精神科医・神代玲の診断 〜ギフト『薬理魔法』は万能ではない〜
「先生。次の患者さん、お見えになりました」
診察室の扉から少女が顔を覗かせ、微笑みかけた。
彼女は僕の助手をしてくれている、エルフの女の子——フェリシアだ。
僕は手元のカルテを閉じ、窓の外を眺めた。
ここは、王都の片隅にある小さな診療所。
看板には、この世界ではまだ珍しい言葉が掲げられている。
——『メンタルクリニック』。
僕の名前は神代玲。かつて大学病院で勤務していた精神科医だ。僕は今、この異世界で医者として患者を診ている。
この異世界にも、様々な精神疾患が蔓延している。うつ病、双極性障害、統合失調症……気分障害や精神病だけじゃない。他にも不眠症に悩む侯爵やパニック障害に苦しむ令嬢だっている。
どこの世界にもあり、誰にでも起こりうる病気——それが精神の病気だ。
この世界には魔法がある。
傷を治癒する魔法、呪いを解く魔法、状態を回復する魔法……だが、そのいずれによっても治療できない精神の領域、それが僕の専門だ。
僕は3年前にこの世界に転移した。
そのとき、僕は神と契約し、特殊な力を授かった。
それが——ギフト『薬理魔法』。
薬効。すなわち、薬物が人体に及ぼす作用を再現することができる魔法。
抗うつ薬、抗精神病薬、睡眠薬、抗不安薬……錠剤やカプセルとして扱っていたものを、僕は魔法として患者に投与することができる。
他にも、診断の鑑別を行ったり、患者のバイタルに関する情報を取得する附帯能力も与えられている。
僕は神の力を持っている。だが——
「僕は神じゃない」
誰に言うともなく、独り言を呟いた。
「……薬で治せることにも、限界はある」
「先生?」
フェリシアが首を傾げる。
「いや、なんでもない。患者さんを呼んでくれる?」
「はい!」
パタンと扉を閉め、フェリシアが診察室を出ていく。ほどなくして、扉が再び開いた。
「どうぞ」
フェリシアが患者を診察室に通す。入ってきたのは、小柄な少年だった。
茶色い髪に筋肉質な身体。そして、丸みを帯びた耳。一目見て、ドワーフだと分かる。
「こんにちは。神代玲です」
「……こんにちは」
「名前と年齢を教えてもらえるかな?」
「……フィン・グランベルです。15歳です」
「フィン君だね。今日はどういうことで来てくれたのかな?」
フィンは俯いた。
「母さんが……一度、先生に診てもらえって」
「お母さんから勧められたんだね」
フィンがこくりと頷く。
「最近、何か困っていることはある?」
「……何もしたくないです」
「うん」
「……学校にも行けなくなって」
「眠れている?」
「眠れない日もあります」
「食事は?」
「あまり……」
「好きなことをしているときはどう?」
「……何も楽しくないです」
「それじゃあ、たとえば、気分がハイになるようなことはなかったかな?」
「そういうことはないです」
僕は淡々とカルテに記載していく。「主訴:抑うつ気分」意欲減退、興味・喜びの減退、睡眠障害、食欲減退、日常生活能力の低下が社会活動にも影響を与えている。
躁相がないとするならば、典型的な抑うつ症状と言っていい。
「フィン君。消えたいと思うことはある?」
この質問に、フィンの肩が、ほんのわずかに動いた。
「……あります」
僕はペンを止めた。
「よくある?」
「毎日……ではないです。でも、時々」
「具体的に何かしようと考えたことは?」
「……ないです」
「分かった。教えてくれてありがとう」
僕は落ち着いた声で言った。
その後も、丁寧に質問を続けていく。
幼少期のことや家族との関係、学校生活、友人関係、大きな環境変化がなかったか、何か強いストレスになる出来事がなかったか……話を聞く限りでは、これといって大きな問題はない。
両親との関係も悪くない。虐待を受けていたわけでもない。経済的な問題もない。家族歴もない。
学校で深刻ないじめを受けていたわけでもない。
幼少期から現在までの生育歴にも、目立った問題は見当たらなかった。
——では、なぜ?
彼の背景には何がある?
僕はフィンの顔を見る。
少年はずっと俯いていた。
「……先生、少しだけ、いいですか?」
フィンの横で話を聞いていたフェリシアが、静かに口を開いた。
「どうぞ」
僕は促した。彼女は、いつも患者の様子をよく見ている。僕が気付けないような些細なことにも、よく気付ける。
「フィン君。何か、先生に話したいことがあるんじゃないですか?」
フィンは黙った。
そして、しばらくしてから、小さな声で、何かに怯えるように訴えた。
「先生……実は……僕……本当は、エルフなんです」
フェリシアがぴくりと反応する。
僕は黙った。
——エルフ?
診察室に静寂が落ちる。
フィンは恐る恐る顔を上げた。
「……変ですよね」
「どうしてそう思うの?」
「だって……僕はドワーフだから」
フィンは自分の手を見る。
「身体は、ドワーフです。でも……僕は、小さい頃からずっと思ってたんです。自分はエルフなんだって」
僕は黙って話を聞いた。
「エルフの森を見ると、なんだか懐かしいんです。エルフの人たちを見ると、自分もあの人たちと同じなんだって思う」
フィンの声が震え始める。
「でも鏡を見ると、そこにいるのはドワーフで……」
フィンは両手を強く握りしめた。
「何度も考えました。自分がおかしいんじゃないかって。両親にも言いました。でも……」
フィンは再び俯いた。
「『何を馬鹿なことを言ってるんだ』って」
僕は何も言わなかった。
「僕だって、分かってます。身体がドワーフだって。でも……心は、どうしてもエルフなんです」
僕はフィンを見つめた。
——妄想だろうか?
「フィン君。自分がエルフだと思うようになったきっかけを、覚えている?」
「……小さい頃からです」
「何歳くらい?」
「覚えてないくらい、小さいときから」
「誰かに魔法をかけられたとか?」
「ありません」
「家族以外の誰かから、エルフになるように言われたことは?」
「ないです」
なるほど。彼は幼少期から自分をエルフと認識している。
それも外因的なものではない。
ただ、内因的なものと考えても、可能性は無数に存在する。
「……ちょっと、調べさせてもらってもいいかな?」
「……はい」
フィンは静かに答えた。
僕はフィンの頭に手をかざし、《薬理魔法》の附帯能力を発動させた。
「——薬理鑑別」
患者の身体を構成する生理機能、神経伝達物質、薬物、毒物、ホルモン……様々な薬理学的情報が、僕の脳内に流れ込んでくる。
【物質及び身体疾患関連】
・薬物及び毒物——所見なし
・脳及び中枢神経系——異常所見なし
・内分泌及び代謝系——異常所見なし
精神症状に影響を与える物質及び身体疾患は除外される。
さらに深く解析していく。
【神経伝達物質関連】
・ドパミン作動系——異常所見なし
・セロトニン作動系——明確な異常所見なし
・ノルアドレナリン作動系——異常所見なし
今のところ、医学的に説明できる著明な異常所見はない。
僕は一度、能力を解除し、フィンを見た。
「フィン君。悪の組織に、種族を変えられたとか……そういうことは?」
「え?」
「誰かに身体を改造された、とか」
「……ないです」
「そうだよね」
僕は頷いた。
やはり妄想によるものとは考えにくい。そもそもフィンには、現実と妄想の区別がつかなくなっているような兆候が見られない。客観視できている。
そして、その裏付けとして、ドパミンの分泌にも異常は見られない。
鑑別診断として、妄想及び幻覚を伴う統合失調症の陽性症状は除外していいだろう。
彼はただ、自分自身をエルフだと認識していて、そのことと身体的な種族との間に、大きな隔たりを感じている。
「……先生」
フィンが不安そうに僕を見た。
「僕は……おかしいんでしょうか?」
このとき僕は、いくつかの可能性に思考を巡らせていた。そのため、すぐには答えなかった。
すると、僕のかわりに、フェリシアが優しくフィンに話しかけてくれた。
「フィン君」
「……はい」
「私にはあなたが、嘘をついているようには見えません」
フィンの目から涙がこぼれた。
「……はい」
「あなたはとても、苦しそうに見えます」
フェリシアは少しだけ困った表情をした。
僕はフェリシアを見た。
確かにフェリシアの言うとおりだ。
フィンは苦しんでいる。その苦痛によって、日常生活まで崩れ始めている。
僕は鑑別に集中するあまり、患者の表情を見落としていた。
もう一度、フィンを見た。
——仕方がない。あれを使うか。
僕はもう一つの附帯能力を発動させた。
「——薬理診断」
この能力の発動により、患者の病態として、最も可能性の高い診断の候補が示される。
本当は使いたくない。医師として、診断は他に委ねたくないからだ。
だが、致し方ない。全容が掴めない以上、治療を始めることはできない。それはつまり、彼を助けることができないということを意味する。
薬理診断が次のとおり提示する。
【診断候補】
■種別違和
生物学的な種族と、本人が認識する自己の種族との間に不一致が存在し、それによって強い苦痛や生活上の支障が生じているもの。
——種別違和?
