真実の愛とは何でしょう
王立アカデミーの大講堂は、朝の光を静かに受け止めていた。
白大理石の床には柔らかな輝きが広がり、天井から吊られたシャンデリアの光が、ゆるやかに空気を揺らしている。
祝儀のために集められた人々の気配はまだまばらで、その広さと静けさが、これから始まる儀式の重みを際立たせていた。
──今日、この場所で、ひとつの結び目が作られる。
卒業式と同時に、王太子フランツ・ノイシュヴァンと、ストリアーテ公爵家の令嬢レティア・ストリアーテが正式に婚約を交わす。
幼少の頃から、王家と公爵家との間で決められていた政略婚。
とはいえ、国家の安定を支える大きな意味を持つ縁組であり、今日の式典はその象徴でもある。
──そのはず、だった。
レティアは、講堂の中央に設えられた白い階段のそばで静かに立っていた。
緊張はしていない。
ただ、これまで歩んできた日々が終わり、新しい未来が始まるという静かな覚悟を抱いていた。
父であるストリアーテ公爵は、列席者席で微かな笑みを浮かべている。
周囲の貴族たちからも、期待と祝福がこもった視線が向けられていた。
──祝福されるはずの場。
それが、このあとどれほど冷たい沈黙に塗りつぶされるのか、このときのレティアはまだ知らなかった。
***
大講堂の裏手で、フランツ・ノイシュヴァンは、自分の胸の内を整えようとしていた。
隣には、金色の髪を揺らす少女──リリィが立つ。
「フランツさま……今日、本当に……?」
「ああ。今日でなくてはならないんだ」
彼の瞳には、使命感ではなく、不自由を嫌う子供のような焦りが宿っていた。
フランツは──いつからか政略婚が嫌だった。
国のために結婚相手を選ぶ?
家を支えるために愛を捧げる?
そんなものは窮屈で、冷たく、息苦しい。
彼はそれを“間違い”と決めつけていた。
けれど、自分が王太子として何を負わねばならないのか。
自分の選択が国にどう影響するのか。
そういった責任は、彼の心から常にするすると逃げていった。
ただ自由でいたかった。
ただ、自分の心のままに生きたかった。
だから──
(今日、彼女との正式な婚約が結ばれてしまえば、もう後戻りはできない)
その前に、この婚約を無かったことにする必要があった。
レティア・ストリアーテは聡明で冷静な令嬢だ。
彼女は感情より理性を優先し、礼儀ある態度で王家を立てる。
多少のことで動揺したり、取り乱したりすることはない。
逆に言えば──空気を読み、その場での反撃は、ない。
フランツは、今日の計画に“都合の良い令嬢”を必要としていた。
そして、彼は迷いなくその候補としてリリィを選んだ。
(リリィなら、俺の言葉を疑わない。彼女が泣けば皆が味方する。
今日、利用するには都合がいい……)
そして婚約破棄さえ成立すれば、──邪魔になれば切り捨てればいい。
少し前から、何人かの令嬢と甘い時間を過ごしてきたが、誰を選ぶつもりもなかった。
その程度の計算だった。
「真実の愛を選ぶのだ。私は、自分の心に正直に生きるべきなのだ」
フランツは自分の言葉を、さも正義であるかのように信じていた。
それが、どれほど浅く、残酷な自己正当化であるか気づかずに。
***
卒業式の最中、フランツは壇上に立った。
レティアのすぐ前。
白大理石の階段の上、光を浴びた場所で。
そして──言った。
「……すまない、レティア。私は真実の愛に気付いたのだ……」
一瞬、時が止まったような静寂が訪れる。
「両家の婚約の約定は、本日をもって白紙とする。」
大講堂が揺れた。
扇子が止まり、誰かが息を呑み、父公爵の表情が崩れ落ちた。
──今日、この場で?
正式婚約の儀式の、その直前に?
レティアの胸が、きゅ、と痛む。
覚悟はしていたはずだった。
だが、今日という日を選んだこと。
皆の前で、わざわざこうして言ったこと。
その冷たさに、静かな痛みが落ちる。
「フランツ様、どういう……」
自分の声が、驚くほど落ち着いていることに気づきながら、レティアは問いかけた。
答えたのは、隣の少女。
「ごめんなさいお姉さまっ! フランツさまを責めないで……!」
リリィの声は涙で震えていた。
だが、その瞳に浮かぶ光は──罪悪感ではない。
"選ばれた" 喜びだった。
「わ、私……フランツさまとの真実の愛に気づいてしまったの……!」
講堂がざわりと揺れた。
レティアの胸の奥で、何かが静かに崩れる。
(……真実の、愛?)
