前編
短編で発表するつもりでしたが、ある事情で前後編にさせていただきました。
少しでも早く発表したかったもので。しかしこの先が思いつかない。ううう。
夜間シフトのバイトの帰りだったんですよ。
最終電車を降りて、駅近くのファミレスに入りました。
シーフードピラフで小腹を満たしファミレスを出た頃には午前一時を過ぎていました。
ファミレス以外はコンビニくらいしか開いている店もない小さな町なので、こんな時間に車に乗るでなく徒歩で出歩く人はほとんどいません。ひたひたと自身のスニーカーの足音だけが聞こえてくるような少し不気味な感じでした。
徒歩で住んでいるアパートに帰るところで住宅地の路地を歩いていた時でした。
しばらく歩くと背後で人の気配がしました。
でも振り向くと、誰もいない。
「なんだ、気のせいか」
しかし道路を見て思わず息を飲みました。自分を基準にすると後方五メートルほどにそれがいたんです。
そこには対象人物のいない影が外灯の青白い光に逆らうようにアスファルトに張り付いていました。
しかも、その手には刃物のようなものが握られていました。
何だ、これは?
影の幽霊。そんなモノがあるのだろうか、一瞬思いました。
「あー。それは殺人影というの。強すぎる殺人衝動が独り歩きして半実体化したものなのよー」
レジカウンターの向こう側でインスタントコーヒーを啜るオッサンが、カウンターに置いてあるノートパソコンで地デジ放送を見ながらさらに僕の話を聞いていた。
「えー、ちょっと、ここで割りこまないでください。ここが一番怖いところなんですですから」
「あー。悪い。先を続けて」
「調子狂うな。まあいいですけれど」
しばらくその影と対峙していました。異様な殺気を帯びていたものだから身動き出来なくなったからです。
「だから、それが殺人影といって…」
「わかりましたから。後で聞きますから。最後まで喋らせてください」
「…すまん。つい」
突然その影がこっちに走って近づいてきました。
右手に握られている刃物のようなものを振りあげていました。
ただの影なのに、殺されるような恐怖を感じた。で、思わず逃げ出しました。
ですがしばらく走って息が切れ動悸が激しくなると自然と足の動きが鈍くなり、歩いていました。
覚悟を決めて振り返ると、もう影はいませんでした。
一体それは何だったのでしょうか?
ていうか、もう答えが出ているじゃないか。
「殺人影。さっきも言ったとおり殺人者の殺意が半実体化した物。これ自体には何の力もないが、これが現れたという事は、近くに殺人者がいるということだ」
レジカウンターの向こうにいる三十路のオッサンがさっきから話を台無しにしていた。
ここは変書堂という書店だった。創業半世紀。オッサンの父親が始めた珍しいが稀覯本ではない一般書籍を扱うマニアックな書店だった。
僕がこの書店に通い始めたのが三ヶ月前。もっと前から気にはなっていたが、入る勇気がなかったのだ。
この辺りは旧市街で江戸時代からの酒や醤油の醸造所と蔵が立ち並び、独特なモノトーン調の街並みが町の観光名所となっている。
このオッサンの家も代々醤油の醸造販売をしていたらしい。半世紀前にオッサンの父親が家業を廃業し醤油の量り売りをしていた店舗を改造して書店にしたのだ。だが店の外観はかつての趣をほとんど残していた。
趣味人の通う店、という先入観があって入りづらかったのだが、ある事件をきっかけにオッサンと知り合いこの店に通うようになったのだ。その事件についてはまた話すこともあるかもしれない。
今では週に二日の数時間、ここでオッサンと取り留めのない会話をしている。
姓名を玉簾廉太郎という。この書店を父親から引き継いだのは二年前。それまでは日本中を放浪していたらしい。何をしていたのかは今のところ秘密だそうだ。もう少し親しくなれば聞けるかもしれない。
「しかし、困ったことになったぞ義孝くん」
そういえば自己紹介をしていなかった。僕の名は義孝。姓は見菜森。19歳のフリーターだ。一応人生の目標は持っているのだが、他人に自慢するほどの大層な夢でもないので叉の機会に。
