記憶を失った元婚約者が後宮の最高権力者になっていた件~「下がれ」と冷たく突き放されたのに、なぜか専属にされて毎朝溺愛されています~
第一話 玻璃の後宮と毒見の女官
天を衝くような朱塗りの柱と、陽光を浴びて金色に煌めく瓦。
ここ、大陽帝国の奥深くに鎮座する「翡翠宮」は、選りすぐりの美女たちが競い合う、絢爛豪華にして底知れぬ欲望が渦巻く後宮であった。
しかし、その華やかさの裏には常に、嫉妬と権謀術数が潜んでいる。
「――よし。異常なし、です」
後宮の片隅にある調膳所で、紅采葉は自身の舌に残る味覚を確かめ、小さく息を吐いた。
采葉の前に置かれているのは、翡翠の器に盛られた美しい羹だ。彼女の役目は「毒見女官」。妃たちや高官に供される食事に、不穏な毒物が混入されていないかを、文字通り命懸けで確かめる仕事である。
「手際が良いな、采葉。お前が来てから、調膳所の仕事が格段にスムーズになったよ」
年配の料理長が、感心したように声をかけてくる。
采葉がこの後宮に身を投じてから、ちょうど三ヶ月が経とうとしていた。地方の山深い里で薬師の娘として育った采葉は、草木の毒や薬効を見分ける鋭い五感を持っている。その能力を買われ、身寄りのない娘として、自らの素性を隠して後宮へと上がったのだ。だが、采葉がこの命の危険を伴う場所にいる理由は、出世のためでも、衣食住に困ったからでもない。
ただ一人の男を探すため。それだけが、彼女を動かす唯一の原動力だった。
(黎烽……あなたは本当に、この宮のどこかにいるの?)
胸元にそっと手を当てる。衣服の合わせ目の奥には、古びた、けれど大切に磨かれた翡翠の髪飾りが隠されていた。
二年前。采葉の故郷の里に、大怪我を負って行き倒れていた青年がいた。それが黎烽だった。名前以外のすべての記憶を失っていた彼を、采葉の家族は温かく迎え入れ、看病した。
やがて傷が癒えた黎烽は、干ばつに苦しむ里で水路を引く策を考えるなど、驚くべき聡明さで人々を救い、いつしか采葉と深く愛し合うようになった。
『この命を救ってくれた君を、一生大切にする。春になったら、夫婦になろう』
そう言って、采葉の髪に翡翠の飾りを挿してくれた、あの優しい眼差し。
しかし、約束の春が来る前に、悲劇は起きた。
当時の帝位を巡る政変の波が地方にまで押し寄せ、黎烽の「本当の素性」を知る者たちが、彼を連れ去ってしまったのだ。抗う術のなかった采葉に残されたのは、彼が宮都の、それも後宮の最高権力者に引き取られたという僅かな噂だけだった。
「采葉、手を止めるな。今夜は新帝の即位を祝う、大宴の夜だ。後宮の重鎮たちが皆、大極殿に集まる。絶対に手落ちは許されんぞ」
「はい、承知しております」
料理長の声に、采葉は思考を現実に戻した。
今夜の大宴。それは、後宮の奥深くに隠された「彼」が、表舞台に姿を現すかもしれない唯一の好機でもあった。
夜が訪れると、翡翠宮は昼間以上の熱気に包まれた。
無数の提灯が夜空を赤く染め、宮廷音楽が艶やかに響き渡る。
大宴の会場となった広大な庭園には、色鮮やかな絹の衣を纏った妃たちや、威厳ある高官たちが居並んでいた。
采葉は地味な女官服の袖を整え、給仕の列に紛れて会場の隅に控えていた。手元のお盆には、先ほど毒見を終えたばかりの極上の名酒が載っている。
彼女の視線は、自然と上座――皇帝のすぐ傍らに配された、一際格式高い席へと向いていた。
「……あの方こそが、今や我が国の命運を握る若き天才軍師、夜黎烽大人だ」
近くにいた女官たちの囁き声が、采葉の鼓膜を激しく叩いた。
心臓が、ドクンと大きく跳ね上がる。
「夜の姓を賜り、先の政変を瞬く間に鎮めたお方。その智謀は神懸かっているけれど、人の心を持たない『氷の軍師』としても恐れられているわ」
別の女官が、さらに声を潜めた。
「お顔は息を呑むほど美しいのに、一度も微笑まれたことがないのよね……」
采葉は、震える視線をその席へと向けた。
そこに、座っていた。
漆黒の髪を完璧に結い上げ、深紫色の豪奢な官服に身を包んだ、一人の青年。
端正な輪郭、切れ長の涼やかな目元、薄い唇。それは紛れもなく、采葉が二年間、一刻たりとも忘れたことのなかった恋人――黎烽の姿だった。
(黎烽……!)
