことはなかった。
やむを得ず、レオは、小まめな手洗いと爪切りの推奨。及び、耳の洗浄法を指示してこの一件は一時の終結を見た。
その後の患者たちの経緯も知れず、レオには少し気掛かりな決着となったが、彼は周囲を取り巻く雰囲気の変化に気づかないわけには行かなかった。
アデルは恥じ入ったように目を逸らし、エルとアルの二人は急に余所余所しくなった。
イベント欄の、獣人たちへ……1 は隣にcompletion(完遂)の表示がされ、かすれたような文字になっていた。つまり、この一件はゲーム的にも一応の決着を見たのだ。このイベントを進めるためには、時間の経過か、新しいイベントフラグの成立を待たねばならない。
その思惑から、レオはこのイベントから手を引いた。