その言葉は、幼い頃にフランツが笑顔を向けてくれた思い出とは程遠い、
あまりにも軽い響きだった。
「そう……あなたは、リリィを選ばれるのですね」
レティアは静かに言った。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ──深い、静寂の色を宿した声だった。
「すまない」
フランツは眉を寄せ、視線を伏せた。
その姿が、かつて好ましいと思った少年の面影を持っていることが、
レティアには皮肉に感じられた。
ほんの少しだけ、胸が痛んだ。
(……この方は、あの頃から何も変わらなかったのかもしれない)
婚約を拒むために、今日という日を選んだこと。
その残酷さに、レティアは静かに悟る。
「……承知いたしました」
「お姉さま……! ありがとう!」
リリィが嬉しそうに涙を流す。
その顔を見ながら、レティアは静かに目を伏せた。
(リリィ……あなたは、殿下の言葉を信じてしまったのね)
浅い恋。
幼い心。
優しい言葉ひとつで揺らぐ脆さ。
その全てが、レティアには痛々しく見えた。
「……最後に、一つだけお伺いしても?」
静かな声が、講堂に落ちる。
巨大な空間は、再び息を潜めた。
「真実の愛とは──何でしょうか?」
光の粒が、動きを止めたかのように見えた。
***
レティアの問いかけが落ちた瞬間、大講堂はまるで時間そのものを止めたかのように静まり返った。
光は差しているのに、冷たさだけが広がる。
さざめいていた貴族たちの扇子の羽音も止まり、誰もが次の言葉を待っていた。
「……真実の、愛……」
フランツは、先ほどまでの自信に満ちた表情をわずかに崩し、ぎこちなく答えようとした。
「君にはわからないかもしれない……政略ではなく、互いの心が惹かれ合う──」
「政略であっても、心が通うことはございますわ」
レティアの声は、凪いだ湖面のように静かだった。
フランツは、その静けさに一瞬気圧される。
「……お姉さま!そ、それは……」
「リリィには聞いておりません。少し黙りなさい」
「……っ」
妹をたしなめる声は柔らかい。
しかし、その柔らかさがかえって容赦なくリリィの胸を刺した。
リリィは両手で胸元を押さえ、震える声で呟く。
(お姉さま……どうしてそんな顔で……?
私は……私はただ、殿下と……)
彼女の涙は、恋の痛みよりも、
"姉に叱責されたこと" への幼い動揺のほうが強かった。
レティアは視線を戻し、フランツをまっすぐに見据えた。
「殿下。先日も諫言申し上げましたわ。
──真実の愛など、軽々しく口にするものではない、と」
フランツは口を開きかけ、閉じた。
反論が浮かばない。
その時だった。
「──でしたら、わたくしからも一つ、お伺いしてもよろしいかしら?」
清らかで、しかし凛とした声が講堂の扉のほうから響いた。
視線が一斉に向く。
ローザンヌ・アムレード侯爵令嬢。
燃えるような赤い髪を揺らし、毅然とした姿で講堂へ歩み入る。
その後ろには、茶髪を優雅にまとめたマリー・オルヴァ伯爵令嬢、
控えめな装いのソフィア・シグルズ男爵令嬢が続いていた。
フランツの顔色がみるみるうちに蒼白になった。
「ど、どうして……?」
「レティア様に、お話ししたいことがございましたので」
ローザンヌは扇子を閉じ、軽やかに笑った。
その笑みに情念はないが、冷たい光が宿っている。
「フランツ殿下」
ローザンヌが一歩前へ進む。
「あなたはわたくしに“真実の愛を信じてほしい”と仰いましたね」
「ローザンヌ……違う、あれは……!」
「わたくしにも」
マリーが続く。
「“身分よりも心で選びたい、マリー。君は特別だ”と」
「……わ、わたしも……」
ソフィアは震える指先で胸元のペンダントを握った。
「“ソフィアだけは誰より大切に思っている”と……」
会場がどよめきに包まれた。
「なっ……!」
「三人に “同じような” 台詞……?」
「しかも同じペンダントを……?」
三人は、まるで打ち合わせていたかのように胸元を見せる。
──青い宝石のハート型ペンダント。
中央の石の色、銀の縁の彫り、チェーンの長さまで、
どれも完全に一致している。
講堂の空気が嘲りに近いざわつきで満ちていった。
「あら……?
殿下が“真実の愛”を捧げたお相手は、一人ではなかったようですわね」
ローザンヌの言葉に、リリィの顔から血の気が引いた。
「そ、そんな……フランツさま……うそ……?」
リリィの頭の中は混乱していた。
(だって……だってフランツさまは……
わたしに“特別”だって……!
それは、わたしだけの……!)
