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母の遺産は、借金の山でした

掲載日:2026/09/23

 母の遺産は、借金の山だった。


 葬儀の翌朝、神殿の石の床は、夜の冷えをまだ抱えていた。


「借方(かりかた)。借方。どの頁(ページ)をめくっても、借方ばかり」


 先代のハーゲン伯爵夫人は、革表紙の帳簿を指先でめくりながら、一語ずつ床へ落とすように読み上げた。

 昨日の葬儀のあと、母の机から当然のような顔で持ち出したものだ。


「極めつけはこれね。『セシリアのために、金貨三千』。娘の名前で三千枚も借りる母親なんて、聞いたこともないわ」


「リンデン男爵家の次女、セシリア」


 神官の声が、高い天井に響いた。


「母クラリッサ・リンデンの遺したものを、受け継ぎますか。捨てますか」


 夫人の隣で、妹は手袋の指先を見つめていた。一年前に伯爵家へ嫁いでから、この町へ戻ったのは、昨日の葬儀が初めてだった。


「……捨てます」


 妹は、わたしを見なかった。


 神官は台帳に筆を下ろしかけ、ふと手を止めた。


「帳簿は、改められましたか」


「見れば分かります」


 答えたのは夫人だった。


「浪費家の借金に、伯爵家の嫁を一日たりとも関わらせるわけにはまいりません」


 戸口のそばで、黒い外套(がいとう)の男が咳払いをした。家を担保に、母へ金を貸した商会の使いだ。


「リンデン家の家屋の抵当(ていとう)、金貨二百枚。借り主がお亡くなりになりましたので、約定(やくじょう)どおり、月末までに全額をお返しいただきます」


 月末まで、二十日もない。


 ——お金はね、しまっておくと死ぬのよ。人の手の中でだけ、生きるの。


 母の口癖だった。宝石を売った日も、家を抵当に入れた日も、母はそう言って笑った。

 わたしはそれを、使い道を訊(き)かれたくない人の言い訳だと思っていた。


 その母は冬のはじめの熱病で、三日寝込んで、何ひとつ言い残さずに死んだ。


「長女、エルゼ」


 神官がこちらを向いた。


「受け継ぐなら、借りも受け継ぐことになります。神前の誓いは、取り消せません。受け継ぐか、捨てるか。道はふたつです」


 捨てれば、神殿の記録には、借りを踏み倒して死んだ女の名が残る。


 母のことは好きだった。けれど、許してはいなかった。十年あまりのあいだ、娘に冬の外套ひとつ買わなかった人だ。


 だからこそ、わたしが払う。わたしはあの人とは違うのだと、この町に見せてやる。


「受け継ぎます」


 声は思ったより大きく響いた。


「母の借りは、わたしが全部返します」


 夫人がはじめて、まともにわたしを見た。それから、帳簿をこちらへ放った。


「どうぞ。あなたの遺産よ」


 帳簿は石の床をすべって、わたしの靴の先で止まった。





    *



 その夜、抵当に入った家で、わたしは帳簿を開いた。


 一人に一頁。頁の上に名前と町の名、その下に「借方」と「貸方(かしかた)」のふたつの欄。

 端には小さな備考。母の細い字で、どの行にも日付が添えてあった。


 数字が並んでいるのは、ほとんど借方の欄だけだった。


 隣村、パン屋のマルタ。金貨五枚。備考には「夫を亡くした冬」。


 母にも、父を亡くした冬がある。その冬に借りたのだろう。


 街道の宿場の鍛冶屋、「息子の脚の骨」。丘の修道院、「屋根」。


 ところどころに、赤い「済(すみ)」の印があった。少しは返したらしい。

 それでも残りを足していくと、金貨二百枚ほどになった。家の抵当と、ちょうど同じ額だ。

 四百枚もの金を、母はいったい何に使ったのか。


 最後の頁だけが、逆だった。


 借方は空で、貸方の欄に、わたしと妹の名があった。金額の代わりに、言葉が書いてある。


 エルゼ。冬の外套。持参金。


 セシリア。花嫁の見送り。


 母がわたしに、外套を貸した? そんなものは一度ももらっていない。持参金など、銅貨一枚ない。

 二十歳で縁談ひとつない娘への、悪い冗談にしか見えなかった。


 花嫁の見送りも同じだ。一年前、伯爵家は妹の婚礼に母を呼ばなかった。母は窓辺で、見送りならここからでもできるわ、と笑っていた。


 わたしは帳簿を閉じた。


 近い名前から順に訪ねて、頭を下げる。縫い物で少しずつ返すから待ってほしいと、一人ずつ頼む。わたしにできるのは、それだけだった。


 夜明け前、針箱ひとつを抱えて、家を出た。





    *



 隣村のパン屋は、窯(かま)の火を落とす前の甘い匂いがした。


「クラリッサさんの……娘さん?」


 名乗ったわたしを見て、マルタさんは粉だらけの前掛けで手を拭(ぬぐ)いながら、目を丸くした。


 わたしは帳簿を開き、頭を下げた。


「母がお借りしたお金のことで参りました。金貨五枚、必ずお返しします。ただ、月末には家を取り上げられてしまうので、すぐには……縫い物で、少しずつでも」


「待って。待ってください」


 帳簿の上で、マルタさんの手が止まった。


「借りたのは、あたしのほうです」


 意味が、分からなかった。


「十一年前の冬に、うちの人が死んでね。窯も粉も手放すしかなかった。そこへクラリッサさんが来て、金貨を五枚、置いていったんです。返せる日が来たら、自分の足で返しにおいでって」