叫び出しそうになる喉を、必死で片手で抑える。涙が溢れそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。
生きていた。本当に、ここにいたのだ。
しかし、すぐに采葉は、胸を締め付けられるような違和感に襲われた。
彼の纏う雰囲気が、あまりにも違いすぎる。
かつて里にいた頃の彼は、不器用ながらもいつも穏やかな笑みを浮かべ、采葉を労わる温かさを持っていた。
だが、今そこに座る彼は、まるで精巧に作られた氷の彫刻のようだった。周囲の喧騒を一切拒絶し、冷徹で硝子のような瞳で、ただ冷然と空間を見つめている。
その瞳には、誰も映っていない。深い孤独と、他者への絶対的な拒絶だけが満ちていた。
(どうして……そんな目で世界を見ているの……?)
その時、上座の傍らにいた高官が、黎烽に向かって声をかけた。
「黎烽大人、今宵の宴のために、南方を経由して手に入れた極上の銘酒がございます。ぜひ、ご賞味を」
給仕の頭が、采葉の背中を小突いた。
「ほら、采葉。出番だ。粗相のないようにな」
「――っ、はい」
采葉は深く息を吸い込み、表情を女官のそれに固定すると、彼の方へと歩み進めた。一歩近づくたびに、胸の鼓動が早くなる。
「失礼いたします」
采葉は黎烽の前に膝をつき、恭しく頭を下げた。お盆から、美しい白磁の杯に酒を注ぐ。
彼のすぐ近くに寄った瞬間、采葉の鼻腔を、微かな香りが掠めた。
(あ……)
それは、白檀に、ほんの少しの苦味を混ぜたような独特の薫香。
それはかつて、黎烽が里にいた頃、采葉が彼の怪我を治すために処方した薬草の香りと、全く同じものだった。彼は、無意識のうちにその香りを今も身に纏っているのだろうか。
その事実に胸が熱くなり、采葉は思わず、顔を上げて彼の瞳を真っ直ぐに見つめてしまった。
黎烽の硝子のような瞳が、ゆっくりと動き、采葉を捉える。
采葉は、息をすることさえ忘れて彼を見つめた。
『黎烽、私よ。采葉よ』
声にならない叫びを、瞳に込めて彼に投げかける。
しかし――。黎烽の瞳には、何の感慨も、驚きも、灯らなかった。
彼はただ、不審な女官を見るかのような、極めて冷淡な視線を采葉に返しただけだった。
「……下がれ」
低く、冷え切った声が、黎烽の唇から放たれた。
それは、采葉がかつて一度も聞いたことのない、他者を突き放すための声だった。
「あ、の……」
「耳が聞こえないのか。私の前に、無駄に長く留まるな。不愉快だ」
冷酷な言葉が、采葉の胸を深く抉る。
隣にいた高官が慌てて「これ、無礼者め! 大人に睨まれたくなくば、早く下がれ!」と采葉を叱責した。
「……失礼いたしました」
采葉はそれ以上、何も言うことができなかった。
ただ頭を下げ、這うようにしてその場から退散するしかなかった。
彼には、采葉の姿が全く見えていなかった。
かつて愛を誓い合い、互いの体温を確かめ合った記憶など、彼の脳裏には微塵も存在していない。それは、彼が二人の過去をすべて失い、采葉の知らない冷徹な権力者となってしまったことを、残酷に証明していた。
宴が終わり、深夜の静寂が後宮を包み込む頃。
采葉は、調膳所の裏手にある小さな庭園で、一人ぽつねんと夜空を見上げていた。
涙は、不思議と出なかった。ただ、胸の奥がじんわりと凍りついていくような、圧倒的な喪失感だけがあった。
彼が生きていたことは、この上ない喜びだ。しかし、あの冷徹な「夜黎烽」は、自分の知っている優しかった彼ではない。まるで見知らぬ他人に、彼の器だけが乗っ取られてしまったかのような錯覚さえ覚える。
(全てを忘れて、あんなに寂しい目で生きていくなんて……)
采葉は、胸元から翡翠の髪飾りを取り出し、月光に透かした。
あの時、彼は確かに采葉を愛していた。
その記憶が消えてしまったとしても、彼が生きた事実は消えない。
「――だったら、もう一度、始めればいい」 采葉は、髪飾りを強く握りしめた。
彼が全ての愛を忘れ、孤独な軍師として生きているのなら。
この後宮の冷たい悪意の中で、彼が誰のことも信用できずにいるのなら。
今度は自分が、彼の頑なな心を溶かす存在になればいい。薬師としての知識を使い、女官としての立場を使い、彼の傍へと近づいてみせる。
「私は諦めないよ、黎烽。あなたが私を忘れても、私はあなたを覚えているから」
その決意を固めた時、調膳所の入り口の方から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「大変だ!誰か、薬の知識がある者はいないか!?」
夜番の兵士が、血相を変えて飛び込んできたのだ。