しかし、三人の令嬢の胸元で同じ宝石が光っている。
それは、彼女の“真実の愛”という幻想を容赦なく砕いた。
フランツは必死の形相で弁明しようとする。
「これは、その……違う! 誤解だ! これは……!」
「殿下」
レティアが、静かに口を開いた。
穏やかだが、声の芯に鋼のような硬さがあった。
「“昨日”はローザンヌ・アムレード侯爵令嬢と庭園を。
一昨日はマリー・オルヴァ伯爵令嬢と温室を。
その前はソフィア・シグルズ男爵令嬢と小川のほとりを──」
講堂が再びざわめいた。
誰よりも驚愕しているのは、リリィだった。
「フランツさま……本当に……本当にそんな……?」
「ち、違う! これはその……!」
フランツは言葉を探すように口を開閉し──
ついに、何も発せなくなった。
──空白。
その沈黙を破ったのは、低く威厳ある声だった。
「──フランツ」
講堂後方から響いた声は、重く、広い空間を一瞬で支配した。
貴族たちが左右に分かれる。
現れたのは、この国の王。
白髪混じりの髪と深い威厳を湛えた瞳。
その場に立つだけで、空気が張り詰めた。
「事の次第、すべて聞いた」
「……父、上……」
フランツは膝をつき、震えていた。
王はゆっくりと壇上に上がり、息子を見下ろす。
「政略婚を否定すること自体は自由だ。
だが──そのために他者を利用し、責任を放棄する者に王太子の資格はない」
「……っ」
「真実の愛を口実にし、複数の令嬢を欺き、
挙句の果てに式典の場で婚約破棄とは……この国の恥である」
会場にひれ伏すような沈黙が落ちた。
王は次にレティアを見た。
「レティア・ストリアーテ」
「はい、陛下」
淑女としての礼を崩さぬまま、静かに頭を垂れた。
「今回の件、お前は冷静によく対処した。……辛い思いをさせてしまったな」
「もったいなきお言葉にございます」
レティアは、そっと目を伏せた。
それ以上の言葉を求めたわけではない。
たった今、自分が失ったものの大きさを思えば、慰めの言葉など、むしろ重すぎる。
それでも、王のその一言は、確かに彼女の心を支えていた。
「フランツ」
再び、厳しい視線が王太子へ向く。
「お前には、王太子としての資格をいったん返上してもらう。
しばらくは謹慎し、自らの行いをよく省みるがよい」
「……うぅ」
その場にひざまずく息子の姿に、国王の表情は苦しげに歪んだ。
だが、決定を覆すことはない。
静寂の中、国王はレティアへと向き直る。
「レティア。先ほどの言葉を、聞かせてもらえぬか」
「先ほどの……?」
「“真実の愛とは何か”──そう、問うておったな」
レティアは、ほんの少しだけ唇を引き結んだ。
自分の問いを、王までが覚えていたことに驚きながらも、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「わたくしには、まだ、それが何かを断言することはできません」
正直な答えだった。
「けれど……」
ほんの少しだけ、視線が柔らいだ。
「一人の方と、時間を重ね、言葉を交わし、傷つきそうになっても向き合おうとする覚悟……そのようなものではないかと、思っております」
ローザンヌ、マリー、ソフィアが、それぞれ胸元のペンダントを見下ろした。
リリィは、ぼろぼろと涙をこぼしながら、その場に崩れ落ちている。
「少なくとも、昨日、今日とお相手を変えながら、同じ言葉と同じ贈り物を繰り返すことでは、ないように思えます」
やわらかな声音でありながら、その言葉は鋭い刃のように真実を切り裂く。
会場の人々は、誰も笑わなかった。
そこにあるのは、ただ一人の令嬢の、静かな決別の宣言だったからだ。
「……レティア」
国王が深く息を吐く。
「お前には、相応しき未来が訪れることを、心より願っている」
「ありがとうございます、陛下」
レティアは、静かに一礼した。
その背筋は、少しも曲がっていない。
婚約者を失い、妹に裏切られた少女とは思えないほど、凛としていた。
──きっと、いまこの瞬間だけは。
誰もが彼女こそ“王妃にふさわしい”と思っていたに違いない。
***
人々の視線から解放されたのは、それからしばらく経ってからだった。
講堂を出たレティアは、静かな中庭の片隅で立ち止まる。
春の風が、花々の香りを運んでくる。
「……お嬢さま」
幼さの残る従僕が不安げに見上げる。
「本当に、よろしかったのですか」
「ええ」
レティアは微笑んだ。
「よかったのです。ああして、終わらせることができて」
本当は、もっと静かに幕を下ろすつもりだった。
王宮と父のために、騒ぎを最小限に抑える道も考えていた。
だが、フランツが“真実の愛”という言葉を、公衆の面前で掲げた瞬間
──それは、もう彼一人の問題ではなくなってしまった。