 マルタさんは店の奥へ入り、重たそうな布袋を抱えて戻ってきた。


「少しずつ貯めてたんですよ。春になったら、自分で届けに行くつもりだった。……間に合わなかった」


 袋を差し出されて、わたしは一歩下がった。


「受け取れません。何かの、間違いです」


 間違いに決まっている。母は借りる側の人だった。町じゅうがそう言っていたし、わたしもそう思って生きてきた。


 マルタさんはしばらく袋を抱えたまま立っていたが、やがて棚から焼きたての丸パンを三つ取り、布で包んだ。


「じゃあ、これだけは持っていって。道は寒いから」


 村を出て、峠の手前で包みを開いた。パンはまだ温かかった。


 ふと思い立って、帳簿のマルタさんの頁を開いた。


 夫を亡くした冬。


 母の冬では、なかった。





    *



 街道の宿場の鍛冶屋は、脚を少し引きずる息子を呼び、この子の骨を継いだ医者の代金だと言った。

 丘の修道院の院長は、孤児たちが眠る部屋の、雨の漏らない屋根を指さした。


 訪ねる先々で、同じ言葉を聞いた。


 ——返せる日が来たら、自分の足で返しにおいで。


 月末に家を取り上げられると話すと、誰もが顔を曇らせ、金を差し出そうとした。

 わたしはどれも断った。こちらから訪ねていって受け取れば、それは取り立てと同じだ。

 そこだけは、母の言葉に背けない気がした。


 宿代は、宿の女将(おかみ)の繕(つくろ)い物をして払った。針さえあれば、一晩はどこでもしのげた。


 外套のない肩に、北風がしみた。


 母は浪費家ではなかった。それならなぜ、と歩きながら何度も思った。見知らぬ子の屋根を直す金があって、なぜ娘には外套ひとつ買わなかったのか。


 残るのは、王都の頁だけだった。そのひとつに、帳簿でいちばん大きな数字がある。


 ヨナス公証人(こうしょうにん)事務所。セシリアのために。金貨三千。


 これこそが、母を沈めた本当の借りに違いない。


 月末まで、あと十日。わたしは王都へ向かった。





    *



 王都の公証人は、思っていたよりずっと若かった。


「リンデンの娘です。母があなたから借りた金貨三千枚のことで、お願いに参りました。すぐにはお返しできません。どうか、時間を——」


「帳簿を、拝見できますか」


 ヨナスと名乗ったその人は、黙って頁をめくり、ある頁で手を止めた。


 王都のもうひとつの頁だった。そこには、彼自身の名があった。孤児院のヨナス。見習い奉公の支度金。


「十年前、わたしが公証人の見習いになる金を出してくださったのも、クラリッサ様でした」


 彼は眼鏡を外し、しばらく目もとを押さえていた。それから、帳簿の見出しを指でなぞった。


「借方というのは、名前を書かれた者が、帳簿の持ち主から借りている、という意味です。商人の帳簿の書き方で——クラリッサ様は、商家のお生まれでしたから」


 わたしは、机の端に手をついた。


「お屋敷を担保にした二百枚も、この小さな貸し付けに回されていました。三千枚の頁も、同じです」


 ヨナスさんは奥の棚から、一通の証書を取り出した。


「三年前、ハーゲン伯爵家は破産の寸前でした。クラリッサ様はご自分の名で、この事務所を通して、伯爵家に金貨三千枚を貸されたのです。条件はひとつ。セシリア様が伯爵家で重んじられている限り、返済は求めない。そうでなければ、貸し主またはその相続人は、いつでも全額を求めることができる」


