母の遺産は、借金の山でした
母の遺産は、借金の山だった。
葬儀の翌朝、神殿の石の床は、夜の冷えをまだ抱えていた。
「借方。借方。どの頁をめくっても、借方ばかり」
先代のハーゲン伯爵夫人は、革表紙の帳簿を指先でめくりながら、一語ずつ床へ落とすように読み上げた。
昨日の葬儀のあと、母の机から当然のような顔で持ち出したものだ。
「極めつけはこれね。『セシリアのために、金貨三千』。娘の名前で三千枚も借りる母親なんて、聞いたこともないわ」
「リンデン男爵家の次女、セシリア」
神官の声が、高い天井に響いた。
「母クラリッサ・リンデンの遺したものを、受け継ぎますか。捨てますか」
夫人の隣で、妹は手袋の指先を見つめていた。一年前に伯爵家へ嫁いでから、この町へ戻ったのは、昨日の葬儀が初めてだった。
「……捨てます」
妹は、わたしを見なかった。
神官は台帳に筆を下ろしかけ、ふと手を止めた。
「帳簿は、改められましたか」
「見れば分かります」
答えたのは夫人だった。
「浪費家の借金に、伯爵家の嫁を一日たりとも関わらせるわけにはまいりません」
戸口のそばで、黒い外套の男が咳払いをした。家を担保に、母へ金を貸した商会の使いだ。
「リンデン家の家屋の抵当、金貨二百枚。借り主がお亡くなりになりましたので、約定どおり、月末までに全額をお返しいただきます」
月末まで、二十日もない。
——お金はね、しまっておくと死ぬのよ。人の手の中でだけ、生きるの。
母の口癖だった。宝石を売った日も、家を抵当に入れた日も、母はそう言って笑った。
わたしはそれを、使い道を訊かれたくない人の言い訳だと思っていた。
その母は冬のはじめの熱病で、三日寝込んで、何ひとつ言い残さずに死んだ。
「長女、エルゼ」
神官がこちらを向いた。
「受け継ぐなら、借りも受け継ぐことになります。神前の誓いは、取り消せません。受け継ぐか、捨てるか。道はふたつです」
捨てれば、神殿の記録には、借りを踏み倒して死んだ女の名が残る。
母のことは好きだった。けれど、許してはいなかった。十年あまりのあいだ、娘に冬の外套ひとつ買わなかった人だ。
だからこそ、わたしが払う。わたしはあの人とは違うのだと、この町に見せてやる。
「受け継ぎます」
声は思ったより大きく響いた。
「母の借りは、わたしが全部返します」
夫人がはじめて、まともにわたしを見た。それから、帳簿をこちらへ放った。
「どうぞ。あなたの遺産よ」
帳簿は石の床をすべって、わたしの靴の先で止まった。
*
その夜、抵当に入った家で、わたしは帳簿を開いた。
一人に一頁。頁の上に名前と町の名、その下に「借方」と「貸方」のふたつの欄。
端には小さな備考。母の細い字で、どの行にも日付が添えてあった。
数字が並んでいるのは、ほとんど借方の欄だけだった。
隣村、パン屋のマルタ。金貨五枚。備考には「夫を亡くした冬」。
母にも、父を亡くした冬がある。その冬に借りたのだろう。
街道の宿場の鍛冶屋、「息子の脚の骨」。丘の修道院、「屋根」。
ところどころに、赤い「済」の印があった。少しは返したらしい。
それでも残りを足していくと、金貨二百枚ほどになった。家の抵当と、ちょうど同じ額だ。
四百枚もの金を、母はいったい何に使ったのか。
最後の頁だけが、逆だった。
借方は空で、貸方の欄に、わたしと妹の名があった。金額の代わりに、言葉が書いてある。
エルゼ。冬の外套。持参金。
セシリア。花嫁の見送り。
母がわたしに、外套を貸した? そんなものは一度ももらっていない。持参金など、銅貨一枚ない。
二十歳で縁談ひとつない娘への、悪い冗談にしか見えなかった。
花嫁の見送りも同じだ。一年前、伯爵家は妹の婚礼に母を呼ばなかった。母は窓辺で、見送りならここからでもできるわ、と笑っていた。