聞いたことがない。
未知の病名だ。
僕は精神科を標榜する医師だ。
当然、精神にまつわる病気を、専門医として熟知している。知識として、症例も治療法も頭の中に入っている。
だが——
種別違和。それは医学書にも論文にも載っていない病名だ。
妙な診断をしてくれたものだ、と僕は心の中で小さく毒を吐きつつ、すぐに思考を切り替えた。
いや、今はこれでいい。少なくとも、この病名からある程度の病態は掴めた。そして、それはおおむね、僕の見立てと一致している。
まったく治療法がイメージできないものではない。
ひとつの方向性が示されたのだ。
この病相で、まず治療しなければならないものは——
「フィン君」
「……はい」
「まずは、今出ている抑うつ症状を治療しよう」
「……治るんですか?」
「やってみよう」
僕はそう答えた。
「僕は神じゃない」
フィンが顔を上げる。
「君がエルフなのか、ドワーフなのか。その答えを僕が決めることはできない」
僕は穏やかに言った。
「でも、君が少しでも楽に生きられるように手助けすることはできる」
フィンはしばらく僕を見つめていた。
やがて、小さくうなずいた。
「……お願いします」
「分かった」
魔法を発動させる。
「《薬理魔法》」
僕は手のひらに魔法陣を展開させた。
第一選択は、副作用が少なく、使いやすい抗うつ薬。
「《escitalopram oxalate》」
手のひらから淡い光が放たれ、フィンの脳内へ溶け込んでいく。
それだけだった。
劇的な変化はない。
フィンの表情が突然明るくなることもない。
長年抱えてきた苦しみが、一瞬で消えることもない。
それが当然だ。
精神疾患の治療は、そんなに簡単ではない。
「今日はこれで終わりにしよう」
「はい」
「通院は自己中断しないでほしい」
「……はい」
「定期的に通院してほしいんだ。症状が良くなってもね」
「分かりました」
「それから、もし死にたい気持ちが強くなったら、次の診察日を待たずに来てほしい」
「……はい」
フィンは立ち上がった。
診察室を出る直前、一度だけ振り返る。
「先生。僕は……エルフになれるでしょうか」
僕は少しだけ考えた。
「それは、僕には分からない」
「……そうですか」
「でも、一緒に考えることならできるよ」
フィンは小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
扉が閉じる。
診察室に静寂が戻った。
「先生」
フェリシアが声をかける。
「難しい患者さんですね」
「……ああ」
僕はカルテを見つめた。
薬理診断が導き出した病名——『種別違和』。
そんな診断名を、自分はこれまで一度もカルテに書いたことがない。
そもそも、精神医学にはそんな概念は存在しない。
「来週の休診日に、少し調べてみようかな」
「何をですか?」
「エルフとドワーフについて」
僕は椅子から立ち上がった。
そして、隣にいるフェリシアを見た。
「フェリシア。付き合ってくれる?」
一瞬、目を丸くするフェリシア。
それからすぐに「はい! 先生」といつもの明るい声が返ってきた。
◇
今日は休診日だ。
いつもなら朝から診察室にいる時間だが、今日は白衣を着ていない。
僕とフェリシアは、王都の中央図書館に来ていた。
「先生、なんだか楽しそうですね」
「そう見える?」
「はい。いつもより目が輝いてます」
「……そうかな」
フェリシアに指摘され、僕は少しだけ苦笑した。フェリシアは人の些細な変化に気づける。
確かに、少し楽しみではあった。
先週、15歳のドワーフの少年——フィンを診察した。
彼は、自分のことをエルフだと思っている。しかし、身体は誰の目から見てもドワーフだった。
その食い違いによって、彼は苦しんでいた。
僕の薬理診断は、その状態を——
『種別違和』と示した。
しかし、診断名がついたからといって、問題が解決するわけではない。そもそも、診断が合っているのかも疑わなければならない。
治療に先立ち、まずは知らなければならないことがあった。
僕は、この世界のことをほとんど知らない。
大学病院で精神科医をしていた僕にとって、エルフもドワーフも空想上の存在だ。
だから今日は、医学書ではなく歴史書を調べる。
フィンが「自分はエルフだ」と言うなら、まず僕自身が、エルフとは何なのかを知らなければならないからだ。
「先生、こっちです」
フェリシアに案内され、僕は種族史の書架へ向かう。
彼女はエルフだ。
当然、フェリシアはエルフの何たるかをよく知っている。
それでも僕は、あえて彼女に聞かなかった。
それは本人の主観だけではなく、客観的な検討材料も必要だからだった。
精神科では、患者の語ることを大切にする。それと同時に、客観的な情報も収集する。
その両方が不可欠なのだ。
「……ありました」
分厚い本を一冊取り出す。
——『大陸諸種族文化史』。
少々堅苦しい題名だ。僕は机に本を積み上げ、ページを開いた。
そして、エルフについて一つずつ整理していった。
【外観】
エルフは一般的に、人間よりも細身で長身。
耳は尖っており、髪や瞳には淡い色合いが多い。
特に長命種として知られており、平均寿命は200年前後。
一方、ドワーフはエルフより小柄で、骨格が太く、筋肉質。
鉱山や鍛冶に適した身体的特徴を持つ。
「……見た目だけでもずいぶん違うね」
「そうですね」
フェリシアが隣から本を覗き込む。
「種族は、見ればだいたい分かりますから」
「生物学的な差はかなり大きい、と」
僕はメモを取る。
外見だけなら、両者はかなり明確に区別できる。
だが、それだけではない。
【気質】
エルフは、一般的に「慎重」「内省的」「長期的思考を好む」とされる。
一方、ドワーフは「実利的」「職人気質」「行動が早い」とされていた。
ステレオタイプだ、と僕は感じた。
「これは……かなり偏見が入ってるな」
「はい。私もそう思います」
フェリシアが苦笑する。
「エルフだから全員おとなしいわけじゃありませんし、ドワーフだから全員頑固なわけでもありません」
「そうだよね」
僕は本を閉じかけて、もう一度開いた。
いや、ここは重要だ。
種族全体の傾向と、個人の人格は別物。エルフだからこう、ドワーフだからこう……そんな単純な分類を精神科医が採用するのは危険だ。
人間だって同じだ。民族、文化、家庭環境、教育、宗教……それらは人格形成に多大な影響を及ぼす。
しかし、それだけで一人の人間を決めつけることはできない。
そして、ここからが興味深かった。
【思想】
エルフ社会では、「生命の長さ」が思想に大きな影響を与えている。
百年単位で物事を考える。
森を伐採するときも、百年後、二百年後の再生を考える。
一方、ドワーフ社会では「受け継ぐこと」が重視される。父から子へ——鍛冶の技術も、家名も、道具も……自分一人の人生で完成させるのではなく、次の世代へ渡すことに価値がある。
つまりは、エルフは「未来」を重視し、ドワーフは「継承」を重視する。
そんな違いがあるらしい。
「面白いですね」
フェリシアが呟いた。
「エルフは長く生きるから、未来を考える。ドワーフは、自分が死んでも残るものを考える。どちらも結局、自分より先の時間を見ているんですよ」
「……確かに」
僕はその言葉をメモした。
【歴史】
エルフとドワーフは、かつて同じ地域に暮らしていた時代がある。
しかし、約千年前。
大規模な魔力災害——《大樹災》が発生した。
森の奥に存在していた巨大な魔力樹が暴走し、大地に大量の魔力が流出した。
エルフたちは森を守るために魔力を封じようとした。
一方、ドワーフたちは魔力鉱石を利用して災害を制御しようとした。
両者の意見は対立した。
結果として、エルフは森へ、ドワーフは山岳地帯へ……それぞれ生活圏を分けることになった。
そのわだかまりは、今でもまだ残っているらしい。
「エルフとドワーフの関係性って、今ではどうなの?」
僕は純粋な疑問をフェリシアに投げかけた。
「大昔の厄災から種族が分かたれたと、古い考えを持っているエルフはあまりいません。ですが……」
フェリシアの表情が曇る。
「15年前の魔法事故がきっかけで、エルフとドワーフの関係性はあまり良いとは言えません」
「魔法事故?」
「はい。魔法陣が暴走して、エルフとドワーフが爆発の巻き添えになった魔法事故です。その結果、エルフの青年が亡くなり、ドワーフが生き残りました。一部のエルフはそれを快く思っていません」
「そんな凄惨な事故があったのか……」
——ひと段落して、僕は資料を閉じ、目頭を押さえた。眼精疲労だ。
朝から読み始めて、気づけば昼前だった。フェリシアも少し疲れたように伸びをしている。
「休憩しようか」
「はい! 先生」
フェリシアは僕に向かって微笑みかけた。
僕たちは図書館を出て、王都の中央通りにある、小さなカフェに立ち寄った。
窓際の席に座り、僕は紅茶を注文した。フェリシアはエルフの森で採れるという『月花茶』を頼んだ。
白い花びらが浮かんだ、不思議な香りのするお茶だった。
フェリシアはカップを静かに置くと、僕に話しかけた。
「先生。さっきから、ずっと考え込んでますね」
「……分かる?」
「はい。先生はわかりやすいです」
フェリシアは悪戯っぽく笑った。僕はあまり表情を外に出すタイプではなかったが、フェリシアからすれば僕の表情を読み取ることはそれほど難しいことではないみたいだった。
「フェリシア。エルフのアイデンティティって、何だと思う?」
「……エルフの、アイデンティティ?」
「うん」
僕は今日調べた資料を思い返した。
尖った耳、長い寿命、森、魔法、文化、歴史……それらの要因がエルフを決定づけるものなのか、あるいは——
フェリシアは少し考えてから、静かに言った。
「……たぶん、『誇り』なのかもしれません」
「エルフであることの『誇り』?」
「はい」
彼女は月花茶を一口飲んだ。
「エルフは誇り高い種族なのだと、私はそう教わりました」
「……誇り高い種族」
僕は噛み締めるように復唱した。
そうすると、最も重要なのは、容姿でもなく外因でもなく、自己の価値観。民族学的アプローチでいうならば、その自負が、自認が、エルフをエルフたらしめているということなのか。