夜のバイトがない時は予備校の帰りにここへやって来るのが日常になっていた。ここには他の本屋にはない珍しい本が並んでいる。その背表紙を見てオッサンに内容を聞いたりして無駄話をして時間を潰し部屋に帰るようになっていた。
「どんな困ったことが僕に起こるんです?」
「影に狙われている。それは本体にも狙われるということを示している」
「え?狙われるって…」
「独り歩きしている殺人衝動とはいえ本体の分身であることは違いない。その分身の記憶は本体の無意識に残る。明確に義孝くんの事を理解していなくても気になる存在になっているのだよ。もし君に出会えば真っ先に標的にされるということだ」
「ちょ。ちょっと待ってください。勝手に狙いを僕にされても迷惑なんだけど」
「運が悪かったというしかない。偶然殺人影と遭遇してしまったんだが、通り魔なんてそういうものだろ」
おいおい。自分運悪すぎだろ。
「まさか、死ぬって…」
「最悪の場合はそうなるわな」
「ど、どうにか成りませんか?回避法とかを教授してくれる本とかは、ないですよね。そんなオカルトじみたものに関する本なんて…」
「んー。あるよ。確か奥の実用書コーナーに…」
オッサンはカウンターから出て店の奥の棚に向かった。
本当にそんな本があるなんて。どれだけ需要があるんだ、そんな本。
「これだ。三冊あったよ」
オッサンはカウンターに三冊のA4サイズの本を置いた。見るからに実用書っぽいタイトルだった。
「よくわかる殺人影防衛術」
「図解 分かりすぎる殺人影回避法マスター」
「徹底解析 殺人影をよく理解する本」
三冊もあるのか。なんというか、すごいな。
「ハウツー本、ですよね」
「その通り。ハウツー本だ」
「はあ。なぜそんな本が一般の書店にあるんです?内容からして個人研究家の自費出版本みたいですが」
「何いってんだ。この本はちゃんと流通している一般書籍だ」
「え。本当に?こんな内容でどれくらいの部数が出てるんですか?想像もつかないですよ」
「ふ、ふ、ふ。本の世界は深いんだよ、義孝くん。想像もつかない本が隠れたベストセラーになっていることもあるのさ」
オッサンがニヤリと笑った。
レッスン1 よく理解しましょう。 殺人影とは何か?
人間の感情は精神エネルギーとして物性を帯びることがあります。
特に怒りや憎しみの感情は他の感情の数倍の精神エネルギー変換を起こし、強力な物理的作用を引き起こす事例が幾つも記録して残されています。
それは別名「呪い」と云われています。
殺人影もその一つです。
「前置きはいいから、回避する方法は、と…」僕は本ページをパラパラめくり目的の項目まで進めた。
レッスン4 殺人影を回避する方法を練習しましょう。 殺人影回避法その1
出現場所には近づかない事が回避法としては最適です。
殺人影は一種の地縛霊なもので、影の出現者である人間が強い殺人衝動をその場所に焼き付けたものなのです。ですから、その場所に近づかなければ狙われることはなくなります。
ただし、殺人影が消えたわけではありませんので、その矛先を別の人間に向けられます。
気になるようでしたらさりげなく危険をその場所を歩く人間に教えてあげましょう。
「どうやって?というか、僕が逃げたせいで別の犠牲者が出るってことじゃないか。それはなんか気分的に良くない。後ろめたくなります」
「おお。義孝くん、君は正義の人であったか。えらいなあ。早死しそうだけど…」
「そんな風に言わないでください。本当は逃げたいんですから。どのみちこの町から引っ越さない限り、アパートに向かうあの道を通らないといけないわけですから」
「そうかそうか。若いっていいねえ。勇気ある行為を無償で行えるなんて若い者の特権だよ」
「そ、そんな…」
「で、どれにする?」
「は?」
「は?って。ここは書店で、この本は商品だ。あとは分かるな」
オッサンは商売には厳しい人だ。
「立ち読みして自分の命を救おうなんて甘いよ、義孝くん。今君が読んでいるそれなら1890円(税込)だ」
僕は「図解 分かりすぎる殺人影回避法マスター」を手にしていた。
「初心者ならそれがいいかもねえ。図解入りだし」
初心者って。こんな事にプロとかいるのか。
