海面散歩
ゆっくりと、瞼を持ち上げる。
すると群衆恐怖症の気がある自分としては、気味が悪くなるくらいに沢山の星々が爛々と輝いていた。
普段ならきれいに感じるはずなのに、今は何故だか感動できない。
意識と無意識を入ったり来たりしていると、少し寒い風が通り過ぎて、今まで自分が屋外で寝ていたことを告げた。
「え?」
両腕を後ろについて、一気に上半身を起こす。
暗闇に目が慣れていないので、周りはよく見えなかったが、体を支える手の平の感触からすると……ここは砂浜か?
若干焦って混濁した意識を持て余していると、外で寝てしまっていたせいか、鋭い痛みが頭蓋の中を走った。
「痛ッ……」
と同時に、自分の中で歯車が噛み合って、全てを思い出した。
そうだ。
俺は彼女とケンカした後、それから――――
「海の上を歩いてる人を見たときあるんだ」
どういう流れでその発言に至ったのか、余り詳しくは覚えていないが、この言葉が全ての始まりだったことは覚えている。
端から見れば頭の可哀そう奴にしか見えないだろうが、とにかく俺はその光景を見た。
その話をしたときの彼女は、我が家の四畳半の中心に置かれたちゃぶ台を挟んで向こう側、不機嫌そうに頬杖をつきながら、リモコンでチャンネルを回していた。
まだまだ夏の暑さが残っていたので、俺も彼女も半そでだ。
エコでなくエゴと言うか、日々の生活のために節電しているため、中古の扇風機は部屋の片隅でしょんぼりと俯いている。
「へぇー」
「関心うっす……」
彼女はいつもの余りの他人を寄せ付けない感じの目つきでテレビの方を向いていて、全身で俺の話に興味がないことを示しているみたいだった。
テレビ画面の向こう側では、通夜みたいに陰気くさい顔したニュースキャスターが、いつも通り殺人事件について話している。
呆れた様子でため息をつくと、彼女は顔の向きは変えず、目線だけこちらに移した。
「何かさ……アンタって子供の頃から全く変わんないよね」
「そうか?」
長い付き合いの彼女が言うのだったらそうなのかもしれない。
小学生の頃から大学生になった現在まで、互いを意識し始めた時期を除けば、ずっとと言う程でもないが、そこそこに一緒にいた幼馴染だ。
少なくとも十指に入る位は、互いのことを見てきたはずだ。
「夢ばっか見てて、いまいち現実を見てないところとか」
「別にそんな事は……」
「じゃあ周りで就職活動始めてないの、アンタ以外で何人いるのよ」
急に痛いところを突かれて、口に出すセリフを失う。
そろそろヤバいなー、と考えはするが、大抵三分後位にはギターに熱中している。
現実逃避してばかりだ、というのは言い逃れできない事実ではあったが、事実であるからこそ余計にイラついてしまう。
「仲間内のバンド活動も良いけど、ヒモの彼女とか冗談にもならないわ。少しは進路とかについて、ちゃんと考えたらどう?」
いつもなら大して気にならない彼女の少し棘のあるしゃべり方も、その時はいちいち癪に触った。
「五月蠅いな……お前は俺の母親かってのっ」
「第一いい年こいた大の男が『俺は海の上を歩く人間を見たことがある』って馬鹿じゃないの?」
怒りが全身を駆け巡る。
抑えきれない衝動を、俺はちゃぶ台に叩きつけた。
「見たもんは見たんだよ!なんで思い出話しただけで、そんなに責められなきゃなんないんだよ!?」
「そのことだけを言ってるんじゃないの!」
気づけば俺たちは立ち上がって、喚き合っていた。
こうなるときは彼女が正しいので、俺が折れて終わりなのがいつものパターンだ。
でも何故かこの時は、あの話を馬鹿されたのが許せなくて、引くに引けなくなっていた。
当然間違っている俺は劣勢に立たされ、苦し紛れに触れてはいけない部分に触れてしまった。
「……そんなんだからお前、友達少ないんだよ!」
「……なッ……ッ!」
真っ赤になった彼女の顔はうっすらと涙でにじんでいて、何かを言いたいのだろうが、言葉を外に吐き出せず、爆発寸前の何かが彼女の中で暴れ狂っていた。
言ってしまった後で不味い、と思ったがもう遅い。