「……でも、私にはよくわかりません。私は魔法も使えないエルフですけど、自分はエルフだと思っています」
そう言うと、フェリシアは自分の耳に触れ、そして窓の外を眺めた。
フェリシアの横顔は、少し悲しそうに僕には見えた。
「ところで、先生。フィン君の話なんですが……」
フェリシアが真剣な顔になる。
「先生が言っていた『種別違和』って、結局どういうものなんですか?」
「……そうだね」
僕は窓の外を見た。
王都を歩く人々。人間、エルフ、ドワーフ、獣人、様々な種族が行き交っている。
僕は少し考えてから説明を始めた。
「僕が元いた世界にも似たような障害があった」
「先生の世界にも?」
僕は一度だけ目を伏せた。
「『性別違和』というものだ」
フェリシアが首を傾げる。
「性別……ですか?」
「そう。生物学的な性別と、自分が認識する性別が一致しないことによって、苦痛を感じている人たちがいる」
「それは病気なんですか?」
フェリシアが問いかける。
「難しい質問だね。人の心は正常や異常、病気や障害で一様に説明できるものではないからね。
ただ、僕個人としては、積極的に病気と考えてはいない。だけど、精神の領域とされる」
僕は精神科医として学んだことを思い出す。
かつては『性同一性障害』という名称が広く使われていた。
しかし、その名称には「性が同一化していないこと自体が障害である」という誤解を招きやすい側面もあった。
そのため、現在では、本人の性自認そのものを障害として扱うのではなく、そこから生じる苦痛や生活上の困難に焦点を当てる考え方が重視されている。
有病率はおおよそ男性で30,000人に1人、女性で100,000人に1人。稀な障害とされる。
「たとえば……」
フェリシアが慎重に言葉を選ぶ。
「男の身体だけど、自分は女だと思っている人がいても、それだけで障害というわけではない?」
「そういうこと」
「でも、そのことで苦しんでいる場合は?」
「その苦痛を和らげる方法を考える」
身体治療を使う場合もある。
薬で解決できる障害ではない。精神の薬には、そういう万能な作用はない。
そもそも精神疾患には、薬だけでは解決できない問題が数多くある。
人間が「自分は何者なのか」という問いに答えを出すことまで、薬理作用に委ねることはできない。
「性別違和についても、本人の性自認そのものを薬で変える、という考え方ではない。
身体的な治療によって苦痛が軽くなる人もいる。逆に、身体的な治療を望まない人もいる。
重要なのは、その人自身が何に苦しみ、何を望んでいるのかを見極めることだと僕は思う」
「見極める……」
フェリシアは黙って聞いていた。
僕はそこで、一度言葉を止めた。
そして、フィンの顔を思い出す。
「だから、種別違和についても同じなのかもしれない」
「同じ……?」
「フィン君の場合も、『エルフになりたい』という気持ちを消してしまえばいい、とは僕は思わない」
抗うつ薬に期待しているのは、遷延する抑うつ症状の改善。
フィンのアイデンティティそのものを変えるためではない。
「でも、じゃあ……どうする?」
僕自身に問いかけるように呟く。
身体を変えるのか。
エルフになるための魔法を探すのか。
それとも、ドワーフとして生きながら、自分の中のエルフというアイデンティティを受け入れる方法を探すのか。
どれが正解なのか。
今の僕には分からない。
「フェリシアはどう思う?」
僕は彼女に尋ねた。
「もし、フィン君が『エルフになりたい』と言ったら……身体を変える治療をするべきだと思う?」
フェリシアはすぐには答えなかった。
しばらく考えたあと、ゆっくりと口を開く。
「私は……『エルフになれるなら、なったほうがいい』とは思いません」
「……そう」
「でも、『ドワーフなんだから、ドワーフとして生きなさい』とも思いません。だって、それを決めるのはフィン君自身だと思うから」
フェリシアはまっすぐ僕を見る。
「ただ……先生が言っていたじゃないですか」
彼女は少しだけ笑った。
「『苦しんでいること』を治療するって」
「ああ」
「だったら、まずはフィン君が何に一番苦しんでいるのかを、もっと聞いてあげるべきなんじゃないでしょうか。エルフになれないことなのか。ドワーフの身体でいることなのか。それとも……」
少しだけ間を置く。
「『自分は何者なのか分からない』ことなのか」
僕は何も言えなかった。
たぶん、精神科医が患者と向き合うときに必要なのは、こういう問いなのだ。
僕の薬理鑑別は、身体の異常を探すことができる。
薬理診断は、症状を分析して診断の候補を示してくれる。
『薬理魔法』は、薬の効果を正確に再現できる。
それでも、フィンが何を望んでいるのか。何を恐れているのか。彼にとって『エルフ』とは何なのか。
それを決めることはできない。
僕は小さく息を吐いた。
「……僕は神じゃない」
「え?」
「何でも分かるわけじゃないってこと」
フェリシアは少しだけ笑った。
「先生、前からそう言ってますよ」
「うん」
僕も笑った。
けれど心の中では、前よりもずっと強く思っていた。
もう一度向き合ってみよう——患者と。
そして、医師として、あらゆる可能性を検討してみよう、と。
◇ ◇
翌日。
フェリシアは朝から上機嫌だった。
「先生、昨日は楽しかったですね!」
「……そうだね」
「王都の図書館なんて、久しぶりでしたし。お茶も美味しかったです!」
「うん」
「また行きましょうね!」
「そうだね」
昨日は二人で図書館へ行き、エルフとドワーフについて調べ、その後はカフェでお茶をした。
仕事ではない。
少なくとも、フェリシアにとってはちょっとしたお出かけだったらしい。
「……そんなに楽しかった?」
「楽しかったですよ! 先生と二人で出かけるのなんて、久しぶりでしたから」
僕は笑いながらカルテを確認する。
今日はフィンの予約が入っている。抗うつ薬を処方してから、最初の経過確認の日だった。
やがて、診察室の扉が開く。
「こんにちは」
「……こんにちは」
フィンが入ってきた。
「どうぞ、座って」
「はい」
前回よりも、少しだけ表情が柔らかい。
初診のときは、椅子に座っているだけでも緊張しているのが分かった。
今日はそこまでではない。
「まず、薬を始めてからどうかな?」
「……まだ、あまり変わらないです」
「うん。それでいい」
「いいんですか?」
「すぐに効果が出るわけじゃないからね」
僕は落ち着いた声で説明する。
「だから、今の段階で『効いていない』と判断する必要はないよ」
「はい」
「気分はどう?」
「少し、よくなったような気もします」
「それはいい変化かもしれないね」
「でも、たぶん気のせいです」
「そうかもしれない。でも、経過として記録しておこう」
診察とは、こういう小さな変化を確認していく作業だ。
劇的な変化はない。
けれど、昨日より今日、今日より明日……少しずつ変化することもある。
「眠れてる?」
「はい」
「食事は?」
「前より食べられるようになりました」
「学校は?」
「……まだ、ちょっと」
「無理しなくていいよ」
僕は一つずつ確認していく。
今のところ、大きな悪化はない。それでいい。
副作用についても、吐き気や強い眠気などはないという。
「じゃあ、薬の副作用をもう一つ確認しよう」
僕は《薬理魔法》の附帯能力を発動させた。
「生体検査」
対象は、フィンの身体。
選択的セロトニン再取込み阻害薬(SSRI)によって起こり得る心電図上の変化を読み取る。
注意すべきはQT間隔の延長だ。
QT間隔とは、心電図上のQ波の始まりからT波の終わりまでの時間。心室が収縮してから再び拡張するまでの時間を指す。
このQT間隔が延長すると、危険な不整脈を伴う場合がある。
この世界では心電図という検査そのものが存在しない。
だからこそ、僕の《薬理魔法》が役に立つ。
「……異常所見なし」
QT間隔は正常範囲内。薬物濃度も問題ない。少なくとも現時点では、薬を中止する理由はない。
僕は記録を書き終える。
そして、フィンの顔を見る。
顔色は悪くない。
少なくとも初診のときより、少しだけ生気があるように見える。
ただし、それだけだ。
まだ、著明な改善とは言えない。
「じゃあ、今日も薬を出しておくね」
僕は《薬理魔法》を使った。
淡い光がフィンの身体を包み、必要な薬理作用が再現される。
「さて——」
僕は一度フェリシアを見る。そして、考えを決めた。
「……フェリシア」
「はい?」
「このあとは任せてもいいかな」
「え?」
フェリシアが目を丸くする。
「僕は席を外す」
フィンも驚いたように僕を見る。
「昨日、エルフについて調べただろう?」
「はい」
「フィン君が自分をエルフだと思う理由について、僕よりフェリシアの方が理解しやすいと思う」
僕は立ち上がる。
「それに、僕がいないほうが話しやすいと思う」
フェリシアはしばらく僕を見つめていた。
3年間、彼女は僕の診察をずっと見てきた。
患者の話を聞くとき、薬を変更するとき、うまくいかなかったとき、そして、患者が少しずつ回復していくとき……彼女はずっと僕の隣にいた。
彼女は医者ではない。だが、彼女に任せてみようと思った。
「……分かりました」
フェリシアが頷いた。
「先生」
「うん」
「任せてください」
「お願いするよ」
そう言うと、僕は診察室の扉を静かに閉めた。
静寂が訪れる。
フィンとフェリシア。二人きりになった診察室で、しばらくどちらも話さなかった。
やがてフェリシアが微笑む。
「緊張しなくて大丈夫ですよ」
「……はい」
「先生はいませんけど、私はいますから」
「……はい」
フェリシアは、少しだけ姿勢を変えた。
「フィン君。昨日、図書館で先生とエルフについて調べてきました」
「……そうなんですか?」
「はい。私も知らないことがたくさんありました」
「僕も……エルフのことを知りたいです」
「うん」
フェリシアは頷いた。
「じゃあ、少しだけ聞いてもいいですか?」
「はい」
「どうして、自分はエルフだと思うんですか?」
フィンは少し黙った後、しっかりとした口調でフェリシアに自分の想いを伝えた。
