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怪談: 狐の燈火(きつねのともしび)

作者: 沢 一人

 山肌を撫でる夜風が、ふと止む瞬間がある。

 そんな折、誰もいないはずの稜線に、テッテッと小刻みに跳ねる紅いともしびを見たことはないだろうか。

 古来、我々日本人はそれを「狐火」あるいは「狐の嫁入り」と呼び、異界からの訪れとして畏れてきた。

国際日本文化研究センターの怪異伝承データベースを紐解けば、そこには日本各地で目撃された「火の列」の記録が、執拗なまでに積み上げられている。

 「遠くに火が見えるとき、狐はすぐ近くにいる」

 「美しい行列に見惚れていると、いつの間にか魂を抜かれる」

 これらは単なる迷信か、あるいは先人が遺した切実な警告か。

 本作は、そんな古き伝承が色濃く残る山間の村を舞台に、一人の青年がカメラという現代の眼を通して、決して覗いてはならぬ「祝言」の深淵に触れてしまう物語である。

 もし貴方が、この物語を読み終えた後、耳元で微かな鳴き声を聞いたなら。

 どうか、その時は教えの通り、親指を隠して拳を固く握りしめていただきたい。

 

 さあ、雨降る夜の、美しくも禍々しい灯火の列へ――。



祖父の葬儀が終わったその晩、村は嫌な雨に濡れていた。


 しとしとと降る霧雨が、古い木造家屋の匂いを引き出し、闇をより重く、粘り気のあるものに変えている。


 寿市は縁側に座り、祖父がよく話してくれた「オトウカ」の話を思い出していた。


「いいか寿市。狐火の遠きは近きなり、だ。

灯りが向こうの山に見えるときは、もうお前の足元に狐が来ていると思え。綺麗な火に目を奪われちゃあいけねえ。あれは魂を招く導標しるべなんだからな」


 子供心に怖かったその言葉が、今の湿った空気の中で妙に真実味を帯びて蘇ってくる。


 ふと、向かいの稜線に目が止まった。


 ――ポッ。


 紅い灯りが一つ、点いた。


 瞬く間に、それは五つ、十、二十と増え、稜線に沿って整然とした列を作った。


 


しき火なり。道なき崖を、提灯行列のごとく静かに、されど速やかに走りゆく。テッテッと点滅てんめつし、パッと消えては別の位置にパッとつく。其の拍動はくどう、正に此の世の律動にあらず。




 「……本当に、あるんだ」


 寿市は吸い寄せられるように外へ出た。


一眼レフを掴み、雨も厭わずに山道へ足を踏み入れる。


美しかった。


闇を走る火の連なりは、この世のどんな祭りの灯明よりも澄んでいた。


 その時だ。


 「――コーン、コン」


 どこからか、奇妙な声が聞こえてきた。


 獣じゃない。


人の喉を無理やり細めたような、湿った、それでいて鋭い響き。


声は風に乗って、瞬く間に寿市のすぐそばまで近づいてきた。


 闇の向こうから現れたのは、和服を着た男女の群れだった。


 老人、若い女、子供……。


 皆、一様に顔を白く塗りつぶし、目尻に紅を引いた「狐化粧」をしている。


 彼らは一歩進むごとに、両の拳を固く握りしめ、それを祈るように、あるいは見せつけるように顔の前へと掲げる。

そして、虚ろな目を見開いたまま、口々に鳴くのだ。


 「コーン、コン。コーン、コン」


 寿市は立ちすくんだ。


列の最後尾に、一際白い影が見えた。


 


は、純白の白無垢しろむくを身にまとえる花嫁なり。角隠つのかくしの下、陶器の如く白きかんばせに、無機質なる笑みをたたえて、音もなく通り過ぎゆく。




 花嫁の姿に目を奪われた瞬間、頭がぐにゃりと歪んだ。


 気がつくと、寿市は泥の中に膝をついていた。


 冷たい土が口の中に入ってくる。


でも、不思議と不快じゃない。


むしろ、もっと、もっと奥へ行かなければならないという強烈な飢えに突き動かされていた。


 「コーン、コン……!」


 自分の喉から、あの声が漏れる。


寿市は背を丸め、四足の獣のように泥濘を這い回った。


落ちている栗のイガを拾い上げ、血が出るのも構わず咀嚼する。

 