 持参金のない妹との婚約を伯爵家が認めたのも、三年前のことだった。


「亡くなった先代の伯爵様は、恥じて、奥様にも明かさなかったはずです。クラリッサ様は、この貸しをセシリア様が受け継いで、嫁ぎ先で身を守る盾にするおつもりでした」


「でも、妹は……」


「捨てられました。ですから今、この権利をお持ちなのは、エルゼ様おひとりです。月末の抵当を払っても、十五倍は残ります」


 ヨナスさんは少し声を落とした。


「それから、お耳に入れておきます。伯爵家では、若奥様が使用人のように扱われているという噂です」


 証書の上で、先代伯爵の署名が黒く光っていた。


 三千枚。あの夫人の家を、ひざまずかせることができる。


 母のために。


 そう思った胸の奥が、ひどく熱かった。





    *



 ヨナスさんに付き添われて訪ねたハーゲン伯爵家の応接間は、暖炉の火が小さかった。


「金の無心(むしん)なら、お門違いですこと」


 先代伯爵夫人は、わたしに椅子を勧めなかった。


 茶を運んできたのは、セシリアだった。若奥様が自分で盆を運ぶ家など、聞いたことがない。


 茶器を置く妹の指は赤く荒れて、袖口には、不器用な繕い跡があった。

 針など持ったこともない子だ。糸は引きつれ、縫い目はあちこちへ曲がっている。


 神殿で、妹が手袋を外さなかったわけが分かった。


「浪費家の母親に、物乞いの姉。持参金も持たずに来た嫁の実家らしいこと」


 夫人は妹のほうを見もせずに言った。セシリアは盆を抱えたまま、目を伏せた。


「家を守るというのはね、醜聞を切り捨てることなの。わたくしはそうやって、この家を三十年守ってきたのよ」


 それは夫人なりの正しさなのだろう。この家は現に一度、沈みかけたのだから。


 わたしは証書を卓に置いた。


「母が、この家にお貸ししたものです」


 夫人は鼻で笑って証書を取り上げ、そのまま動かなくなった。


「……夫の、署名」


「伯爵家の印もございます」とヨナスさんが言った。「貸し主は、クラリッサ・リンデン様です」


「嘘よ。あの浪費家に、夫が……」


 夫人は証書を目から離し、もう一度近づけた。紙をつまむ指に、力が入りすぎていた。


 持参金も持たずに来た嫁、と夫人は言った。けれど妹は、どんな持参金よりも大きな三千枚を連れて、この家に嫁いでいたのだ。


「条件は、セシリア様が重んじられていることです」ヨナスさんは眼鏡を押し上げた。「今、この家で若奥様がどう扱われているかは、存じております。貸し主の相続人は、全額をただちに求めることができます」


「セシリアは、相続を捨てたはずよ」


「だからこそ、権利はエルゼ様おひとりのものです。放棄を誓わせたのは、あなたです」


 夫人の手から、証書が卓へ落ちた。


「……取り立てたら、この家は終わりよ」


 声が震えていた。


「そうなったら、その子も路頭に迷うことになるわ。それでもいいの」


 暖炉の薪が、小さくはぜた。


 証書を取れば、家は守れる。母を浪費家と呼び続けた家に、報いを与えられる。母のために。


 けれどそのとき、この家は傾き、妹は実家に家を潰させた嫁として、ここを追われるだろう。


 取り立てなければ、月末にわたしが家を失う。


 母を捨てた妹のために?