「もう知らないっ!」
捨て台詞を吐き捨てて、彼女は部屋を出て行った。
「あんなマンガみたいな言葉、始めて聞いたぜ」と相手を嘲笑ってみようともしたが、自分の最低さが強調されただけで、余計にみじめになった。
だというのにも拘らず、自分の中で怒りの炎はまだ燻っていた。
砂浜の海岸線を、シャクシャクと音を立てながら歩く。
水平線に沈みかかった太陽が、海を山吹色に染めている、というロマンチックな景色に目もくれず、一定の間隔で音を立てる自分の足元だけを見ていた。
家の中でうだうだ考えて腐っているよりはと、外をぶらぶら歩いていると、海面を歩く人を見た場所に行ってみようと思った。
わざわざ隣町の海にまで来て、俺は何をしたいのだろう。
別に実際にその人を彼女の所に連れてきて「ほらな、嘘じゃなかったろ」なんて言うつもりは毛頭無かった。
決して、今ではもうあの事を信じていない、というわけではない。
あの光景は俺の宝物みたいなモノなんだ。
あれは小学校の頃、この海岸線にある従兄弟の家に泊まった夏の晩のことだ。
俺はわがままを言って、二階の狭い、けど海が見える和室に寝させてもらった。
そこで俺は布団を敷いて寝ていたのだが、ふと夜中に起きてしまった。
寝がえりを打ったら、丁度障子の隙間から洩れる月明かりの射線上に入ってしまったからだろう。
むくりと布団から起き上ってその隙間の前に立ち、何かに促されるようにして障子を開き、外を見てみると、その光景があった。
「あ――――」
白いワンピースを着た女の人が、海の上を歩いていた。
月光に照らされたそのワンピースと肌の白は、暗闇と対比されて、よりくっきりと浮かんでいる。
波を軽快に飛び越えるその人は、まるで踊っているかのように歩いていた。
心奪われるとは、まさにその時の自分を表しているのだろう。
人が海面で散歩しているという非現実的な状況に、何の疑問も抱かず、瞬きもせずにその光景を眺めていた。
その人が海から砂浜に戻ったところで我に返り、急いで外へ飛び出した。
自分が何を考えていたのかはわからない。
ひょっとしたら、その人に海の上を歩き方を聞きたかったのかもしれない。
しかし俺が玄関を開けて外に出た頃には、海岸には人影一つ無く、ただ波の音だけが空しく響くだけだった。
家族にその時見たことは話さなかったし、それ以来ずっと誰にも話していなかった。
子供心に、誰にも信じてもらえないだろうとわかっていた。
でも話さなかった理由はそれだけでなく、話してしまうことで、それが汚されてしまう気がしたからだ。
秘密の場所は、皆に知られてしまえば、ただの観光スポットに成り下がる。
胸の内にあるからこその宝物。
それを何となく、彼女だけとは共有できる気がした。
彼女だったら受け入れてくれるかもしれない、と。
けれど結果はあの様だった。
あれが普通の反応だとは分かっている。
小学生の頃だったのならまだしも、大学生がそんな事を言えば、キチガイか寒いギャグ扱いされるのが関の山だろう。
それでも俺は、裏切られたとさえ感じてしまっていた。
頭で理解できてはいても、心が受け入れられない。
「はあ……」
疲労が濃縮されたため息を吐きだして、砂浜を黙々と進んだ。
夕焼けを美しいと感じることもできず、むしろ波に打ち上げられたゴミのに目が行ってしまう。
海岸散策は気晴らしにもなっていなかった。
「ん」
海側に目をやると、砂の道が百メートル位の先にある小さな砂山の島まで続いていた。
特に何も考えず、気分の向くまま、進行方向を直角に変更してそちらに向かった。
彼女の言い分が正しいのは百も承知だ。
俺は将来何の職に就くかも決めていないし、卒業論文でさえ全く手をつけていない。
漠然と今組んでいるバンドのメンバーと一緒に、プロのミュージシャンになれたら良いな、とは思っている。
でもそう思っているのは、俺だけかもしれない。
ヴォーカルの奴は大学院へ。
ドラムの奴は実家の手伝い。
ベースの奴は大手の企業に。
じゃあギターの俺は?