「黎烽大人が、宴の後に突然、激しい頭痛を訴えて倒れられた!御医の薬も効かん! 誰か、大人の痛みを和らげられる者はいないか!」
采葉の目が見開かれた。
黎烽の頭痛。それは、彼が里にいた頃、記憶を取り戻そうと深く思い悩む時に、必ず発症していた「あの発作」ではないか。
「――私が行きます」
采葉は立ち上がり、兵士の前に進み出た。
「私は元、地方の薬師の娘です。大人の頭痛を抑える方法を、知っているかもしれません」
運命の歯車が、再び激しく回り始める。
記憶を失った孤独な軍師と、彼を救いたいと願う毒見の女官。
二人の新たな関係の幕が、今まさに上がろうとしていた。
第二話 氷の軍師の寝所
兵士に導かれ、采葉が足を踏み入れたのは、後宮の一画に佇む「新月宮」の奥座敷だった。
主である黎烽の性格を映したかのように、贅沢な調度品は最小限に抑えられ、どこか張り詰めた空気が漂っている。
「……う、あ……っ」
豪奢な天蓋付きの寝台の帳の奥から、苦しげな呻き声が漏れていた。
官服を崩し、白い寝衣姿になった黎烽が、寝台の上で激しく身悶えしている。
額には大粒の汗が浮かび、美しい顔は苦痛に歪んでいた。
「黎烽大人!」
「近寄るな、女官……!」
入ってきた采葉を鋭い眼光で睨みつけようとするが、それさえも激痛のせいで視線が定まらない。傍らでは、高価な漢方を差し出した御医たちが「万策尽きた」と青い顔で立ち尽くしていた。
「大人、失礼いたします。お命を縮めるような真似はいたしません」
采葉は周囲の制止を振り切り、黎烽の枕元に膝を突いた。
彼が記憶を呼び戻そうとする時、脳裏の封印が暴れて起こるこの劇症の頭痛。里にいた頃、采葉はいつも特製の薬香を焚き、彼の頭を膝に乗せて痛みを和らげていた。
(今の私には、彼の頭を抱きしめる資格はないけれど……これなら!)
采葉は懐から、調膳所から急いで持参した小さな巾着袋を取り出した。中に入っているのは、白檀に、数種類の薬草の根を独自の配合で混ぜ合わせた特製の乾燥薬草だ。
それを寝台の脇にある香炉に放り込み、素早く火を点ける。
ゆらりと立ち上る煙とともに、ほろ苦くもどこか清涼感のある、独特の薫香が寝室に満ちていった。
「……っ、この、香りは……?」
黎烽の瞳が、驚愕に揺れた。
それは、彼が先ほど宴の席で、采葉から微かに感じ取ったあの香り。そして、失われた記憶の底から、いつも彼を呼び戻そうとする「何か」の香りだった。
「大人、呼吸を深く。私の声に合わせて、吸って、吐いてください」
采葉は迷うことなく、自身の白く柔らかな両手を、黎烽の熱い額とこめかみにそっと当てた。
普通なら、最高権力者への不敬罪で即座に首が飛びかねない行為だ。しかし、采葉の手のひらが触れた瞬間、黎烽の身体の強張りが、目に見えて解けていく。
「……は、あ……っ」
采葉は、かつて里で彼に施したのと同じように、優しく、けれど確かな力加減でツボを押していく。そして、小さな声で、二人の間だけの「呪言」を呟いた。
「『いたいの、いたいの、遠くの山へ飛んでいけ。お日様の光に溶けて、消えてしまえ』……」
それは、薬師の家に伝わる、痛みを和らげるための素朴な子守唄のようなものだ。
その声を聞いた瞬間、黎烽の動きが完全に止まった。
「君、は……」
黎烽の切れ長の瞳が、至近距離で采葉を見つめる。
激痛が引き潮のように去っていく中で、彼の心臓が別の理由で激しく脈打ち始めていた。
頭の痛みは消えた。しかし代わりに、胸の奥が焼け付くように熱い。目の前にいる地味な女官を、どうしようもなく「抱きしめたい」という衝動が、理性を突き破って湧き上がってくる。
「……信じられん。大人の顔に、赤みが戻られた……!」
御医たちが奇跡を見るかのような声を上げる。
采葉はホッと胸をなでおろし、手を離そうとした。
「痛みが引いたようで良かったです。では、私はこれで――」
不意に、強い力で手首を掴まれた。
見上げると、黎烽が寝台に起き上がり、昏い情熱を孕んだ瞳で采葉を凝視していた。
「待て。誰が下がることを許した」
「大人……?」
「お前たち、全員下がれ。この女官だけを残して、部屋から出ろ」
黎烽の絶対的な命令に、御医や兵士たちは戸惑いながらも、一礼して一斉に退室していった。
広い寝室に、二人きり。
香炉から昇る懐かしい香りが、密室の甘い空気をさらに濃密にしていく。
「あの、手首が痛いのですが……」
采葉が控えめに訴えると、黎烽はハッとしたように力を緩めた。しかし、決して離そうとはせず、むしろ引き寄せるようにして、采葉を寝台の端に座らせた。
二人の距離は、互いの吐息がかかるほどに近い。
「お前の名前は」
「……紅、采葉と申します」