「小さい頃から……エルフの森を見ると、すごく懐かしい気持ちになります。エルフの歌を聴くと、自然と涙がこぼれます。それから、弓を持つと不思議なくらい手に馴染むんです」
「何かきっかけがあったんですか?」
「分かりません」
フィンは自分の手を見る。
「いつからそう思っていたのかも、はっきりしないんです。ただ……ずっと、自分は本当はエルフなんだって思ってました」
「フィン君はエルフになりたいんですか?」
フェリシアが尋ねる。
「……はい」
「どうして?」
「……分かりません」
フィンは少し俯いた。
「ただ、この身体でいると……自分じゃないような感じがするんです」
「自分じゃない?」
「はい」
「それは、つらい?」
「……すごく」
小さな声だった。
「鏡を見ると、自分がいるはずなのに……知らない人がいるみたいで」
フィンの指が震える。
「学校でも、みんなは僕をドワーフとして扱います。当たり前なんです。僕はドワーフだから。でも、僕の中では違う」
フェリシアは黙って聞いていた。
「エルフの服を着たら楽になるのかと思って、着てみたこともあります」
「どうでした?」
「少しだけ……嬉しかったです」
「そうですか」
「でも、鏡を見るとドワーフの僕がいる」
フィンは苦しそうに笑った。
「だから……どうすればいいのか分からないんです」
フェリシアは少しだけ考えてから、尋ねた。
「私に何かできることはありますか?」
フィンは少し驚いたようにフェリシアを見上げた。
「私はエルフです。だから、エルフのことなら少しくらい力になれると思います」
フェリシアは優しく笑った。
「何でもいいですよ。エルフの文化を知りたいなら教えます。森へ行ってみたいなら案内します。エルフの料理が食べたいなら作ります」
「……本当に?」
「もちろん」
フィンの表情が少しだけ緩んだ。
「じゃあ……」
フィンは躊躇いながら尋ねた。
「僕は……エルフになれると思いますか?」
フェリシアは答えられなかった。
「……分かりません」
「……そう、ですか」
明らかにフィンは落胆した。
その表情を見て、フェリシアはすぐに続けた。
「でも……私も、エルフらしいエルフではありませんよ」
「え?」
フィンが驚いて顔を上げる。
「私は、エルフの社会では落ちこぼれでした」
「……フェリシアさんが?」
「はい」
フェリシアは自分の尖った耳に触れた。
「私は魔法が使えませんでした。エルフにとって、魔法はとても大切なものです。
特に私の故郷では、魔力の強さが将来を決めるようなところがありました」
フェリシアは淡々と話す。
「私は村長の孫でした。だから、親も周囲も、私に期待していました。でも、私は魔法が使えなかった」
声は穏やかだった。
だからこそ、フィンは黙って聞いていた。
「何度練習しても駄目でした。親の期待にも応えられませんでした」
フェリシアは話を続ける。
「学校では、いじめられました。エルフなのに魔法が使えない。村長の孫なのに何もできない。落ちこぼれだって」
フィンの目に少しずつ涙が浮かんでいく。
「毎日、そう言われました。そのうち、自分なんていないほうがいいんじゃないかって思うようになりました」
フェリシアは一瞬だけ目を伏せた。
「そして私は、ちょうどあなたと同じくらいの頃に——自分の命を絶とうとしました」
フィンの目が見開かれる。
フェリシアは、それ以上の具体的なことは語らなかった。
ただ、自分がどれほど追い詰められていたのかを、ありのままに伝えた。
「そのとき、先生に会いました」
「……玲先生に?」
「はい」
フェリシアの表情が少しだけ柔らかくなる。
「先生は、私を助けてくれました。そして、こう言ってくれました」
フェリシアは少しだけ息を吸った。
「自分を死なせようとするほど追い詰められているなら、それは君が弱いからじゃない。病気がそうさせているのかもしれないって」
フィンの目から涙がこぼれ落ちる。
「そして先生は……私の病気を治すと言ってくれました」
「……治ったんですか?」
「はい」
フェリシアは微笑んだ。
「時間はかかりましたけど」
それでも、少しずつ、生きている時間が増えていった。
朝を迎えることが苦痛ではない日が増えていった。
食事が美味しいと思える日が増えていった。
そしていつしか——
自分が生きていてもいいと思えるようになった。
「私は、今でもエルフらしいエルフではないと思います。故郷の人たちが思い描くようなエルフにはなれませんでしたから」
フェリシアは胸に手を当てた。
「でも、私は自分をエルフだと思っています。だから……」
フェリシアは優しく言った。
「フィン君が苦しい気持ち、私にはほんの少しくらいなら分かると思います」
フィンはぼろぼろと泣いていた。
「身体がどうとか、種族がどうとか。そんな簡単な話じゃないですよね」
フィンは何度も頷いた。
「だから、すぐに答えを出さなくていいと思います」
「……はい」
「先生を信じてみてください」
フェリシアは笑った。
「先生は、何でも治せる人じゃありません。でも、苦しんでいる人を見捨てるような人でもありません」
フィンは俯いた。
そして、声を震わせながら言った。
「……はい」
◆
——その頃。
僕は王都の東区にある古い塔を訪れていた。
塔の最上階、そこは王立魔法学術院の研究機関、魔法研究所。
「久しぶりだな、神代君」
出迎えてくれたのは、一人の老人だった。
彼の名はエドガルド・ヴァレンシュタイン。
王立魔法学術院の名誉教授であり、魔法生理学を専門とする研究者だ。
白髪を後ろで束ね、丸い眼鏡をかけている。
研究室には大量の魔導書と魔法具が所狭しと並べられていた。
「今日はどうした? また奇妙な病気でも見つけたのか?」
「……まあ、そんなところです」
「君はいつもそうだな」
エドガルドは笑った。
彼とは、3年前にこの世界へ来てから何度も話をしている。
最初の頃、彼は精神医学というものに懐疑的だった。
魔法によって魂や記憶に干渉できるこの世界では、精神的な症状の多くを『魔力障害』や『呪い』と考えるほうが自然だったからだ。
だが、魔法だけでは精神作用の説明ができない場合があり、治療という行為が必要な場合があるのも事実だった。
そしてなにより、神代玲という医者が、患者一人ひとりと向き合い、表面上の病気だけではなく、人の抱えている奥底を見ようとする姿を見て、彼の考えは少しずつ変わっていった。
今では僕を研究者の同志の一人として信頼してくれている。
「それで?」
エドガルドが椅子に腰掛ける。
「何を知りたい?」
「魂についてです」
「魂?」
「はい」
僕はフィンについて簡単に説明した。
「身体はドワーフ。でも本人は自分をエルフだと認識している」
「興味深い。ちなみに歳はいくつだ?」
「15歳です」
それを聞いて、エドガルドの眉がぴくりと動いた。
僕は話を続ける。
「そこで、お聞きしたいのですが、この世界では、魂——あるいは心が、別の肉体に入れ替わるようなことはありますか?」
エドガルドは腕を組んだ。
「……稀だが、ある」
「やっぱり」
「転移魔法の事故。高位の呪術。禁忌指定された魂魄操術。それから、古代遺跡の魔導装置による事故などだな」
「魂が別の肉体に入ることはある、と」
「理論上はな」
エドガルドは続けた。
「ただし、基本的には『魂の形』が種族を決める」
「魂の形?」
「ああ」
彼は一冊の古い魔導書を取り出した。
「もちろん、魂と肉体の関係はそんな単純なものではない。だが、種族を決める根本的な要素の一つが魂であることは、魔法学ではほぼ定説だ」
「魂の形を調べる方法は?」
エドガルドは少し考えた。
「ある」
「本当ですか?」
「だが、私にはできん。神殿へ行け」
彼は僕を一瞥した。
「神官なら、魂魄鑑定ができる」
「魂魄鑑定……」
僕は考えた。
もしフィンの魂が、本当にエルフのものだったら、それは『種別違和』の理解に大きな意味を持つ。
逆に、魂がドワーフだったとしても、それはそれで重要な情報になる。
医学的な診断だけでは分からない、この世界だからこそ可能な検査がある。
「紹介してもらうことはできますか?」
「もちろん」
エドガルドは机の引き出しから紙を取り出した。
「私が紹介状を書こう」
「ありがとうございます」
「ただし、一つだけ言っておく」
彼は眼鏡越しに僕を見た。
「神代君」
「はい」
「魂が何であったとしても、それだけでその少年の苦しみの答えが出るとは限らんぞ」
エドガルドの目は鋭かった。
「君は精神医学を信じているのだろう?」
「はい」
「ならば、鑑定の結果だけで人を決めつけるな」
僕は少しだけ笑った。
「分かっています」
紹介状を受け取る。
「僕は神じゃない」
「その言葉、君は本当に好きだな」
「過信しないためです。それと、疑うため」
僕は笑った。そして、研究室を後にした。
次に向かう場所は——神殿。
フィンの『魂の形』をそこで明らかにする必要があった。
◇ ◇ ◇
2週間が経った。
「こんにちは」
「こんにちは、フィン君」
今日もフィンは、時間通りにクリニックへやってきた。
僕はカルテを開き、向かいの椅子に座ったフィンを見る。
初診の頃と比べると、明らかに顔色が良くなっている。
頬にも少し赤みが戻っている。
「じゃあ、いつものように確認していこうか」
「はい」
「食欲は?」
「あります」
「前より食べられる?」
「はい。最近は朝ご飯も食べれてます」
「眠れてる?」
「はい。夜もちゃんと眠れています」
「途中で目が覚めたりは?」
「前より減りました」
「学校は?」
「……まだ、あまり行けてません」
「そうか」
僕は頷きながら記録していく。
そして、最後に一番大切な質問をする。
「消えたいと思うことは?」
「……ありません」
「本当に?」
「はい」
迷いのない返事だった。
僕は、ふぅと小さく息を吐く。
良い経過だ。
抗うつ薬が奏功している。
少なくとも、抑うつ症状については改善が見られる。
食欲が戻った、眠れるようになった、活動性も少しずつ戻っている、希死念慮も消えている……もちろん目指すところは寛解を得る、だが。
さらに生体検査による確認でも、危険な副作用は認められない。
ここまでは順調だった。
だからこそ、僕は気づいていた。フィンの表情に、別の苦しみが浮かんでいることに。