「いるよ。恐ろしく運の悪い義孝くんのような人間が。普通の人間が、先日義孝くんが出会った妖怪モドキのような怪異と遭遇する確率なんてそんなにないんだよ。普通の人間は、怪異のような異物を脳内で無意識に自分の世界から排除しているんだ。在り得ないものを見えないものとして脳が処理してこうあるべき現実を形成している。それがこの世界の真実なんだ。それが出来ない義孝くんのような不運な人間もいてねー。そういう人間はこの世界のプロになってゆくのさ」
「とても嬉しくないプロの道なんですけど」
「現実は受け入れるんだ。そこから開ける人生もあるさ。と言うことで…」
僕の目の前に手を突き出す。
「1890円、税込」
僕の財布から貴重な紙幣が二枚消え、百円玉1枚十円玉1枚が戻ってきた。
うう。バイトの給与は後二週間後経たないと振り込まれない。
この千百十円で二週間どう生きろと。はあ。未来の通り魔よりも目の前の貧困のほうが恐ろしいとは。
世界の仕組みは何か間違っている。
「義孝くん。生き延びてくれよ。うちも常連が一人いなくなると売上が下がるからね」
「そっちの心配ですか。鬼だ。守銭奴だ」
「私の父親を守銭奴扱いしている貧乏予備校生風情がいると思ったら、お前か」
店の入口から見たことのある女子高校生が入ってきた。
「よお。我が娘、お帰り」
「環さん、お帰りなさい」
「お前にお帰りを言われる謂れはないぞ、貧乏予備校生風情」
私立のお嬢様女子高校の制服であるグレーのブレザーに赤を基本色にしたチェックのプリーツスカートを着用した少し釣り上がった切れ長のメーテル目の美少女こそ、オッサンの娘の環さんだ。年齢的には僕のほうが年上のはずであるが、何故か彼女のほうが立場的に上位にいる。喋るときは口に出して敬語を使わないが気持ち的に謙譲語で会話している自分を情けなくなる時がある。だが彼女の前ではなぜかそうなってしまう上下関係が成立していた。
「また変なものに絡まれているみたいだな。つくづく退屈しない人生を送っているな」
「環さん、それはないよ」
「ふん。まあ、お前ごときが怪異の餌食になっても私は一向に困らないが、せいぜいうちの商売には貢献してくれ」
今時珍しい染められていない背中までストレートに伸ばした黒髪を揺らしながら、店奥のドアを開けて二階の住居部に入っていった。一応住居部に入るために建物裏にも扉があるのだが、環さんは店の入口から必ず入ってくるのだ。そして夕方はカウンターに入って店番をしていた。
「おや、うちの環に興味があるのかい?」
気づいたら環さんが入っていったドアをしばらく見つめていたようだった。
「まさか。でも先日の妖怪モドキに取り憑かれた時には彼女に助けられました。彼女のあの能力は一体何です?」
「あれは母親の血の影響だと思う。わしにも良く解らん」
「亡くなった奥さんの血、ですか」
「ああ。家の奥さんは巫女だったのさ。それも代々神聖な血を守り続けてきた一族の末裔だった」
「はあ?何ですか、そのありがちな伝奇小説設定の一族は」
「信じる信じないかは、あなた次第です」
「うわー。胡散臭い話だ」
冗談でなく、三年前に亡くなったオッサンの奥さんには何かしらの力があったようだ。それを彼女が受け継いだのは間違いない。本当にすごい退魔の力だった。
奥さんは娘をオッサンの義理の父に預けてオッサンと一緒に日本中を彷徨っていたらしい。旅の途中で亡くなったことになるのだが、一体何があったのか?興味は尽きないが、個人の事情にズケズケ踏み込んでいけるほど僕はオッサンの一家とは親しくなかった。
それよりも、自分の延命の方が最優先事項だよ。さっさと本を読破して対抗策を立てなくては。
「じゃあ僕は本を読んで対抗策を考えます」
「おう。死ぬなよ」
オッサンは軽く手を振り送ってくれた。
しかし1890円は痛い出費だった。アパートの自分の部屋に戻る途中ずっとその事ばかり考えていた。
気づいたらあの影が出る住宅街の路地にやって来ていたが、今日は早い時間だったので人の往来があり安心だ。だがしかし、
「お前が、そうなのか…」
後ろで男の声がした。
後編は少し間が空くかもしれませんが、必ず書きますので。その時はまた御笑読下さい。




