第七話 《夜に滲む亀裂》
夜の帳が静かに降り、冷たい風が学校の屋根を撫でていく。
頭上には無数の星々が瞬き、屋根瓦に淡い光を落としていた。
遠くの馬場はすでに眠りにつき、響くのは風のさざめきだけ。
屋根の端に、ひとつの影が腰を下ろしている。
膝に両腕を預け、ぼんやりと夜空を見上げる少年――サイラス。
琥珀色の瞳に映る星々は、どこか遠い世界の光のようだった。
脳裏にこだまする昼間の声。
『期待してるぞ、サイラス』
その言葉は、淡々としていながらも鋭い刃となって、彼の偽りを容赦なく切り裂いた。
――あの名を。
「サイラス・ノヴァルディア」。
存在を否定され、砂に埋められたはずの名が、帝国王太子の唇からあまりにも自然に零れ落ちた。
サイラスは拳を握り、指先が白くなるほど力を込める。
低く、吐息とともに呟く。
「……何が狙いだ」
その時――
屋根裏の静寂を、規則正しい足音が破った。
サイラスが振り返ると、月光を浴びて歩く影がひとつ。
金糸の髪が夜風に揺れ、紅の瞳が闇を焦がすように光る。
エドリック・ノヴァルディア。
帝国王太子。
肩から外したマントを無造作に片手で持ち、軍服の襟を緩めた姿は、どこまでも余裕を纏っていた。
彼はサイラスの隣に腰を下ろし、星空を一瞥してから微笑を浮かべる。
「まだ寝てないのか? 何を考えてた、 サイラス」
問いかけは軽い調子、だが瞳は真剣にサイラスを射抜いていた。
サイラスのまつ毛がわずかに震え、声が落ちる。
「……その名前で呼ぶな」
琥珀の視線は夜空に逸れ、紅と交わることを拒む。
「なぜ?」
エドリックの唇が愉快げに歪む。
「嫌いなのか、その名前が」
肩越しに身を寄せ、吐息が触れるほど近く、低く囁く。
「それとも――怖いのか?」
サイラスの肩が、わずかに強張った。
沈黙の後、押し殺した声がこぼれる。
「……何が目的だ。俺に近づいて、何をしたい」
エドリックは答えを急がず、指先で屋根瓦を軽く叩いた。
乾いた音が夜気に溶ける。
その視線には、好奇と執着が滲んでいた。
――彼は知っている。
サイラス・ノヴァルディアという、抹消された名の裏に潜む真実を。
エスティリアに送られ、異国の檻に閉じ込められた少年。
この冷ややかな殻を破れば、何が見えるのか。
それを覗いてみたくて、仕方がなかった。
紅の瞳が夜を映し、低い声が零れる。
「……試してると言ったら?」
口元に笑みを刻みながら、さらに一言。
「お前は静かすぎる。まるで眠り続ける獣だ。だから――目を覚まさせたくなる」
サイラスの指先がぴくりと動き、声が氷を割るように冷たくなる。
「……試す? 何をだ。
俺はただの捨て駒だ。皇位なんて争う気はない」
その吐き捨てるような言葉に、エドリックは小さく笑った。
そして――
指先が、サイラスの顎に触れる。
夜気よりも温かな感触が、皮膚をなぞり、顔を仰がせる。
「捨て駒、ね……」
紅い瞳が、零距離で射抜く。
「そう言う目じゃないな」
視線が左眼に落ちる。
そこで、彼は見た。
闇に紛れながらも消えない紋様――
虹彩に刻まれた半月形の紋と、絡み合う同心円。
封印を思わせる複雑な文様が、淡く光を孕んで蠢くのを。
――これだ。
これが、彼を「棄子」にした理由。
これが、俺を惹きつけるもの。
サイラスは瞬間、息を呑み、次いで顎を振り払った。
「……触るな」
低く、凍てついた声。
エドリックは無理に追わず、ただ唇を歪めて笑った。
「……やっぱり、面白い」
サイラスは紅の視線を避け、夜の彼方を見つめる。
胸の奥で、記憶が疼く。
――この紋様が奪ったもの。
家族。名。未来。
すべてを呪いに変えた証。
指先が無意識に、左耳のピアスをなぞる。
月長石。唯一、彼に残された「自分の記憶」。
エドリックはその仕草を見逃さず、笑みを深めた。
「そうやって隠そうとするから、もっと知りたくなるんだ」
沈黙を裂くように、別の話題を落とす。
「明日から試験だ。模擬戦場でのグループ戦……負ければ退学だぞ」
その声色は、何気なさを装いながら、底に挑発を滲ませていた。
サイラスは視線を上げず、淡々と返す。
「俺のことを心配するな」
「心配?」
エドリックが低く笑い、吐息が頬を撫でるほど近くで囁く。
「違うな……ただ、楽しみにしてるだけだ」
月明かりの下、二人の影が屋根に並ぶ。
風が星を揺らし、遠い闇に吸い込まれていく。
――この夜の裂け目から、何かが零れ落ちるのは、そう遠くない。