わたしは帳簿を閉じた。
近い名前から順に訪ねて、頭を下げる。縫い物で少しずつ返すから待ってほしいと、一人ずつ頼む。わたしにできるのは、それだけだった。
夜明け前、針箱ひとつを抱えて、家を出た。
*
隣村のパン屋は、窯の火を落とす前の甘い匂いがした。
「クラリッサさんの……娘さん?」
名乗ったわたしを見て、マルタさんは粉だらけの前掛けで手を拭いながら、目を丸くした。
わたしは帳簿を開き、頭を下げた。
「母がお借りしたお金のことで参りました。金貨五枚、必ずお返しします。ただ、月末には家を取り上げられてしまうので、すぐには……縫い物で、少しずつでも」
「待って。待ってください」
帳簿の上で、マルタさんの手が止まった。
「借りたのは、あたしのほうです」
意味が、分からなかった。
「十一年前の冬に、うちの人が死んでね。窯も粉も手放すしかなかった。そこへクラリッサさんが来て、金貨を五枚、置いていったんです。返せる日が来たら、自分の足で返しにおいでって」
マルタさんは店の奥へ入り、重たそうな布袋を抱えて戻ってきた。
「少しずつ貯めてたんですよ。春になったら、自分で届けに行くつもりだった。……間に合わなかった」
袋を差し出されて、わたしは一歩下がった。
「受け取れません。何かの、間違いです」
間違いに決まっている。母は借りる側の人だった。町じゅうがそう言っていたし、わたしもそう思って生きてきた。
マルタさんはしばらく袋を抱えたまま立っていたが、やがて棚から焼きたての丸パンを三つ取り、布で包んだ。
「じゃあ、これだけは持っていって。道は寒いから」
村を出て、峠の手前で包みを開いた。パンはまだ温かかった。
ふと思い立って、帳簿のマルタさんの頁を開いた。
夫を亡くした冬。
母の冬では、なかった。
*
街道の宿場の鍛冶屋は、脚を少し引きずる息子を呼び、この子の骨を継いだ医者の代金だと言った。
丘の修道院の院長は、孤児たちが眠る部屋の、雨の漏らない屋根を指さした。
訪ねる先々で、同じ言葉を聞いた。
——返せる日が来たら、自分の足で返しにおいで。
月末に家を取り上げられると話すと、誰もが顔を曇らせ、金を差し出そうとした。
わたしはどれも断った。こちらから訪ねていって受け取れば、それは取り立てと同じだ。
そこだけは、母の言葉に背けない気がした。
宿代は、宿の女将の繕い物をして払った。針さえあれば、一晩はどこでもしのげた。
外套のない肩に、北風がしみた。
母は浪費家ではなかった。それならなぜ、と歩きながら何度も思った。見知らぬ子の屋根を直す金があって、なぜ娘には外套ひとつ買わなかったのか。
残るのは、王都の頁だけだった。そのひとつに、帳簿でいちばん大きな数字がある。
ヨナス公証人事務所。セシリアのために。金貨三千。
これこそが、母を沈めた本当の借りに違いない。
月末まで、あと十日。わたしは王都へ向かった。
*
王都の公証人は、思っていたよりずっと若かった。
「リンデンの娘です。母があなたから借りた金貨三千枚のことで、お願いに参りました。すぐにはお返しできません。どうか、時間を——」
「帳簿を、拝見できますか」
ヨナスと名乗ったその人は、黙って頁をめくり、ある頁で手を止めた。
王都のもうひとつの頁だった。そこには、彼自身の名があった。孤児院のヨナス。見習い奉公の支度金。
「十年前、わたしが公証人の見習いになる金を出してくださったのも、クラリッサ様でした」
彼は眼鏡を外し、しばらく目もとを押さえていた。それから、帳簿の見出しを指でなぞった。
「借方というのは、名前を書かれた者が、帳簿の持ち主から借りている、という意味です。商人の帳簿の書き方で——クラリッサ様は、商家のお生まれでしたから」