政略を否定するくせに、責任からも逃れようとする、その在り方を。
放置するわけにはいかなかった。
だからこそ、静かに問いを投げかけたのだ。
「……真実の愛、ですか」
従僕が、ぽつりと呟く。
「そうね」
レティアは、青い空を見上げた。
「わたくしには、まだよくわからないわ」
幼い頃から、政略のために育てられてきた。
国のため、家のため、王太子のため。
自分の感情よりも優先するべきものが、いつだっていくつもあった。
それでも。
「いつか、どこかで出会えたらいいと思うの。
わたくし自身が、誰か一人を大切にしたいと思えるような、そんな関係に」
ふっと、肩の力が抜ける。
講堂で固くなっていた表情が、ようやくほどけていくのを感じた。
「さあ、帰りましょうか。父も、今日は疲れているでしょうし」
「はい」
二人が歩き出そうとした、そのときだった。
「あの──」
背後からおずおずとした声がかけられる。
振り返ると、そこには見慣れぬ青年が立っていた。
栗色の髪を後ろでまとめ、質素だがきちんとした礼服をまとった青年。
胸元には、小さな紋章が光っている。
「失礼いたします。レティア様でいらっしゃいますね」
「そうですが……?」
レティアが首を傾げると、青年はやや緊張した面持ちで一礼した。
「辺境伯領より留学中の、ハルト・テセウスと申します。本日は、講堂でのご対応……拝見しておりました」
ああ、とレティアは内心で頷く。
たしか、成績優秀者として何度か名前を見たことがある。
けれど、直接言葉を交わすのは初めてだった。
「ご挨拶が遅れました。わたくしは──」
「レティア様のお名前は、存じ上げております」
ハルトは少し照れたように笑う。
「いずれこの国の王妃になられる方だと……ずっと、そう思っていました」
「……そうですか」
思いがけない言葉に、レティアはわずかに目を伏せた。
その肩の揺らぎを見て、ハルトはあわてて首を振る。
「失礼を……。あの、その……」
言葉を探すように、彼は掌をぎゅっと握りしめる。
「先ほど、真実の愛についてお話しされていましたね」
「ええ」
「もし、いつか……」
青年は顔を上げた。
その瞳は、真っ直ぐで、どこまでも誠実だった。
「いつか、レティア様が“誰か一人を大切にしたい”と思われたとき。その候補の片隅に、私のことを置いていただければ……これ以上の光栄はありません」
従僕が「ひゃ」と小さく変な声を上げた。
レティア自身も、さすがに目を瞬かせる。
「初対面で、なんてことを言うんだお前は」と、彼自身が一番驚いているようにも見えた。
だが、その顔は、恥じ入りながらも、一歩も退いていなかった。
──真実の愛。
レティアは、ほんの少しだけ唇を綻ばせた。
「そうですわね」
春の風が、花びらをひとひら舞い上げる。
「わたくしが本当に誰かを大切にしたいと思えたとき、その方はきっと、今日のあなたのように、真っ直ぐに言葉をくださるのでしょうね」
その答えは、期待とも、約束ともつかない。
けれど、ハルトはそれを拒絶とは受け取らなかったらしく、安堵したように笑った。
「はい。そのときまでに、少しでも恥ずかしくない人間になっておきます」
「ふふ。それは、楽しみにしておりますわ」
ほんのわずかな会話だった。
それでも、張りつめていた心に、小さな灯がともるのをレティアは感じていた。
真実の愛が何かは、まだわからない。
けれど、それを口実に誰かを傷つけることと、
誰かを大切にしようとすることの違いだけは、はっきりと知っている。
今日、婚約は終わった。
妹との関係も、すぐには戻らないかもしれない。
けれど──
それでも、人生は続いていく。
真実の愛と呼べるものを、いつかどこかで見つけるために。
レティアは、空を仰いだ。
高い青の向こうに、きらめく光が見えるような気がした。
「さあ、今度こそ帰りましょう」
「はい、お嬢さま」
従僕とともに歩き出しながら、彼女はふと、今日の出来事を振り返る。
“真実の愛”という言葉は、きっとしばらく社交界の笑い話になるだろう。
けれどそれで構わない。
あの場で本当に笑われていたのは、言葉そのものではなく──
それを軽々しく使った者の浅はかさだったのだから。
レティアは、そっと胸に手を当てた。
そこにある鼓動は、先ほどよりも少しだけ軽い。
真実の愛の行方は、まだ見えない。
だが、少なくとも一つだけ確かなことがある。
──今日、わたくしが守りたかったのは、自分の心の尊厳だったのだと。
静かな確信とともに、レティアは歩みを進めた。
新しい物語の、一歩目へと。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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