采葉が名を名乗ると、黎烽の胸がトクンと跳ねた。その名に聞き覚えはない。だが、言葉にできない愛おしさが、涙となって溢れそうになるのを必死で堪える。
「采葉……。お前は、私に何をした。あの香りは何だ。なぜ私の痛みが、お前の手ひとつで消え去る?」
「それは……私が、地方の薬師の娘だからです。大人のような頭痛には、あの薬草が最も効くのです」
采葉は、自分が元婚約者であることは伏せた。
今の彼は、一国の命運を握る軍師だ。過去の記憶を取り戻すことが、必ずしも彼のためになるとは限らない。それに、記憶のない彼に「私はあなたの恋人でした」と言ったところで、信じてもらえるはずがないと思ったからだ。
しかし、黎烽の鋭い知性は、采葉の嘘を見逃さなかった。
「嘘を言うな。御医たちが集めたあらゆる秘薬が効かなかったのだぞ。薬師だから知っていた、では説明にならん」
黎烽の目が細くなる。
「御医たちは私の症状を初めて診た。だがお前は部屋へ入った瞬間、何を使えばよいか迷わなかった。つまり――お前は以前にも、同じ症状の私を見ている。最初から私の発作の正体を知っていた。……そして、私の身体も、お前を知っている」
黎烽は空いた方の手で、采葉の頬をそっと包み込んだ。
冷徹で、誰も寄せ付けない「氷の軍師」と呼ばれた男の指先が、微かに震えている。
「お前の前にいると、私の理性が壊れそうになる。私は、誰も信用しないと誓った。この後宮の狐どもも、権力に群がる群狼も、全て私の敵だ。だが……」
黎烽は、采葉の額に、自身の額をこつんと預けた。
「お前だけは、手放してはならないと、私の魂が叫んでいる。……おい、采葉。
私を惑わせた責任を取れ」
その言葉は、かつて里で彼が采葉にプロポーズした時の不器用な口調に、驚くほど酷似していた。
(黎烽……。記憶はなくても、やっぱりあなたは、私の好きな黎烽なんだね……)
采葉の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「泣くな。私のせいで泣いたのではない、と言え」
黎烽は慌てたように、親指で彼女の涙を拭った。その仕草の優しさに、昔の彼の面影が強く重なる。
「……驚いただけです。大人が、そんなに不器用な方だとは思わなかったので」
「不器用だと? 私に向かってそんな口を利くのは、お前が初めてだ」
黎烽は少しへそを曲げたように唇を尖らせたが、その表情には、先ほどまでの冷酷さは微塵もなかった。ただ、独占欲に満ちた熱い視線が、采葉を射抜いている。
「決めた。采葉、お前を私の『専属薬師女官』に任命する」
「えっ!? ですが、私はただの毒見役で……」
「私の命令は、皇帝の勅命に等しい。明日から、お前は調膳所を出て、この新月宮で私の身の回りの世話をしろ。私の許可なく、他の男と一言も話すな。他の奴のために薬を調合することも許さん」
采葉は目を丸くした。かつての大人しくて優しかった彼からは、想像もつかないギャップだ。
「……私の体調を管理するのは、お前の役目だ。二度と、あの激痛に怯えたくない」
黎烽はそう言うと、甘えるように采葉の肩に頭を預けてきた。
強引な態度の裏にある、彼の本当の孤独。記憶を失い、敵だらけの後宮で、たった一人で戦ってきた彼の恐怖を、采葉は痛いほどに理解した。
「――わかりました、大人。これからは、私がずっとお側にいます」
采葉は優しく微笑み、彼の背中にそっと手を添えた。
記憶を失った恋人との、あまりにも急速に距離が縮まる、後宮での新生活。
しかし、二人の再会を面白く思わない影が暗闇から彼らを見つめていることを、この時の二人はまだ知る由もなかった。
第三話 朝の仕度と、無自覚な独占欲
「……大人、朝の仕度のお時間です。あまり動かれると、帯が結べません」
新月宮の広々とした寝室に、采葉の困ったような声が響く。
専属薬師女官となって三日。采葉の朝は、黎烽の着替えを手伝うことから始まる。
いま、采葉は黎烽の目の前に立ち、彼の細い腰に、深紫色の官服の帯を巻き付けているところだった。
至近距離。
采葉が少しでも顔を上げれば、彼の滑らかな顎に触れてしまいそうな距離だ。
「私が動いているのではない。お前が小さすぎるのが悪い」
黎烽はそっぽを向きながらも、采葉が作業しやすいように、自ら少し屈んでやっている。
かつて里にいた頃の彼は、粗末な木綿の服を自分でさっさと着るような無頓着な男だった。
しかし今の彼は、一国の命運を握る軍師。身に纏うのは、最高級の絹に精緻な刺繍が施された重厚な官服だ。
そのギャップに未だに慣れない采葉だったが、ふと、黎烽の耳の付け根が微かに赤くなっていることに気がついた。
(あ……黎烽、照れてる?)