わたしは、机の端に手をついた。
「お屋敷を担保にした二百枚も、この小さな貸し付けに回されていました。三千枚の頁も、同じです」
ヨナスさんは奥の棚から、一通の証書を取り出した。
「三年前、ハーゲン伯爵家は破産の寸前でした。クラリッサ様はご自分の名で、この事務所を通して、伯爵家に金貨三千枚を貸されたのです。条件はひとつ。セシリア様が伯爵家で重んじられている限り、返済は求めない。そうでなければ、貸し主またはその相続人は、いつでも全額を求めることができる」
持参金のない妹との婚約を伯爵家が認めたのも、三年前のことだった。
「亡くなった先代の伯爵様は、恥じて、奥様にも明かさなかったはずです。クラリッサ様は、この貸しをセシリア様が受け継いで、嫁ぎ先で身を守る盾にするおつもりでした」
「でも、妹は……」
「捨てられました。ですから今、この権利をお持ちなのは、エルゼ様おひとりです。月末の抵当を払っても、十五倍は残ります」
ヨナスさんは少し声を落とした。
「それから、お耳に入れておきます。伯爵家では、若奥様が使用人のように扱われているという噂です」
証書の上で、先代伯爵の署名が黒く光っていた。
三千枚。あの夫人の家を、ひざまずかせることができる。
母のために。
そう思った胸の奥が、ひどく熱かった。
*
ヨナスさんに付き添われて訪ねたハーゲン伯爵家の応接間は、暖炉の火が小さかった。
「金の無心なら、お門違いですこと」
先代伯爵夫人は、わたしに椅子を勧めなかった。
茶を運んできたのは、セシリアだった。若奥様が自分で盆を運ぶ家など、聞いたことがない。
茶器を置く妹の指は赤く荒れて、袖口には、不器用な繕い跡があった。
針など持ったこともない子だ。糸は引きつれ、縫い目はあちこちへ曲がっている。
神殿で、妹が手袋を外さなかったわけが分かった。
「浪費家の母親に、物乞いの姉。持参金も持たずに来た嫁の実家らしいこと」
夫人は妹のほうを見もせずに言った。セシリアは盆を抱えたまま、目を伏せた。
「家を守るというのはね、醜聞を切り捨てることなの。わたくしはそうやって、この家を三十年守ってきたのよ」
それは夫人なりの正しさなのだろう。この家は現に一度、沈みかけたのだから。
わたしは証書を卓に置いた。
「母が、この家にお貸ししたものです」
夫人は鼻で笑って証書を取り上げ、そのまま動かなくなった。
「……夫の、署名」
「伯爵家の印もございます」とヨナスさんが言った。「貸し主は、クラリッサ・リンデン様です」
「嘘よ。あの浪費家に、夫が……」
夫人は証書を目から離し、もう一度近づけた。紙をつまむ指に、力が入りすぎていた。
持参金も持たずに来た嫁、と夫人は言った。けれど妹は、どんな持参金よりも大きな三千枚を連れて、この家に嫁いでいたのだ。
「条件は、セシリア様が重んじられていることです」ヨナスさんは眼鏡を押し上げた。「今、この家で若奥様がどう扱われているかは、存じております。貸し主の相続人は、全額をただちに求めることができます」
「セシリアは、相続を捨てたはずよ」
「だからこそ、権利はエルゼ様おひとりのものです。放棄を誓わせたのは、あなたです」
夫人の手から、証書が卓へ落ちた。
「……取り立てたら、この家は終わりよ」
声が震えていた。
「そうなったら、その子も路頭に迷うことになるわ。それでもいいの」
暖炉の薪が、小さくはぜた。
証書を取れば、家は守れる。母を浪費家と呼び続けた家に、報いを与えられる。母のために。
けれどそのとき、この家は傾き、妹は実家に家を潰させた嫁として、ここを追われるだろう。
取り立てなければ、月末にわたしが家を失う。
母を捨てた妹のために?