「……フィン君」
「はい」
「最近、自分の身体についてはどう?」
フィンは黙った。
「……前より、つらいです」
僕は眉を寄せる。
「どうして?」
「前は……何もする気が起きなかったから」
「うん」
「ずっと寝ていたかったんです」
フィンは自分の手を見つめた。
「だから、自分の身体がドワーフだってことも……考えないようにできました。でも、最近は少し元気になってきて」
フィンは唇を噛む。
「そうすると……また、気になるんです」
その声は震えていた。
「鏡を見ると……ドワーフの僕がいる」
僕は黙って聞いた。
「食べられるようになったし、眠れるようにもなった。でも……その分、自分がエルフじゃないことが、はっきり分かるようになりました」
「……そうか」
「前より、苦しいです」
精神疾患の治療は難しい。
症状が改善すれば、すべてが良くなる……そんな単純な話ではない。
うつ状態が強いとき、人間の心はあらゆるものへの関心を失う。
喜びだけではない。怒りも、希望も、失望も……そして、自分が抱えている根本的な問題について考える力さえ失ってしまうことがある。
だから、抑うつが改善したことで、以前は覆い隠されていた問題がより鮮明になることもある。
うつ病には、いまだに解明されていない部分が多い。
ある仮説によれば、うつ病とは精神が過剰な負担から自分自身を守るための一種の防衛反応なのだという。
もちろん、うつ病は病気と考えるのが定説ではあるが、それだけですべてを説明できるわけではない。
精神疾患は一進一退の経過を辿るものだ。
まずは、抑うつ症状を改善することができた。一方で、種別違和は増悪した。
それならば、次は——
「フィン君」
「はい」
「一つ、提案がある」
「……何ですか?」
「神殿へ行ってみないか?」
「神殿……?」
「魂の形を調べてもらうんだ」
フィンが目を見開く。
「魂の……形?」
「この世界では、種族を決めるものとして魂の性質が重要だとされている」
僕は説明した。
「魔法学者の教授に話を聞いてきた。魂が別の身体に入れ替わるような現象は、極めて稀だけど存在するらしい。
だから、君の魂がエルフなのか、ドワーフなのか。それを調べてもらうのはどうかな?」
フィンは戸惑った顔をした。
隣にいるフェリシアも、黙って僕を見ている。
そして、フェリシアが小さな声で言った。
「先生……もし……」
それは僕にだけ聞こえる声量だった。
「もし、違ったら……」
僕はフェリシアを見た。
しかし、何も答えなかった。
やがてフィンが顔を上げる。
「……僕、神殿に行きます」
その声には、恐怖が混じっていた。それでも、強い覚悟があった。
「分かった」
僕は頷いた。
「じゃあ、3人で行こう」
◆
王都の中央神殿。
白い石で造られた巨大な建物だった。
高い尖塔の先には、淡い青色の魔石が浮かんでいる。
神殿の内部には、天井まで届く巨大なステンドグラスがあり、そこから差し込む光が床に七色の模様を描いていた。
この世界の神殿は、単なる礼拝所ではない。
魔法による治療、呪いの浄化、死者の弔い……そして、魂に関わる様々な儀式を担っている。
僕たちは受付で手続きをした。
「神代玲先生ですね」
「はい」
「ヴァレンシュタイン教授からの紹介状ですね」
神官は紹介状を確認すると、少し驚いた顔をした。
「それならば、こちらへ」
案内されたのは、神殿の奥にある小さな礼拝室だった。
そこで僕たちを待っていたのは、女性の神官だった。
白い祭服、銀色の髪、穏やかな青い瞳、年齢は40歳前後に見える。
「私は、セラフィーナ・アルヴェリア。この神殿で魂魄鑑定を担当しています」
「神代玲です」
「お名前は存じています」
「僕を?」
「ええ」
セラフィーナは微笑んだ。
「『呪いではなく病気を疑う医師がいる』と、こちらでも少し話題になっていますよ」
「……それは、少し恥ずかしいですね」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「私は、良いことだと思っています」
そしてフィンを見る。
「この少年が?」
「はい」
「では、始めましょう」
礼拝室の中央には、円形の台座があった。
その中心に、透明な水晶が浮かんでいる。
「この水晶は、《魂鏡晶》と呼ばれるものです」
セラフィーナが説明する。
「魂そのものを見ることはできません。しかし、魂が持つ魔力的な構造を、この水晶に投影することができます」
「それで種族が分かる?」
「はい」
フィンが台座の前に立つ。
「怖いですか?」
セラフィーナが優しく尋ねた。
「……少し」
「では、目を閉じていても構いません」
フィンは目を閉じた。
フェリシアは両手を胸の前で組んでいる。祈るような姿だった。
僕は何も言わず、フィンを見守った。
「では——」
セラフィーナが祈りの言葉を唱え始めた。
水晶が淡く輝く。
床に刻まれた魔法陣が、一つ、また一つと光っていく。祭服が静かに、規則正しく揺れている。
そして、水晶の内部に、何かが浮かび上がった。
セラフィーナの表情が変わる。
やがて、静かに口を開く。
「そなたの魂は——」
フィンが息を呑む。
「……ドワーフ」
セラフィーナは冷酷に告げた。
「……!!」
時間が止まったようだった。
「……そんな」
フィンの声が震える。
「そんな……」
次の瞬間、フィンはその場に崩れ落ちた。
「うっ……うぅ……」
「フィン君!」
フェリシアが駆け寄る。
震えるフィンの肩を抱き寄せる。
「大丈夫です。大丈夫ですから……」
「僕……僕は……」
涙が止まらない。
「エルフじゃ……ない……」
その言葉を聞いた瞬間、フェリシアの目にも涙が浮かんだ。
「先生!」
フェリシアが僕を見る。
「こんなの……あんまりです!」
僕は答えなかった。
ただ、フィンを見つめていた。
セラフィーナもどこか申し訳なさそうに、フィンを見つめていた。
泣き崩れている。
あれほど苦しんでいる。
——そのとき、僕の中で、何かが繋がった。
「…………そうか」
僕は呟いた。
「……そういうことだったのか」
フェリシアが振り返る。
「先生?」
「フィン君の障害が……」
最初に見落としていたもの、それに気づいたのだった。
「……分かった」
◆
3人はクリニックへ戻った。
フィンは少し落ち着きを取り戻しているように見えたが、ずっと俯いたままだった。
診察室に戻り、フィンを椅子に座らせ、フェリシアが隣に座る。
「先生」
フェリシアが口を開く。
「神殿で言っていたこと……『分かった』って……」
僕はカルテを開く。
そこには、当初の診断が記されている。
——種別違和。
「僕の薬理診断は、フィン君を『種別違和』と診断した」
「はい」
「恐らく間違いではない。でも、僕の診断は少し違う」
僕は一度、言葉を止めた。
「僕の診断は——」
静かに告げる。
「——『心因反応』」
「心因反応?」
フェリシアが聞き返す。
「聞いたことがありません」
この3年間、フェリシアは僕の診断を見てきた。様々な症例を見てきた。
だが、初めて聞く言葉——心因反応。
確かに、僕はこれまでそのような診断名を提示したことはなかった。
『心因反応』は、世界保健機関の疾病の分類「ICD-10/11」にも、精神障害の診断・統計マニュアル「DSM-5」にもその記載はない。
だが、主に精神の医師が、患者の病態を示す際に用いる言葉である。
僕はフィンを見た。
「心理的なストレスや葛藤が原因となって、精神的あるいは身体的な症状が現れる状態を、広く心因反応と呼ぶ」
フィンは黙って僕を見つめた。
「もちろん、これは『気のせい』という意味じゃない。心が受けた負担は、本物の苦痛になる」
僕ははっきりと言った。
「フィン君」
「……はい」
「君は、おかしくなんてない。君には、君がなりたい自分というものがある」
僕は続けた。
「心理学的アプローチにおいて、『理想自己』という考え方がある。誰だって、多かれ少なかれ『こういう自分になりたい』というイメージを持っている。
勇者になりたい人もいる。魔法使いになりたい人もいる。親のようになりたい人もいる」
人間は、現在の自分だけを生きているわけではない。
未来の自分、理想の自分、他者から見られている自分、様々な「自分」のイメージを持ちながら生きている。
「そして君の場合は、その『本来の自分でありたい』という本来感、オーセンティシティと呼ばれるものが『エルフ』だったんだ」
僕は一度、フィンの様子を見た。
「だから、君は身体と自分の理想像との食い違いに、強い苦痛を感じた。
でも、それは君がおかしいからじゃない」
フィンの目に、涙が浮かぶ。
「神殿の結果は、君の魂がドワーフであることを示した。
でも、それは君が『エルフだと感じてはいけない』という意味じゃない
そして、君が苦しんでいることを否定する理由にもならない」
僕は静かに核心に迫る。
「恐らく、君を苦しめている原因は、周囲の環境にある」
「……環境ですか?」
フェリシアが尋ねる。
「そう」
僕は頷いた。
「君の周りには、『ドワーフなのだからドワーフらしくしろ』という圧力があったんじゃないかな」
フィンの肩が小さく動いた。
「……あります」
「そうだよね」
「父さんも母さんも……悪い人じゃないです。でも、『ドワーフなら鍛冶を覚えろ』って。
僕がエルフの本を読んでいると、『そんなものを読んでどうする』って言われました」
フィンは俯く。
「僕がエルフになりたいと言うと……怒られました」
僕は黙って聞いた。
「『お前はドワーフだ』って」
フェリシアが唇を噛む。
「だから……」
フィンは涙を拭う。
「僕がおかしいんだと思いました」
「そうじゃない」
僕は即座に否定した。
「障害は必ずしも本人の中にあるとは限らない。フィン君の場合、僕は環境のほうに問題がある可能性が高いと思っている」
僕は静かに言った。
治療によって、家族を変えることはできない。根付いた価値観を変えることもできない。
必要なのは別のアプローチ——「環境を変える」ということ。
「フェリシア。君に頼みがある」
僕はフェリシアに切り出した。
「何でしょう?」
フェリシアが息を呑む。
「エルフの村の村長に会わせてほしい」