それは、里にいた頃、采葉に不意に手を握られた時に彼が見せていた「癖」そのものだった。
冷徹な氷の軍師として振る舞いながらも、采葉が体に触れるたびに、彼の身体は純情だったあの頃のように反応してしまうらしい。
「大人、できました。……そんなに睨まないでください」
「睨んでなどいない。……お前が、他の男にもこうして服を着せているのかと考えていただけだ」 黎烽は眉間を険しくしたまま、采葉の手首をそっと掴み、己の胸元へと引き寄せた。
「言ったはずだ。お前は私の専属だ。私の前以外で、その瑞々しい香りを振りまくことは許さん」
記憶を失くしてからの彼は、とにかく強引で独占欲が強い。けれど、その底にあるのは、いつ自分が崩れるかわからないという深い孤独だ。
采葉は、彼の胸にそっと手を当て、優しく微笑んだ。
「私は大人の薬師です。どこへも行きませんよ」
「……ならば良い。日中は大人しくここで私の帰りを待て」
黎烽は満足したように采葉の髪を一撫ですると、圧倒的な覇気を纏って執務室へと向かっていった。
しかし、平和な時間は長くは続かなかった。
身寄りのない一介の毒見女官が、あの「氷の軍師」の寵愛を一身に受け、彼の寝宮に召し抱えられたのだ。これが、嫉妬に狂う後宮の女たちの耳に入らないはずがなかった。
昼下がり、采葉が黎烽の夜用の薬草を干すために新月宮の庭へ出たときのことだ。
「――まあ、ずいぶんと分不相応な身分に出世した、薄汚い小娘がいることですわね」
甲高い、刺すような声が響いた。
振り返ると、派手な刺繍の施された衣服を纏った美女が、数人の女官を従えて立っていた。
現皇帝の寵妃の一人であり、後宮内で大きな権力を持つ右大臣の娘、劉麗華だった。
「夜黎烽大人を、妖しい術でたぶらかしたというのは、お前のことですわね?」
「……麗華様、そのような事実はございません。私はただの薬師として、大人の体調を管理しているだけでございます」
采葉は冷静に一礼し、弁明した。しかし、麗華の目は嫉妬と悪意で濁っている。
麗華はかねてより、美貌と権力を兼ね備えた黎烽を自分の陣営、ひいては自分の殿方に引き込もうと画策していたのだ。
それを、どこの馬の骨とも知れぬ女官に遮られたのだから、腹の虫が収まるはずがない。
「黙りなさい!大人のお側に侍る薬師なら、宮廷の御医たちで足りています! お前のような不審な女、後宮の秩序を乱す害悪でしかありませんわ!」
麗華が扇を振ると、背後に控えていた大柄な女官たちが、一斉に采葉を取り囲んだ。
「その生意気な顔、少し冷やして差し上げなさい。連れて行きなさい!」
「お待ちください!ここは新月宮、黎烽大人の領地です!」
采葉が抵抗する間もなく、彼女たちは采葉の両腕を掴み、新月宮のすぐ外にある「お仕置きの池」へと引きずっていった。
「さあ、冷たい水の中で、自分の身の程を知るがよろしいですわ!」
麗華の命令で、女官たちが采葉を濁った池の淵へと突き飛ばそうとした。
その時。
「――そこで何をしている」
地を這うような、極寒の、しかし圧倒的な威厳に満ちた声が響き渡った。
その場にいた全員の動きが凍りつく。
池の回廊の向こうから歩いてきたのは、鳳凰の刺繍が施された黒い長衣を翻す、夜黎烽その人だった。彼の背後には、抜き身の刃を持った数十人の近衛兵が控えている。
その瞳は、まさに「氷の軍師」そのもの。一切の容赦を捨て去った、狂気すら孕んだ冷徹な眼差しだった。
「れ、黎烽大人……!?」
麗華の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
黎烽は、怯える麗華たちには目もくれず、真っ直ぐに采葉の元へと歩み寄った。そして、采葉を乱暴に、しかし壊れ物を扱うかのように愛おしく、自身の広い胸の中へと抱き寄せた。
「采葉。怪我はないか」
「……はい、大人。私は大丈夫です」
腕の中で震える采葉の体温を確かめると、黎烽の周囲の空気が、さらに一段と冷え切った。
彼はゆっくりと、麗華の方を振り返る。
「劉麗華。私の新月宮に無断で立ち入り、私の『私物』に手を上げようとしたな」
「大、大人! 誤解ですわ!私はただ、この女官の素性を疑って、後宮のために……!」
「黙れ」
黎烽の一言で、麗華の声が恐怖で途切れた。
「お前が午前中、右大臣家の女官を三人、新月宮の周囲に送り込んだことは把握している」
麗華の顔が強張った。
「采葉が一人になる時刻を調べさせ、庭へ出たところを狙った。違うか」
黎烽は感情を荒らげることなく言った。
麗華は答えられず、青ざめた唇を震わせた。
「私の宮で策を弄するなら、せめて私に気づかれぬ程度の策を使え。そもそも、お前たちのくだらない嫉妬など、どうでもいい。だが、この采葉に指一本でも触れる者は、たとえ右大臣の娘であろうと、即座に大逆罪として一族もろとも処刑する」