 わたしは盆を抱える妹の袖口を見ていた。曲がった縫い目。引きつれた糸。


 母はわたしに針を持たせた。どこででも生きていけるように。わたしはそれを、貧乏の印だと思って恨んだ。


 妹には、この家を与えた。妹がここで生きたいと願ったから。


 母は娘たちに、それぞれが欲しがった生き方を、黙って貸していたのだ。


 わたしは証書を取り、妹の前に差し出した。


「ヨナスさん。この権利を、妹に譲ります。手続きをお願いします」


「……お姉様?」


「これは、お母様があなたに遺したものよ」


 妹の手から盆が落ちた。


 夫人が何か言いかけて、口を閉じた。この家でこれから頭を下げるのが誰なのか、夫人にも分かったのだろう。


 セシリアは証書を胸に抱き、床に膝をついた。


「お母様は、わたしを捨てたんだと思ってた。婚礼にも来てくれなかったって。恥ずかしい母親だって、わたし、ずっと……」


 あとは言葉にならなかった。


 呼ばれなかったのよ、とは言わなかった。見送りならここからでもできる、と窓辺で笑った母のことも。


 わたしは針箱を開けて、糸を選んだ。妹の手を取り、引きつれた袖口の糸を切って、一針ずつ縫い直していく。


 妹は泣きながら、それを見ていた。


 二人とも、何も言わなかった。





    *



 月末の朝、商会の使いが来た。


 手もとにあるのは、旅の途中の繕い物で得た銀貨が数枚だけだった。

 わたしは針箱と帳簿を膝にのせて、使いの向かいに座った。家を出る支度は、もうできていた。


 戸を叩く音がした。


 マルタさんだった。あの重たい布袋を抱えている。


「自分の足で、返しに来ました」


 その後ろに、鍛冶屋と、脚を少し引きずる息子がいた。修道院の院長がいた。

 旅の途中で頭を下げてまわった人たちが、帳簿に名前のある人たちが、狭い戸口の外まで並んでいた。


 いちばん後ろに、ヨナスさんがいた。


「見習いの支度金を、まだお返ししていませんでしたので」


 一人ずつ、卓に金を置いていく。銀貨の人もいれば、銅貨ばかりの人もいた。


 今度は、受け取った。


 この人たちは、自分の足で来たのだ。母が言ったとおりに。


 使いが時間をかけて数え、やがて顔を上げた。


「……足ります」


 家を担保に母が借りた二百枚は、町の人たちの手の中をめぐって、この家へ帰ってきたのだった。


 その夜、わたしはもう一度、帳簿を開いた。


 ところどころにある赤い「済」は、自分の足で帰ってきた人の印だった。


 借方は、名前を書かれた者が借りている。それなら、貸方は。


 名前を書かれた者が、母に貸したものだ。


 最後の頁を開く。


 エルゼ。冬の外套。


 その行の日付を、マルタさんの頁と見比べた。十一年前の冬。夫を亡くした冬と、同じ冬だった。


 九つのあの冬、わたしは外套をねだって、母を困らせた。

 あの外套になるはずだった金が、マルタさんの窯の火になった。

 そして今朝、自分の足で帰ってきた。


 母がわたしに遺したのは、この人たちだった。


 次の言葉に目を移す。


 持参金。


 日付は、三年前の春。伯爵家に三千枚を貸した頁と、同じ日だった。


 妹の盾は、わたしの持参金でできていた。


 そしてわたしは、それを知らないまま、同じ三千枚を自分の手で妹に渡した。


 母と同じことを、わたしは選んでいた。


 ペンを取り、インクをつけた。


 自分の名の横に、小さく書く。


 済。


 セシリアの行は、空けておいた。あの子がいつか、自分の手で書けるように。


 母の遺産は、借金の山だった。

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