「私の、お祖父様に……?」
「そう」
僕は窓の外に目線を移す。夕暮れの王都、遠くに広がる森が見える。
その向こうに、エルフたちの暮らす村がある。
「フィン君が何者なのかを、僕たちが決めるんじゃない。でも、フィン君が自分らしく生きられる環境を作る手伝いはできる。エルフの村で、エルフらしく生きられるように頼んでみよう」
フェリシアはしばらく黙っていた。
やがて、力強く頷いた。
「……はい!」
そして僕は、フィンを見る。
「フィン君」
「……はい」
「君は、君の人生を選んでいい」
フィンは泣き腫らした目で僕を見た。
その瞳には、まだ不安がある。迷いもある。だが、わずかに今までとは違う光があった。
「さぁ……」
僕は白衣を羽織った。
「村長に、会いに行こうか」
フェリシアが頷く。
「はい、先生」
そしてフィンも、小さく頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇
——『診断』。
それは、医師にとって最も重要な医療行為の一つである。
正確な診断なくして、適切な治療はない。
僕は研修医の頃から、幾度となくそう教え込まれた。
患者の話を聞く、身体を診る、検査をする。
そうやって可能性を一つずつ絞っていく。
そして、診断する。
診断を誤れば、治療も誤る。
だから僕は、診断だけは絶対に疎かにしたくなかった。
今回、僕の薬理診断が最初に導き出した答えは——『種別違和』。
身体はドワーフ。
だが、本人はエルフだと認識している。
その乖離によって苦痛を感じている。
確かに、それは間違いではなかった。
そして、神殿で魂の形を調べた結果……フィンの魂は、ドワーフと判定された。
そして僕は、ようやく気づいた。
フィンが苦しんでいる原因は、「ドワーフの魂なのにエルフだと思っている」という単純な問題ではない。
「エルフになりたい」そう願う彼を、周囲が否定する。
その否定がストレスとなる。
自分がおかしいのではないかと思う。さらに苦しくなる。そしてまた、自分を否定する。
その悪循環が、フィンを追い詰めていた。
フィンの涙を見たとき、僕は思った。
あの涙は、不自然なものではなかった。病気だから泣いたのではない。苦しいから泣いた、純粋な流涙だった。
自分が望む自分になれない。そして、その気持ちすら周囲から否定される。
ならば、変えるべきなのはフィン自身ではない——環境の方だ。
エルフの村で彼を受け入れてもらう、それが彼にとって、環境的には一番いいはずだ。
◆
王都から馬車で丸一日。
深い森の中に、エルフの村はあった。
巨大な樹木の幹に沿うように家々が建てられている。
木の枝から枝へと吊り橋が伸び、風が吹くたびに淡い緑色の魔石が揺れていた。
夜になると、それらの魔石が月明かりを蓄え、村全体を柔らかく照らすらしい。
村の中央には、ひときわ大きな樹があった。
——《記憶樹》。
かつて亡くなった者たちの記憶を受け継ぐという、エルフにとって特別な樹だ。
「……すごい」
フィンが呟く。
その顔には、これまで見たことのない表情が浮かんでいた。
期待、緊張……そして、ほんの少しの喜び。
「ここが……エルフの村」
「はい」
フェリシアが答える。
「私の故郷です」
しかし、村の入口に近づいた途端、フェリシアの表情が硬くなった。
僕もそれに気づいていた。
村人たちの視線……フェリシア、玲、そしてフィン。三人を順番に見る。
特にフィンを見る視線には、戸惑いが混じっていた。
ドワーフ。
それは、この村では決して歓迎される存在ではない。
千年以上前の大樹災以来、エルフとドワーフの間には長い歴史的な確執があった。
そして——15年前、新たな傷が刻まれた。
僕は15年前の魔法事故の詳細を、事前に調べていた。
それは王立魔法学術院の管轄区域で発生した、大規模な魔法事故。
暴走した魔法陣の巻き添えになったのは、一人のエルフの男性と、臨月を迎えていた一人のドワーフの女性だった。
エルフの男性は死亡。ドワーフの女性は重傷を負ったものの、一命を取り留めた。
そして、ほどなくして一人の男児を出産した。
事故後、ある噂が広がった。
——学術院はドワーフの女性の救護を、意図的に優先したのではないか。
そんな根も葉もない噂だったが、事実確認が十分になされないまま、噂だけが独り歩きした。
王立魔法学術院は調査を行い、エルフ側に国家賠償を行った。
公式には、それによって解決したことになっているのだが——
失われた命は賠償で戻ってはこない。
エルフの中には、今でも事故を疑問視し、エルフが蔑ろにされたと訴える者がいる。
ドワーフの側にも、「自分たちが責められている」という感情が残っている。
15年、それだけの時間が過ぎても、そのわがたまりは色濃く残っていた。
「お祖父様に会わせてください」とフェリシアが言うと、3人は村の中央に案内された。
巨大な記憶樹の根元にある家だった。
「……久しぶりだな、フェリシア」
扉が開き、出てきたのは、一人の老いたエルフだった。
長い銀髪、鋭い目、年齢は150歳を超えているという。
彼こそ、フェリシアの祖父。
そして、この村の長だった。
村長は僕を鋭い目つきで見る。
「……神代玲か」
歓迎している様子はもちろんない。むしろ警戒している。
「お前は、フェリシアを連れ出した人間」
僕は黙っていた。客観的に見れば、確かにそうなのだろう。
「フェリシアを治療と称して、村の外へ連れて行った」
「お祖父様!」
フェリシアが口を挟む。
「今日は、その話をしに来たんじゃありません」
「では、何の用だ?」
僕はフィンを見る。
少年は緊張した面持ちで立っていた。
「この子を、エルフの村で受け入れてほしいんです」
村長の眉が動く。
「……ドワーフを?」
「はい」
「断る。ここはエルフの村だ」
とりつく島もない様子だった。
「エルフとドワーフの間に、15年前の事故があったことは知っているな?」
「はい」
「この村には、その事故で家族を失った者がいる」
村長の声が低くなる。
「ドワーフを受け入れることはできない」
「この子は事故とは関係ありません」
「分かっている」
村長はフィンを見る。
「それでも、受け入れることは簡単なことではない」
僕は黙った。
至極真っ当な見解だった。
環境を変えればいい。そう結論づけた。だが——
環境を変えるということは、そこにいる人間たちの感情も含めて考えなければならない。
容易なことではない。軋轢があるなら尚更だ。
「お祖父様」
フェリシアが前に出た。
「私は、この子を受け入れてほしいです。この子は身体はドワーフでも、心はエルフです。村の一員としてやっていけます」
「……フェリシア」
「必要なら私がエルフとしての作法を全部教えます。言葉も、礼儀も、森での暮らし方も。弓の使い方だって」
「お前が?」
「はい」
フェリシアは一歩も引かなかった。
「だから、お願いします」
村長は長い沈黙のあと、静かに口を開いた。
「……ならば、お前が村に戻ってくるなら考えてもいい」
「え?」
「お前が村に戻り、この少年の面倒を見るというのならな」
「それは……」
フェリシアが言葉を詰まらせる。
「私は、自分の意思で村を出ました。先生のクリニックで働くことを、自分で決めました」
僕はフェリシアを見た。
「フェリシア。もし君が村に戻りたいなら、僕は止めないよ。君の人生だからね」
フェリシアは少しだけ目を見開いた。
「でも……」と僕は続けた。
「君は患者の変化によく気付ける。できることなら、僕は君を手放したくない」
フェリシアは少し驚いてから、嬉しそうに笑った。
「先生、仕事のためですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
僕は少しばかりたじろいだ。
フェリシアはもう一度、きっぱりと言った。
「私は、村には戻りません」
村長は目を閉じた。
「……そうか」
しばらくして、諦めたように息を吐く。
「ならば、一つだけ条件がある」
「条件?」
「エルフだと言うのなら——」
村長は弓を手に取った。
「弓を引いてみろ」
連れてこられたのは村の外れにある訓練場。
弓のテストを実施するようだった。
村長が用意した的を見て、フェリシアが声を上げた。
「お祖父様! あれは……!」
その的は、あまりにも小さかった。通常の訓練で使う的の、半分以下。
熟練のエルフでも、簡単には射抜けない的だった。
「無茶です」
フェリシアが抗議する。
「こんなの、普通の試験じゃありません!」
村長は静かに言った。
「やらないと言うのなら、そのまま立ち去るがいい」
「……!」
フェリシアが言葉を失う。
明らかに不当な要求。常人には不可能といえる射的。それを課すということは、諦めさせるのが狙いであることは明白だった。
フィンは黙って的を見つめていた。
「フィン君、やらなくていい」
僕はフィンを諭した。
「これは試験として公平じゃない。ナンセンスだ。エルフかどうかを弓の腕で決めるなんて」
フィンはしばらく黙っていたが、静かに口を開いた。
「……やります」
「フィン君?」
「僕、やります」
静かな声だった。
フィンは弓を受け取る。
小柄な身体、細い腕……彼はドワーフだ。決して弓に向いている体格ではない。
だが、弓を構えたその瞬間——空気が変わった。
「……え?」
フェリシアが息を呑む。
弓を持つ手、足の位置、身体の向き、弦を引く指……すべてが自然で、それでいて美しい。完璧な所作。
まるで、ずっと昔から、その動作を知っているかのような——
フィンが狙いを定める。
その横顔を見た瞬間、村長の脳裏に、一人のエルフの青年の姿が蘇った。
15年前のあの日、魔法事故で命を落とした青年。
彼は誰よりも弓が上手かった。
森の中を風のように駆け、どんな遠距離の獲物でも必ず射抜いてみせた——村一番の弓の名手。
その横顔と、今、目の前にいる少年の横顔が完全に重なる。
「まさか」
村長が目を見開く。
フィンは静かに息を吐き、そして、目を閉じた。
的を見ていない。視覚など、頼るに値しないとでも言うように。
「……同じだ」
村長の顔から血の気が引く。
次の瞬間、フィンは弦から指を離した。
——ヒュンッ!
