第六話 《実戦演習の交錯》
学校の演習場は東側に広がり、朝霧がまだ完全に晴れきらず、白い靄が地面を漂っていた。
広々とした土の匂いと、遠くの馬場から響く蹄音。整列する学生たちの手には、鈍く光を反射する鈍剣。
空気には緊張と汗の匂いが入り混じっていた。
高台に立つ教官の声が、鋭く空気を裂く。
「本日の実戦演習は組み手形式だ! 勝敗は俺が判断する!」
旗が風に翻り、ざわめきが列の中を走る。
――そして、その名が告げられた瞬間、ざわめきが一層大きくなる。
「カイン・ブレスト――対戦相手、エドリック・ノヴァルディア!」
一拍の沈黙のあと、細かな声が飛び交った。
「……マジかよ」
「これは面白くなりそうだ」
「アイツ、前に戦った時……一瞬でやられた」
「でも相手が殿下じゃ、さすがに本気は出せないだろ」
列の端、暗紅の髪を風に乱されながら立つ少年――サイラス。
訓練服はよく手入れされているが、袖口に微かな色褪せがある。その冷ややかな琥珀の瞳には、何の感情も浮かばない。
彼は鈍剣を手に取り、淡々と歩み出た。その姿には闘志の影すらなく、剣先はわずかに下がっていた。
――この試合、彼の中では既に意味を失っていた。
対して、列を抜ける金髪の少年。
朝の光に煌く長い髪、血のように赤い瞳。歩みは堂々とし、マントの裾が霧を払うように翻る。
エドリック・ノヴァルディア――帝国王太子。その視線には、隠しようのない愉悦が宿っていた。
二人は中央で対峙する。
「面白くなってきたな、カイン」
彼の口元が緩む。
サイラスは答えず、鈍剣を肩に軽く担ぎ上げる。その姿勢は、まるで退屈な課題をこなす学生のそれ。
教官の号令が響く――
「始めッ!」
――瞬間、エドリックが動いた。
疾風のごとく踏み込み、鈍剣が鋭い弧を描いてサイラスの左肩を狙う。
美しい動き。無駄のない剣筋。
だが、サイラスは一歩、身体を滑らせるだけでそれをかわし、返す一撃もまた――あまりに軽い。
「その程度か?」
紅の瞳が愉快そうに細められる。
次の瞬間、エドリックの剣が唸りを上げた。
速い。
一撃、二撃――連続する刺突と斬撃。
しかし、サイラスは後退しながら最小限の動きで防ぎ、躱し続ける。その表情には一片の焦りもない。
「……つまらんな」
吐き捨てるように呟き、エドリックはさらに踏み込む。
鈍剣が交錯し、乾いた音が霧の中に響いた。
観戦する学生たちが囁き合う。
「やっぱ本気じゃない……」
「でも……気づいたか? アイツの剣筋」
「騎士流じゃない……まるで――」
「そうだ、あれは……生き残るための剣だ。戦場の匂いがする」
その声は、サイラスの耳に届かない。
彼は、ただ淡々と剣を動かしていた。
――だが、名前を呼ばれた瞬間だけは。
「……期待してるぞ、サイラス」
紅い瞳がまっすぐに射抜く。
心臓がひときわ強く跳ねた。
胸の奥底に沈めた名前。
サイラス・ノヴァルディア――葬られたはずの真実が、血のように滲み出す。
左の眼が、かすかに熱を帯びた。
金紅の紋が、刹那、光を帯びて――
「……試しているのか」
低く、研ぎ澄まされた声が漏れる。
握る指先に力がこもった。
エドリックは、答えなかった。
ただ、愉しげに笑う。
「どうだろうな」
その瞬間、空気が変わった。
サイラスの琥珀の瞳が、鋭く光を宿す。
構えは一転。怠惰な影は消え、静かに剣先が相手を射抜く。
「……そうこなくちゃ」
エドリックの唇が釣り上がる。
霧が揺れた。
二人の剣が、火花を散らしてぶつかり合う。
鈍剣でありながら、その一撃は風を裂き、空気を震わせるほどの力を秘めていた。
サイラスの一閃が、エドリックのマントを裂く。
金糸の裾が宙を舞い、霧の中に沈む。
歓声と息を呑む音が、観客席に広がった。
「認める……やっと面白くなってきた」
エドリックが低く笑い、剣を構え直す。
さらに踏み込み――交錯する影、響く金属音。
呼吸が重なり、間合いが詰まる。
刹那、エドリックが剣を脇に退け、サイラスの鈍剣をがっちりと掴んだ。
力強く引き寄せる――距離はゼロ。
「……やっぱり、こうでなくちゃな」
耳元で囁かれた声に、サイラスの心臓が跳ねた。
だが、動揺を押し殺し、力任せに剣を引き剥がす。
「黙れ」
氷のような声が落ちる。
二撃目が来る、その瞬間――
「やめ!」
教官の怒声が場を裂いた。
霧の中、二人は同時に剣を下ろす。
荒い呼吸が白い息となって空に溶けた。
「引き分けとする」
判定の声に、観客がざわめく。
エドリックは裂けたマントをひらりと翻し、唇に笑みを浮かべる。
「悪くない。……次は、もっと本気で頼む」
サイラスは返事をしなかった。
ただ、視線を逸らし、歩み去る。
その背を、紅の瞳が追い続ける――興味と執着を滲ませながら。
演習場を離れ、霧が晴れ、朝陽が剣身に冷たい光を落とした。
サイラスの胸中には、戦い以上の熱が、まだ残っていた。