甘い。甘い気がする。


 遠くで、誰かが「あはは」と笑う声がした。


 ……翌朝、寿市を見つけた村人たちの顔は、

一様に青ざめていた。


 田んぼのど真ん中で泥まみれになり、血の混じった泥を吐き出している彼を、彼らは腫れ物に触るようにして家まで運び込んだ。


 風呂に入れられ、ようやく人心地がついたとき、寿市は枕元に置かれたカメラを手にとった。


昨夜、あの行列を撮ったはずだ。


 液晶画面を確認する。


一枚目、真っ暗。二枚目、真っ暗。


 だが、三枚目を見た瞬間、彼はカメラを畳に叩きつけていた。




漆黒の闇に浮かぶは、火にあらず。二つずつついを成し、同心円を描きて寿市を囲む、幾百、幾千の「紅きまなこ」なり。




 そして、画面の端には、ピントの合っていない白い布――白無垢のそでが映り込んでいた。


 あの花嫁は、寿市の横を通り過ぎたんじゃない。


 カメラを構えている間、ずっと背後に密着して、肩越しにレンズを覗き込んでいたのだ。


 ガタガタと震える寿市の耳元で、風もないのに、ふっと声がした。


 「――コン」


 窓の外、昼下がりの明るい山裾に、ポッと、

一つだけ紅い火が灯り、寿市を招くようにして消えた。


その直後だった。


背後で、パチパチと爆ぜる囲炉裏の音に混じり、衣擦れとも、骨が軋む音ともつかぬ音が響いた。


「……あんた、見てしもうたんだな」


 振り返ると、いつの間にか部屋の隅に一人の老人が座っていた。


村外れの廃寺に住み着き、忌み事を一手に引き受けているという、通り名を骸斎むくろじという男だった。




 は名にあらず。ししの落ちたむくろの如き面容に、死の香を纏える者として、村人が遠巻きにする呪標しるべなり。




 骸斎は、落ちたカメラを拾い上げ、液晶を凝視して湿った溜息を吐いた。


「ありゃあ、ただの狐の嫁入りじゃあねえ。

村じゃあ『お離し様のとも』と呼んどる。

……一度ひとたび魅入られれば、魂の緒は既に半分、向こう側へ手渡したも同然よ」


 骸斎は、己の乾いた拳を寿市の目前へ突き出した。


「行列の連中が拳を握りしめとったのはな、自分の魂が狐に引き抜かれんよう、掌の中に封じ込めておる形なんだよ。

親指を中に隠し、強く握る。そうせにゃ、行列の最中に魂を喰われちまう。

そしてあの鳴き真似は、自分は人間ではない、狐の身内だと嘘をついて、狐の目を欺くための呪文だ。

だが、あんたは拳も握らず、呪文も唱えず、ただ人間のままあの行列を覗き込んじまった」


 骸斎の眼窩の奥で、濁った瞳が怪しく光った。


「あの花嫁はな、自分たちの代わりに山へ連れて行く『代わりの肉』を探しとる。

寿市さん、あんたのカメラに映った白い袖、ありゃあ、花嫁が『お前だ』と指した合図だ」




「お離し様、一度ひとたび目を付けし者をば、決してはなしたまわず。は影に潜み、足元にい、魂のほころびを今や遅しと待ち構うるなり」






 骸斎は、寿市の震える手首を、冷え切った指で強く掴んだ。


「これからは、寝る時も、歩く時も、決して拳を解いちゃあいけねえ。……さもなきゃ、次の雨の晩、あんたがあの行列の最後尾を歩くことになる」


 寿市は教えられた通りに、掌を強く握りしめた。


 だが、その瞬間に魂の入れ替えは終わっていたのだ。


掌に残っていた熱は、寿市自身の人間としての最期の体温であり、それを握りつぶし、窒息させたのは、他ならぬ自分自身だった。


 寿市の右手は、もはや人のそれではない。


指は長く伸び、皮膚の下で骨が鋭く突き出し、産毛は硬い針のような毛へと変じていた。


「――お迎えに、上がり申した」


 背後で、湿った声がした。


 振り返ると、そこには狐化粧を施した群れが、隙間なく部屋を埋め尽くしていた。


 彼らは一様に、顔の前で固く拳を握り、寿市を取り囲んでいる。


 「コーン、コン。コーン、コン」


 祝詞のりとのような唱え言の中、白無垢の花嫁が歩み寄り、一着の漆黒の紋付袴もんつきはかまを取り出した。


寿市の意識は遠のき、肉体は自らの意志とは無関係に、その黒き衣に袖を通した。


 


祝言しゅうげんの火なり。人としての命を捨て、異形いぎょうの列のあるじとなる。黒き紋付をまとえるは、今や狐の花婿なり。






 行列は縁側から闇へと滑り出した。


そして寿市は最後尾に続いた。


 小雨の中、寿市が足を踏み出すごとに、その足元からパッと紅い火が灯る。


 テッテッと、リズミカルに山裾を走り抜ける灯火。


 寿市の隣には、白無垢の花嫁。


 寿市は、稜線の上から眠る村を見下ろし、冷酷なまでの愉悦を感じていた。


 


 ――次は、誰をいざなおうか。


 寿市が顔の前で、獣の爪を隠した拳を固く握りしめた瞬間、二十あまりの狐火は一斉にパッと消え去った。


 


 後に残ったのは、激しく降り始めた雨の音と、泥の中に深く刻まれた、二人分の、並んだ獣の足跡だけだった。


「狐火の列、今宵こよいも山を走る。花婿、花嫁、列を成し、次にうは、なれかも知れず。あな恐ろし、あな恐ろし。」


          (完)


   















 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 本作を執筆するにあたり、指針としたのは「国際日本文化研究センター」に蓄積された膨大な怪異伝承の断片でした。かつて日本中のあちこちで、あるいは終戦直後の混乱期まで、私たちは確かに狐の火を視ていました。

資料が語る「一列に並んで点滅する火」「近くに潜む狐」という描写は、科学で説明がつく自然現象というより、当時の人々が肌身で感じていた「異界との距離」そのものであったように思えてなりません。

 物語の中に登場した「拳を握る」という動作や「狐の鳴き真似」は、古くから伝わる魔除けの作法を、より禍々しい「呪い」として再解釈したものです。現代を生きる私たちは、カメラのレンズ越しに世界を切り取り、分かったつもりでいます。

しかし、そのレンズの背後――つまり、撮影者自身のすぐ隣に「何か」が立っていたとしても、私たちはそれを視る術を持ちません。

 もし、本作を読み終えた貴方の視界の端に、ふっと紅い火が灯ったなら。

 あるいは、心当たりのない雨音が聞こえてきたなら。

 どうか、今しばらくはご自身の拳を解かぬよう、お気をつけて。

 文明の灯りのすぐ外側には、今も「寿市」たちが、誰かを誘うための提灯を掲げて待っているのですから。






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