矢は一直線に飛んだ。
小さな的の、その中心。
寸分違わず、矢が突き刺さった。
それは「見事」と言う他ない、神業的な射撃だった。
——仮に、弓を真に極めた者がいたならば、その達人はきっとこう言っただろう。
『弓において、的の大小は問題ではない。なぜならば——必ずその中心を射抜けるのだから』と。
誰も言葉を発することができなかった。
ただ、奇跡を目の当たりにしたように、その場に立ち尽くしていた。
やがて村長が、ゆっくりと歩み寄り、的に刺さった矢を見る。そして、フィンを見る。
「君……」
その声は震えていた。
「弓を、誰に教わった?」
「……誰にも」
「そうか……」
何かを思い出すように、村長は目を伏せた。
「……神代玲。お前には——」
長い沈黙。
「フェリシアの命を救ってもらった借りがあったな」
村長は僕を見る。
「私は、お前を快く思っていなかった」
「はい。知っています」
「だが……」
村長はフィンを見る。
「私はエルフの誇りにかけて、約束は守る。恩義には報いる」
そして、静かに言った。
「この少年を、我々の村で受け入れよう」
フィンの目が大きく開く。
「……本当?」
「ああ」
村長は頷いた。
「エルフとして生きたいというのなら、学べばいい」
そしてフェリシアを見る。
「フェリシア。お前が教えてやれ」
「……はい!」
フェリシアが笑った。
その目には涙が浮かんでいた。
◆
次に向かったのは、フィンの故郷、ドワーフの里だった。
山の中腹に作られた巨大な集落。
岩壁には無数の炉が並び、赤い光が夜の里を照らしている。
鍛冶場からは、金属を叩く音が響く。
ドワーフたちにとって、鍛冶は単なる仕事ではない。
技術そのものを次の世代へ受け渡す、誇りある文化だ。
フィンの家は、その里の外れにあった。
扉を開けたのは、彼の母親だった。
「フィン……?」
母親の顔に驚きが浮かぶ。
その後ろから、父親も現れる。
頑固そうな顔、口数の少なそうな職人気質の男だった。
僕は事情を説明する。
「駄目だ。そんなところに息子を預けられるか」
話を聞いた父親が言った。
「今でもドワーフをよく思っていないエルフがいるんでしょう……?」
母親も不安そうに言った。
「ご不安はごもっともです。ですが——」
僕は続けた。
「フィン君は15歳です」
そして、両親を見る。
「もう、自分の人生を自分で決めてもいい年齢だと思います。それにフェリシアも、フィン君が困らないように助けます」
「もちろんです」
フェリシアが頷く。
長い沈黙の後、フィンの母親が、小さく口を開いた。
「……私ね。この子を産んだとき、大変だったの」
フィンが顔を上げる。
「15年前の魔法事故で、私は大怪我をしました」
——魔法事故の当事者。
僕は驚いた。
フィンの母親は、事故に遭った臨月のドワーフだった。
「お腹にはフィンがいましたが、私もこの子も危険な状態でした。搬送された病院の医者から言われたんです」
母親の声が震える。
「このまま出産すれば、私の命は助からないかもしれないって」
フェリシアが息を呑む。
「だから……子供を諦めろと言われました」
フィンの目には涙が浮かんでいた。
「でも」
母親は自分のお腹に手を当てた。
「私は絶対に、譲りませんでした。その医者に言ったんです。私の命なんてどうなってもいいから、この子だけは助けてくださいって」
フィンは母親をまっすぐに見つめていた。
「そして、あなたを産んだの」
母親は息子を見る。
「そこからの記憶はありません。私はしばらく生死の境を彷徨ったそうです」
語られる壮絶な過去。僕もフェリシアも、ただ聞き入るしかできなかった。
「でも、生き残った」
母親は笑った。
「目が覚めて、あなたの泣き声を聞いたとき、私は胸がいっぱいで、何も言えなかった。
ただ嬉しくて……ああ、この子も無事に生まれてきてくれたんだって」
母親は神に祈るように、静かに手を組んだ。
フェリシアは口元を押さえ、涙を流していた。
15年前、エルフとドワーフの間に新たな傷が刻まれた事故。その事故の中で、一人の母親は、自分の命と引き換えにしてでも、生まれてくる子供を守ろうとした。
そして、その子供は今ここにいる。
15歳になって、自分の人生を自分で選ぼうとしている。
フィンが母親を見る。
「母さん。僕を産んでくれて、ありがとう」
母親の目から、涙が溢れた。
「フィン……」
「この前、僕、神殿に行って魂の形を調べてもらったんだ」
フィンは笑った。
「そうしたら……やっぱり僕はドワーフだった」
父親も黙って息子を見る。
「僕は、ずっと父さんと母さんの子供です。だって僕はドワーフだから」
その言葉に、母親が口元を覆う。
「父さんと母さんの子供に生まれて、本当によかった」
「……フィン」
母親が泣きながら息子を抱きしめた。フィンも母親を抱きしめる。
父親は、そんな二人を黙って見ていた。
頑固で、不器用で、これまで息子に「ドワーフらしくあれ」と言い続けてきた男。
だが、目の前にいるのは、もう幼い子供ではない。
自分の人生を、自分の意思で決めた一人の男だった。
父親はしばらく黙っていたが「お前の好きにしろ」とだけ言った。
僕は、その光景を黙って見ていた。
親が子供を導こうとするのは、幸せになってほしいからだ。
親は子供の幸せだけを切に願っている。そういうものだ。
多くを望むこともある。意見が対立することもある。
でも、本当は——
偉くなくてもいい、立派にならなくてもいい、ただ、生きていてくれたら——それでいい。
それだけを思っているのかもしれない。
◆
数日後。
フィンは、エルフの村へ向かうことになった。
ドワーフの里で生まれ、ドワーフとして育ったフィン。
その彼がこれからは、エルフとして生きる。
村人たちが彼をすぐに受け入れられるとは限らない。
15年前の事故が残した傷も、そう簡単には消えない。
それでも、フィンは自分で選んだ道を歩き始めた。
「フィン君!」
フェリシアが手を振る。
「こっちですよ!」
「はい!」
フィンが笑う。
その後ろ姿を見ながら、僕は思った。
種族とは何なのだろう。
身体なのか、魂なのか、思想なのか、あるいはもっと別の何かなのだろうか。
答えは、まだ分からない。
自分自身もこの世界では余所者なのだ。
しかし、少なくとも一つだけ、分かったことがあった。
フィンはもう、自分が何者なのかを一人で苦しみながら探す必要はない。
彼には、帰る場所がある。
そして、新しく歩いていく場所もある。
それだけで——人は少しだけ、前を向けるのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
2ヶ月後。
僕は、王都の魔法研究所を訪れていた。
研究所の奥。
魔導書や古代魔法の研究資料が所狭しと並ぶ部屋で、僕は一人の老人と向かい合っている。
「15年前の魔法事故について、伺いたいことがあります」
僕がそう切り出すと、老人は机の上の書類から顔を上げた。
「魔法事故は王立魔法学術院の管轄内で起きました。そして……教授もその当時は学術院の所属でしたね?」
「うむ」
短い返事だった。
彼の名前は、エドガルド・ヴァレンシュタイン。
以前、魂について僕にアドバイスをしてくれた魔法学者だ。
僕は机の上に資料を置いた。
「被害に遭ったのは、エルフの男性とドワーフの女性」
「ああ」
「エルフは死亡。ドワーフは一命を取り留めた」
「その通りだ」
「そして、巷ではいまだに、事故時のトリアージ(傷病者の優先順位)を疑問視する声が根強い」
「……そのようだな」
エドガルドは、窓の外へ視線を向けた。
15年前の大規模な魔力暴走事故。
その後、エルフ側には国家賠償が行われ、公式には、それで決着している。
だが、僕には引っかかっていることがあった。
「ここからは、僕の推測です」
「聞こう」
「事故のとき、二人はどちらも瀕死だった」
エドガルドは黙っている。
「そして、その切迫した状況下で、蘇生が可能なのは時間的に一人だけだった。状況的には、エルフの男性を救うこともできた」
僕は一度、息を吐いた。