何にも先が見えていない。
現実を見ようとして、ちょっと頭が痛くなったらギターかき鳴らして逃げ出す。
演奏している間だけは全部を忘れられるからだ。
でも最近は初心者のころでは、考えられなかったような難易度の曲も弾けるようになったし、何となく自分の中に妙な予感のようなものもある。
本当に何となくで、根拠もほとんど無いけど、はっきりと存在するプロになれるかもしれない、という希望が。
あの夏の日に見た光景のようにもやもやしているけど、あるということだけは明確な感じだ。
「あー」
砂の島まで辿り着いたので、わざとらしく声をあげて倒れこんだ。
そしてそのまま胎児のように丸くうずくまる。
すると今までずっと気を張り詰めていたせいだろうか、急に眠気が襲ってきた。
大体、アイツだって……と色々考えているうちに、俺は眠りに落ちて行った。
「まさか大学生にまでなって、外でお昼寝とは……」
結構長い間寝ていたらしく、太陽もとっくに沈み、辺りは真っ暗だ。
半袖では防寒具としての役割をいまいち果たせていないらしく、寝冷えした体に鳥肌が立っていた。
立ちあがって、ジーンズのポケットに入っていた携帯電話を確認すると、もう十時を回っていた。
そこである異変に気付く。
「あれ……?」
来るときに通ったはずの道が消えていて、陸続きだった小さな砂山は完全に孤立していた。
対岸にある街灯や家の光が随分と遠くに感じる。
携帯電話の光で小島の岸を照らしてみると、原因がわかった。
どうやら潮が満ちたせいで、通ってきた砂の道が沈んでいるらしい。
「最悪……」
靴を脱いで裸足になろうかとも考えたが、かったるいし、道の上を通れば水深はかなり浅いので、そのまま帰ることにした。
寒い寒いと呟きつつ、ジャブジャブと音を立てながら陸に向かい始める。
靴に入ってきた海水が不快だ。
最初は携帯電話を懐中電灯代わりにしていたが、だんだんと暗闇に目が慣れてきたので、ジーンズのポケットにしまった。
そこであることに気づく。
「あ――――」
もしかして今の俺の状態、海の上を歩いているのか?
「………は……はは………ははは……」
膝が折れ、そのまま土下座する形になっても、まだ力無い笑いが腹の中からこみあげてくる。
そうだ。
人間が海の上を歩けるはずがない。
ただ海面より少しある砂の地面を歩いていただけだ。
あの日見たのは神秘的な光景でもなんでもなかった。
キチガイか酔った女の人が、海に入ってはしゃいでいただけに過ぎない。
それを宝物だなんて……馬鹿みたいじゃないか。
というかその偽物の宝物に騙されて、彼女と喧嘩するなんて、俺はかなりの大馬鹿野郎だ。
何が「海の上を歩く人間を見たことがある」だ。
実際に俺は頭の可哀想な奴だったのだろう。
「あー」
両腕を突いた状態から半回転して、飛沫を少し立てながら大の字で海水につかった。
全身がズブ濡れだが、そんなのはどうだっていい。
首だけ右に傾けて、ギターのおかげで固くなった右の掌をぼんやりと眺めた。
何でプロのミュージシャンになれるなんて、わけのわからない希望を抱いたのだろうか。
心のどこかで自分もわかっていない、秘められた才能があるのだと思ったのだろうか。
結局のところ、それは現実逃避のための言い訳だ。
「ホント俺の馬鹿……」
挙句の果てに自分の事を心配してくれる人を突き離した。
滑稽すぎる。
目頭が熱くなって、右手が涙で少しゆがんだ。
彼女に何て言ったらいいんだ。
「はあ……」
本日何度目になるか分からないため息をつく。
けど自分の馬鹿さ加減に対しての嫌悪感が一周して、むしろ何だか妙に清々しい気分だ。
無自覚の内に自然と微笑んでいた。
拠り所にしていていたものが実は嘘で、足元の地面が崩れ去って、それでも悪い気はしない。
諦めて、開き直って、でも前を見ることができている。
右手から視線を外して首を戻し空を仰ぐと、夜空いっぱいの星がこれでもかと輝いていた。
今度はそれを変な事を考えないで、単純にきれいだと思えた。
海面散歩のあの光景に及ばないまでも、そこそこに美しい風景。
起き上がってあぐらをかき、シャツの濡れていない部分で涙をぬぐう。
ため息とは別物の、深呼吸を一つした。
「うし」
とりあえず彼女に謝ろう。
ポケットから携帯電話を取りだすと、何年も前の世代で防水がなっていなかったのか、完全に壊れていた。
子供の頃はそんなの持ってなかったから、気にしなくて良かったんだけどな。
仕方ない、幸い財布は無事だし、歩いて駅の公衆電話でも使うか。
のっそりと立ち上がり、再び俺は歩き始めた。
海面を歩いてなんかじゃなくて、砂の地面を踏み締めながら。
多分誤字が最低一か所位あるので、誤字報告のご協力よろしくお願いします。
感想、評価、こっぴどい批評、など荒らしを除いてコメントを頂けたら嬉しいです。
……痛々しい感じになってないか心配です。
最後に読んで下さいました方、本当にありがとうございました。