わたしは盆を抱える妹の袖口を見ていた。曲がった縫い目。引きつれた糸。
母はわたしに針を持たせた。どこででも生きていけるように。わたしはそれを、貧乏の印だと思って恨んだ。
妹には、この家を与えた。妹がここで生きたいと願ったから。
母は娘たちに、それぞれが欲しがった生き方を、黙って貸していたのだ。
わたしは証書を取り、妹の前に差し出した。
「ヨナスさん。この権利を、妹に譲ります。手続きをお願いします」
「……お姉様?」
「これは、お母様があなたに遺したものよ」
妹の手から盆が落ちた。
夫人が何か言いかけて、口を閉じた。この家でこれから頭を下げるのが誰なのか、夫人にも分かったのだろう。
セシリアは証書を胸に抱き、床に膝をついた。
「お母様は、わたしを捨てたんだと思ってた。婚礼にも来てくれなかったって。恥ずかしい母親だって、わたし、ずっと……」
あとは言葉にならなかった。
呼ばれなかったのよ、とは言わなかった。見送りならここからでもできる、と窓辺で笑った母のことも。
わたしは針箱を開けて、糸を選んだ。妹の手を取り、引きつれた袖口の糸を切って、一針ずつ縫い直していく。
妹は泣きながら、それを見ていた。
二人とも、何も言わなかった。
*
月末の朝、商会の使いが来た。
手もとにあるのは、旅の途中の繕い物で得た銀貨が数枚だけだった。
わたしは針箱と帳簿を膝にのせて、使いの向かいに座った。家を出る支度は、もうできていた。
戸を叩く音がした。
マルタさんだった。あの重たい布袋を抱えている。
「自分の足で、返しに来ました」
その後ろに、鍛冶屋と、脚を少し引きずる息子がいた。修道院の院長がいた。
旅の途中で頭を下げてまわった人たちが、帳簿に名前のある人たちが、狭い戸口の外まで並んでいた。
いちばん後ろに、ヨナスさんがいた。
「見習いの支度金を、まだお返ししていませんでしたので」
一人ずつ、卓に金を置いていく。銀貨の人もいれば、銅貨ばかりの人もいた。
今度は、受け取った。
この人たちは、自分の足で来たのだ。母が言ったとおりに。
使いが時間をかけて数え、やがて顔を上げた。
「……足ります」
家を担保に母が借りた二百枚は、町の人たちの手の中をめぐって、この家へ帰ってきたのだった。
その夜、わたしはもう一度、帳簿を開いた。
ところどころにある赤い「済」は、自分の足で帰ってきた人の印だった。
借方は、名前を書かれた者が借りている。それなら、貸方は。
名前を書かれた者が、母に貸したものだ。
最後の頁を開く。
エルゼ。冬の外套。
その行の日付を、マルタさんの頁と見比べた。十一年前の冬。夫を亡くした冬と、同じ冬だった。
九つのあの冬、わたしは外套をねだって、母を困らせた。
あの外套になるはずだった金が、マルタさんの窯の火になった。
そして今朝、自分の足で帰ってきた。
母がわたしに遺したのは、この人たちだった。
次の言葉に目を移す。
持参金。
日付は、三年前の春。伯爵家に三千枚を貸した頁と、同じ日だった。
妹の盾は、わたしの持参金でできていた。
そしてわたしは、それを知らないまま、同じ三千枚を自分の手で妹に渡した。
母と同じことを、わたしは選んでいた。
ペンを取り、インクをつけた。
自分の名の横に、小さく書く。
済。
セシリアの行は、空けておいた。あの子がいつか、自分の手で書けるように。
母の遺産は、借金の山だった。