「命に優劣はつけられない。でも、ドワーフの女性は子供を宿していた。もしかしたら、エルフの男性の方が助かる見込みが少なかったのかもしれない。あるいは、エルフの男性が、ドワーフの女性を救うように求めたのかもしれない。……いずれにしても、救護は政治的な判断より、現場の判断に委ねられた」
エドガルドは何も言わない。
「結果的に、蘇生が成功したのはドワーフの女性だった。でも、それではエルフ側に説明ができない。
事故で命を落としたエルフは、将来を有望視されていた弓の名手でしたから」
僕は続けた。
「そこで——エルフの魂を、ドワーフの子供に宿したのではないですか?」
部屋が静まり返った。
時計の針が進む音だけが聞こえる。
エドガルドは、長い間黙っていた。
「君の言葉を借りるなら……」
小さく息を吐く。
「私も神ではない。そこまでは、わからんよ」
否定も肯定もしない。
ただ、それだけだった。
僕は別の疑問を口にする。
「教授が書いた紹介状」
「うむ」
「あれは古代の魔導語で書かれていましたので、僕には読むことができませんでした」
「そうだったな」
「あれには、何と書いてあったんですか?」
「ふぅん……」
エドガルドは顎に手を当てた。
「最近、忘れっぽくてな……歳には勝てんよ」
明らかにとぼけている。
僕は苦笑した。
だが、ここで引くつもりもなかった。
「神官は、紹介状を読んだとき、わずかに動揺していました。もしかしたら——」
僕はエドガルドを見据えた。
「魂の鑑定結果を『ドワーフ』と言うように、指示していたのではないですか?」
今度は、エドガルドが僕を見た。
「なぜ、そう思う?」
「フィン君は、エルフの生まれ変わりではないかと思うからです」
身体はドワーフ。
魂の鑑定結果もドワーフ。
それなのに、彼は幼い頃から、自分はエルフだと感じていた。
さらに、あの弓の腕。
誰にも教わっていないというのに、まるで身体が覚えているかのような美しい構え。圧倒的な技術。
そして、その横顔に、村長は15年前に命を落としたエルフの青年の姿を重ねた。
「説明がつきません」
僕は続けた。
「でも、もしフィン君が本当にそのエルフの生まれ変わりだったとしたら、王立魔法学術院が禁忌とされる魂魄操術を行ったことになります。
さすがにそれは公にはできない」
エドガルドは、しばらく僕を見つめていた。
「……神に仕えるセラフィーナが、鑑定結果を偽ると思うかね?」
「いいえ」
僕は首を横に振った。
「だから、僕は別の可能性を考えています」
「ほう」
「フィン君は、エルフとドワーフ。その両方の魂の形を持っていたのではないですか?」
エドガルドの目がわずかに細くなる。
「……仮説の域を出んな」
「そうですね」
それ以上、エドガルドは何も認めなかった。
もとより僕はエドガルドを責めるつもりはなかった。真相を暴くために、ここへ来たわけではない。
僕が知りたかったのは——
あの日の医者としての判断が、フィンにとって、この世界にとって、正しいものであったのか。
それだけだった。
「僕は最初、診断の方向性を誤りました」
エドガルドは黙って聞いている。
「フィン君の魂がもしエルフだと鑑定されていたら、彼は喜んだでしょう」
「……だろうな」
「でも同時に、心と身体の不一致に、さらに苦しんだと思います」
僕自身、鑑定前からそう考えていた。
もし魂がエルフなら——
きっと、身体的な治療という方向を考えただろう。
どうすれば、フィンの身体を彼の望むものへ近づけられるか。
どうすれば「本来の自分」と身体の乖離を減らせるか。
そんなことばかり考えていたかもしれない。
「僕もきっと。環境を変えるという考えには、おそらく至らなかった。あのとき、魂の形がドワーフだという鑑定結果だったからこそ——」
それは僕の、医者としての確信だった。
「僕は、診断を見直すことができたんです」
「なるほど」
エドガルドは静かに頷いた。
「分からないものだな」
真実を知ることが、必ずしも患者を救うとは限らない。
逆に、分からないことが残っていたからこそ、見つけられる答えもある。
「フィン君は、ドワーフです。少なくとも、神殿の鑑定では……」
「うむ」
「でも、彼はエルフとして生きる道を選びました」
エドガルドは微笑んだ。
「それもまた、彼自身の選択か」
「そうです」
僕は立ち上がった。
「もしかしたら、彼なら——」
最後に、僕は言った。これだけは伝えておきたかった。
「ドワーフとエルフを繋ぐ存在になれるかもしれません」
エドガルドは窓の外を見る。
遠くに、王都の街並みが広がっている。
「もしそうなら」
やがて、静かに言った。
「私は最高学府の教授として、心からの敬意を、その彼に表するよ」
◆
診療所へ戻ると「先生、おかえりなさい!」とフェリシアが笑顔で出迎えてくれた。
「ただいま」
「お茶、淹れましょうか?」
「お願い」
「あ、それと」
フェリシアが思い出したように手紙を差し出した。
「フィン君から手紙が届いてます」
「フィン君から?」
手紙を受け取る。
僕は椅子に座り、少し不器用な字が並ぶその手紙に目を通した。
——玲先生へ。
僕はエルフの村での生活にも、少しずつ慣れてきました。
最初は、みんな少しよそよそしかったです。
やっぱりドワーフだからかな、と少し落ち込みました。
でも、すぐに変わりました。
この前、弓を見せたら、みんな驚いていました。
「どうやってそんなに上手くなったんだ?」と聞かれました。でも僕にもよく分かりません。
だから正直に、「分かりません」と答えました。今では、村の子供たちから「僕にも教えて欲しい!」と言われます。
少し困っています。
僕だって、誰かに教えてもらったわけじゃないので。でも、楽しいです。
フェリシアさんにも、エルフの作法をたくさん教えてもらっています。
全部覚えるのは大変ですが、フェリシアさんが根気強く教えてくれるので、頑張れています。
フェリシアさん、ありがとうございます。
それから、この前、15年前の魔法事故で息子さんを亡くしたというエルフのご夫婦に会いました。
僕はドワーフですが、その人たちは嫌な顔をしませんでした。
それどころか「あなたは、あの子に少し似ているね」と言われました。
その人たちは、僕を本当の息子のように受け入れてくれました。嬉しかったです。
僕は、自分が何者なのか、まだよく分かりません。
ドワーフなのか、エルフなのか。
でも、今はそれでいいと思っています。
僕は僕ですから。
これから、もっといろんなことを学んでいきたいです。
そして、いつか、ドワーフとエルフが手を繋いで仲良くできるような日が来たらいいなと思います。
最後に、玲先生。
本当にありがとうございました。
フィン
僕は手紙を読み終え、しばらく、何も言えなかった。
「先生」
フェリシアが笑っている。
「よかったですね」
「……そうだね」
——種別違和。
はじまりは一つの診断からだった。
そして、その診断を修正し、患者と一緒に答えを探した。
精神医学において、患者の苦しみを病名だけで説明できないことも多い。
一方で、病名の獲得によって、救われる患者もいる。
薬が効くこともあるし、効かないこともある。環境を変えることで改善することもある。誰かとの出会いによって救われることもある。
異世界にも、様々な精神疾患が蔓延っている。
不眠症、適応障害、パニック障害、PTSD、解離性障害、統合失調症、双極性障害……そして、うつ病。
数え切れないほどの患者が、今日もどこかで苦しんでいる。
僕には《薬理魔法》がある。
薬の効果を再現できる。
この力があれば、多くの患者を救うことができるだろう。
だが——
僕は神じゃない。
すべてを治せるわけじゃない。
病気を消し去ることができないこともある。患者の人生を、代わりに決めることもできない。
それでも、患者と一緒に悩むことはできる。
分からないことを、分からないまま一緒に考えることもできる。
それが、僕のやり方だ。
「先生。次の患者さん、お見えになりました」
僕は白衣の襟を整えて、机の上にカルテを広げた。
そして、僕はフィンの手紙を丁寧に折りたたむと、机の引き出しにそっとしまった。
「——お大事に。フィン君」
それから、僕は次の患者を微笑んで迎えた。