その言葉は、決して脅しではなかった。
黎烽の持つ、皇帝すら動かす絶対的な権力が、それを可能にすることをその場の全員が知っていた。
「近衛兵。劉麗華とその女官たちを今すぐ捕らえろ。劉麗華は幽閉処分としろ。右大臣には、娘が私の庭を荒らした、と伝えよ。二度と私の視界に入るな」
「そんな……!お待ちになって、大人! 黎烽大人――!!」
麗華たちの悲鳴は、近衛兵たちによって無慈悲にかき消され、彼女たちは引きずられて行った。
嵐のような騒動が去り、新月宮に夜の帳が下りる。
寝室の長椅子で、采葉は温かいお茶を飲みながら、ようやく一息ついていた。
「驚かせてすまなかった」
黎烽が、いつの間にか采葉の隣に腰掛けていた。彼の表情からは先ほどの凶悪な冷徹さは消え、どこか気まずそうな、捨てられた子犬のような顔をしている。
「……大人が、あんなに怒るなんて思いませんでした」
「当然だ。お前がいなくなったら……私は、またあの孤独な暗闇に戻ってしまう」
黎烽はそう言うと、采葉の膝の上に、そっと自分の頭を乗せてきた。
里にいた頃、頭痛がしていなくても、彼はこうして采葉の膝を枕にして甘えていた。
「大人……」
「黎烽、と呼べ。二人きりの時は、そう呼べと命じたはずだ」
少しへそを曲げたような彼の声に、采葉の胸が温かさで満たされる。
すべてを忘れて冷徹になった彼の中に、確かに、かつての愛しい婚約者の魂が生きている。
「……黎烽」
采葉がその名を呼ぶと、黎烽は嬉しそうに目を細め、彼女の手を掴んで自身の唇に寄せた。
指先に落とされる、熱く、甘い口づけ。
「私はお前を忘れない。たとえ私の頭が全てを忘れても、この胸がお前を求めている。
だから、ずっと私の側にいろ、采葉」
記憶は戻らなくとも、二人の新しい恋は、後宮の悪意を乗り越えて、より深く、より甘く刻まれていくのだった。
第四話 揺らぐ封印と、断片の夢
劉麗華の一件を経て、新月宮における采葉の立場は不動のものとなった。
誰もが恐れる冷徹な軍師・黎烽が、一介の女官のために右大臣の娘を容赦なく幽閉したのだ。
後宮の者たちは一様に震え上がり、二度と采葉に不敬を働く者はいなくなった。
しかし、外の世界が静まり返るのとは裏腹に、黎烽の内面では、激しい嵐が吹き荒れ始めていた。
「……う、ん……。あ、は……」
深夜。新月宮の寝室で、黎烽は浅い眠りの中で幾度も寝返りを打っていた。
彼の額にはべっとりと冷や汗が滲み、美しい眉は痛ましげに寄せられている。
夢を見ていた。
今の彼が暮らす、冷たい金や玻璃で飾られた宮殿ではない。
もっと土の匂いがして、緑が豊かで、どこか懐かしい、暖かい光に満ちた場所。
そこで自分は、今よりもずっと穏やかな顔で笑っている。その視線の先には、一人の少女がいた。
『――烽、春になったら、本当に夫婦になれるの?』
鈴を転がすような、愛おしい声。だが、夢の中の少女の顔だけは、深い靄に包まれていて見えない。夢の中の自分が、少女の艶やかな黒髪に、鈍く煌めく緑色の何かを挿し込む。
『ああ、約束だ。この命を救ってくれた君を、一生大切にする。……春になったら、夫婦になろう』
その瞬間、胸を掻きむしりたくなるほどの愛おしさが込み上げる。だが同時に、それを引き裂くような漆黒の影が迫り、夢は強制的に闇へと突き落とされた。
「――っ、采、葉……!」
黎烽は、自身の叫び声で目を覚ました。
勢いよく上半身を起こすと、寝衣はぐっしょりと汗で濡れている。呼吸は荒く、心臓が早鐘のように打っていた。
「大人!? どうなさいましたか!」
隣の控えの間にいた采葉が、ただ事ではない気配を察して、灯火を手に慌てて駆け込んできた。
「……あ、は……采、葉……」
黎烽は、入ってきた采葉の姿を見るなり、縋るように彼女の細い腰に両腕を回し、その胸元に顔を埋めた。
突然のことに采葉は驚き、手に持っていた燭台を近くの机に急いで置いた。
「また、あの頭痛ですか? 今、薬香を――」
「違う。頭は……痛まない。だが、胸が、引き裂かれそうだ」
黎烽の声は、見たこともないほどに震えていた。
いつもなら「私の許可なく動くな」と傲慢に命令する彼が、今はまるで、暗闇に取り残された迷子の子どものように、采葉の体温を求めてしがみついている。
采葉は、彼の濡れた黒髪を優しく撫で、その背中をトントンと一定の刻みで叩いた。かつて里で、彼がうなされた時にいつもしていたように。
「怖い夢を、見られたのですね」
「……お前には、わかるのか」
「分かりますよ。大人の身体は、今とても強張っています。深く息を吸って、吐いてください」
采葉の胸に顔を寄せたまま、黎烽は彼女から立ち上る、あのほろ苦くも清涼感のある香りを深く吸い込んだ。
不思議と、それだけで脈拍が落ち着いていく。
「夢を、見た。……私が、知らない場所で、知らない女と笑っている夢だ。私は、その女を酷く愛していた。失うことが、狂うほどに恐ろしいほどに……」
黎烽は、采葉の腰を抱きしめる腕に、さらにギュッと力を込めた。
「目覚めた瞬間、酷い喪失感に襲われた。……だが、お前の顔を見たら、その痛みが少し和らいだ。なぜだ。なぜ私は、お前にこれほど執着する? お前は一体、何者なんだ……」
その問いに、采葉は胸が締め付けられるような切なさを覚えた。
彼は、確実に思い出し始めている。
二人の過去を。
彼が自分に贈ってくれた、あの髪飾りの約束を。
「大人……私は、ただの薬師です」
采葉は、溢れそうになる涙を堪えながら、嘘を重ねた。
今、自分が元婚約者だと名乗れば、彼の脳裏にある強固な記憶の封印が拒絶反応を起こし、それこそ命に関わる劇症の頭痛を引き起こすかもしれない。
それは薬師として、何より彼を愛する者として、絶対に避けたかった。
「……その夢の中で、あなたは彼女に、何かを贈っていませんでしたか?」
采葉が静かに尋ねると、黎烽はハッとしたように顔を上げた。その美しい瞳が、微かに見開かれる。
「なぜ、それを知っている」
「……薬師の勘、ですよ。大切な約束の記憶は、形を変えて心に残るものですから」
采葉はそっと微笑むと、衣服の合わせ目の奥から、いつも肌身離さず持っていた「それ」を取り出した。
月光と、微かな蝋燭の光を浴びて、鈍く、しかし深くきらめく、一本の翡翠の髪飾り。
それを見た瞬間、黎烽の瞳が激しく揺るがされた。
「それは……!」
黎烽は、奪い取るようにして采葉の手から髪飾りを取った。
指先で、その滑らかな翡翠の質感をなぞる。彼の脳裏に、先ほどの夢の断片が、より鮮烈な色彩を持ってフラッシュバックした。
夢の中で、自分が少女の黒髪に挿した、まさにそのものだった。
「なぜ、お前がこれを持っている。これは、私の夢の中の――」
「これは、故郷の里で、大切な人から授かったものです」
采葉は、真っ直ぐに黎烽の瞳を見つめた。
「『春になったら、夫婦になろう』……そう言って、私にこれをくれた人がいました。その人は、ある日突然、私の前からいなくなってしまったけれど……私は今でも、その約束を、その人の優しさを、信じています」
采葉の言葉を聞いた黎烽は、言葉を失った。
「……待て」
黎烽の表情から、先ほどまでの動揺が消えた。軍議で無数の情報を組み合わせる時と同じ、冷静な光が瞳に戻る。
「私の発作を知っていた。私が忘れている香りを知っていた。そして、夢の中の髪飾りをお前が持っている」
一つずつ、確かめるように言葉を並べていく。
「偶然が三つ重なることはない。……夢の女は、お前なのだな」
黎烽は、ぽつりと呟いた。
記憶の明確な映像や、当時の感情が完全に蘇ったわけではない。頭の奥には、未だに冷たい鎖のような封印が厳然と存在している。
けれど、そんな呪術的な封印など、今の彼の「魂」の前には無意味だった。
「黎、烽……?」
黎烽は、手にした翡翠の髪飾りを、そっと采葉の黒髪へと挿し込んだ。
二年前と、全く同じ位置に。完璧な手つきで。
「大人……?」
「私はまだ、すべてを思い出したわけではない。お前の言う、その『大切な人』が、本当に過去の私なのかも、証明はできない」
黎烽は、采葉の頬を両手で包み込み、引き寄せた。
二人の唇が触れ合うほどの至近距離で、彼の瞳には、かつてないほどの熱い情熱と、あの頃の優しい光が混ざり合っていた。
「だが、私の魂は、最初からお前だけを覚えている。過去の私が、お前に春の約束をしたのなら……今の私は、それを今ここで、上書きしてやる」
黎烽は、采葉の濡れた瞳を見つめ、低く、甘く囁いた。
「過去の記憶など、なくてもいい。私はもう一度、お前に恋をした。今度の春は、この後宮で、私がお前を本当の妻にする」
その瞬間、黎烽の唇が、采葉の唇へと重なった。
それは、失われた過去を惜しむような切なさと、決して彼女を離さないという独占欲が入り混じった、深く、濃厚な口づけだった。
記憶を失った軍師と、毒見の女官。
二人の止まっていた時間がいま、新たな愛の誓いとともに激しく動き出そうとしていた。
最終話 春の訪れと、驚天動地の宣誓
あの切なくも甘い夜から数ヶ月。
後宮を包んでいた冷たい冬の空気は去り、翡翠宮には柔らかな陽光と、咲き誇る薄紅色の桜が舞い散る「春」が訪れていた。
新帝の治世が安定し、宮廷が祝賀ムードに包まれるなか、大極殿にて、国を揺るがす重大な発表が行われようとしていた。
「これより、夜黎烽大人が正式に妻を迎える儀を執り行う!」
儀礼官の高らかな声が響き渡る。
居並ぶ高官たちや、美しく着飾った妃たちの間に、ざわめきが広がった。
誰もが、あの冷徹無比で「人の心を持たない」と言われた天才軍師が、一体どこの名門貴族の娘を妻に選ぶのかと息をのんでいた。
劉麗華の失脚以降、彼の隣を狙う者は絶えなかったが、黎烽は誰一人として一瞥もくれなかったからだ。
大きな扉が開き、一人の女性が入場してくる。
その姿を見た瞬間、会場全体が水を打ったように静まり返った。
現れたのは、身寄りのない元毒見女官であり、現在は彼の専属薬師を務めている紅采葉だった。
しかし、今の彼女の姿には、かつての地味な女官の面影はどこにもない。
目の覚めるような極上の白と深紫の豪華な婚礼衣装を纏い、髪にはあの鈍くきらめく「翡翠の髪飾り」が誇らしげに挿されている。
その佇まいは、どんな名門の令嬢よりも気高く、凛として美しかった。
「な、なぜあのような身分の低い女が……!」
「夜大人を妖術で惑わせたに違いないわ!」
周囲から容赦ない非難の囁きが漏れ聞こえる。
采葉はほんの一瞬、緊張で足が止まりそうになった。
だがその時、上座から大股で歩み寄ってきた黎烽が、躊躇うことなく采葉の前に跪き、彼女の白く柔らかな手を両手で包み込んだ。
「――静粛にせよ」
黎烽が低く冷徹な声を響かせると、騒然としていた大極殿が一瞬で静まり返った。彼は立ち上がり、采葉の肩を抱き寄せながら、並み居る高官たちを鋭い眼光で射抜いた。
「私の妻となるのは、この紅采葉ただ一人だ。彼女の出自を侮辱する者は、この私、夜黎烽に対する反逆とみなし、即座にその地位を剥奪する」
圧倒的な権力による完全な庇護。皇帝すらも黎烽の智謀に深く依存しているこの国で、彼の言葉に逆らえる者など、もはや誰一人として存在しなかった。
盛大な儀式が終わり、騒がしい祝宴を抜け出した二人は、新月宮の奥にある、桜が満開に咲き誇る静かな庭園へと戻ってきた。
春の夜風が、采葉の婚礼衣装の袖を優しく揺らす。
黎烽は長い官服の袖を払うと、采葉の前に立ち、彼女の髪に挿された翡翠の髪飾りにそっと触れた。
「……結局、私の頭の霧は、完全には晴れなかったな」
黎烽は少し寂しげに、自嘲気味な笑みを浮かべた。
かつて彼を縛った呪術的な封印は強固で、二年前の里での細かい記憶の映像や、采葉と過ごした日々の正確な景色は、未だに完全には戻っていない。
「謝らないでください、黎烽。私は、今のあなたがここにいてくれるだけで、本当に幸せなんです」
采葉は首を振り、彼の広い胸にそっと顔を寄せた。
薬師として、彼の命が脅かされるような無理な記憶の覚醒は望まない。
何より、記憶が完全に戻らなくとも、彼は「今の采葉」を誰よりも深く、激しく愛してくれた。それだけで、満足だった。
しかし、黎烽は采葉を強く抱きしめると、彼女の耳元で愛おしそうに囁いた。
「記憶など、もう不要だ。過去の私がどれほどお前を愛していたかなど関係ない。今の私は、過去の私以上に、お前なしでは生きていけない身体になっているのだから」
黎烽の独占欲に満ちた、けれどどこまでも優しい言葉に、采葉の胸は熱い涙で満たされる。
冷徹だった彼の心を溶かし、再びこの腕の中に帰ってきてくれた。形は変わっても、彼は間違いなく、采葉が一生を捧げると誓ったあの優しい恋人だった。
「采葉。二年前、私はお前に『春になったら、夫婦になろう』と言ったのだろう?」
「……はい。覚えていなくても、その言葉通り、あなたは私を妻にしてくれました」
黎烽はふっと目を細め、采葉の顎を優しく持ち上げた。
月光に照らされた彼の瞳には、かつて「氷の軍師」と呼ばれた冷酷さは微塵もなく、ただ一人の女性への甘い情熱だけが満ちている。
「ならば、新しい約束をしよう」
黎烽は采葉の額に、自身の額をこつんと預けた。
「これから毎年、春が来るたびに、私はお前に新しい髪飾りを贈る。お前の黒髪を、私の愛の色で満たしてやる。……過去の記憶がなくても、これから死ぬまでの新しい記憶を、お前との愛で全て埋め尽くせばいい」
あまりにも強引で、けれどこれ以上ないほど甘い誓いの言葉。
采葉は涙を流しながら、満面の笑みで頷いた。
「はい……。喜んで、あなたと新しい記憶を紡ぎます、黎烽」
舞い散る桜の吹雪のなか、二人の唇が静かに重なり合った。
それは、過去の切ない別れを完全に乗り越え、未来への永遠の愛を誓う、深く、甘い、至高の口づけだった。
身寄りのない毒見女官から、国最高峰の軍師の唯一無二の正妻へ。
記憶を失ったヒーローとの、ゼロから始まった後宮シンデレラストーリーは、満開の春の光のなかで、永遠に解けない幸福の魔法となったのだった。
(了)




