第四話 《終わりなき日常と、辺境での再会》
学期の終盤。
帝国騎士学校の時間は、ただ繰り返しと摩耗の中に過ぎていく。
それは、終わりの見えない巡礼のようだった。
サイラスにとって、ここでの日々は――生き延びるための空白。
成長でも、栄光でもない。
かつて息を詰まらせた挑発や、肌を掠める距離感、耳元で溶けた声。
それらは今や、遠い霧の幻に過ぎず、重みも残さない。
訓練場の隅で、彼は一人。
暗紅の髪を風に乱され、琥珀の瞳は冷たく群れを掃く。
指先は、無意識に鈍剣を握り――ただ、振る。
繰り返し、繰り返し。
それは訓練ではなく、己を縛る鎖の儀式のように。
ヒュッ――。
刃が空を裂く音は、喧騒に呑まれて消えた。
「休暇、どこへ帰る?」
軽やかな声音が、横から落ちた。
振り向けば、エドリック。
陽を浴びて煌めく金の髪、細められた紅の瞳は、試すように光を帯びる。
「帝都に来いよ。宮廷の馬場は、こことは比べものにならないぜ。」
口調は緩やか、だが口端に滲む笑みは、返答を読み取ろうとする刃のようだ。
「……行かない。」
それだけを告げ、サイラスは視線を逸らす。
声音に波はなく――まるで他人事の拒絶。
歩き出す背に、風が絡む。
残すものなど、何もない。
この世界のすべては、彼にとって無縁。
――エドリックさえも。
その背を、彼は追わない。
ただ、柵にもたれ、去りゆく影を眺め、指で木杭を軽く叩く。
コツ、コツ――。
その音は、計画の合図にも似ていた。
◆
春の陽が、緩やかな丘陵に溶ける。
ブレスト領――帝国の辺境にして、静寂と荒野の狭間。
館の裏手、高台に立つ少年の影。
簡素な衣にマントを纏い、風に髪を弄ばれる暗紅の姿。
琥珀の双眸は遠景を見据えながら――そこに、何も映していなかった。
――二ヶ月。
その間に、背はわずかに伸び、肩は硬さを帯びた。
顔立ちの稚さも削がれ、輪郭は冷を刻む。
だが、その瞳には炎がない。
世界は、彼にとって幻影。
期待も、未来もない。
――ただ、生きているだけの躯。
カツン、カツン。
石畳を打つ蹄音が、丘を破った。
騎兵の列、その中心を進む馬車は、陽を浴びて紋章を輝かせる。
深紅の薔薇――皇族の証。
サイラスのまぶたが、わずかに揺れる。
だが、その奥で感情は波打たない。
誰が来たのか、わかっている。
考えるまでもない。
「カイン様、中へ。」
駆け寄った従者が、頭を垂れた。
サイラスは応えない。
風が頬を撫で、視界に止まる馬車が影を伸ばす。
――エドリックだ。
だが、なぜ。
何を、求めてここへ。
大広間に満ちる光は、銀器を照らし、長卓に金の縁を描く。
背の高い窓から注ぐ陽が、午後を柔らかな琥珀に染めていた。
主座に座すブレスト侯、エドムンド。
歳月を映す白金の髪に、厳然たる威を宿す。
暗紺の外套が、彼の揺るぎない気配を縁取る。
対するは――エドリック。
紅の瞳を緩く細め、椅子の背に寄せる姿は、余裕と挑発を纏う。
「辺境の巡察は、静かでなければならぬ。」
侯の声は低く、鋼を孕む。
「カイン、殿下を市街へ案内せよ。」
「……承知しました、侯爵閣下。」
響く声は、揺らがない。
「楽しませてくれよ、ブレストの養子殿。」
その言葉に、エドリックは紅を帯びた視線を流した。
陽光に閃く金髪の陰で、口端が緩やかに弧を描く。
サイラスは――ただ、無言で頭を垂れた。
その奥で、何を思うかは、誰にも見えない。
門前。
午後の風が、丘陵の草の香を含んでそよぐ。
サイラスは二頭の馬を引き、静かに門の前に立っていた。
「……俺、王太子なんだけどな。その態度、ちょっと素っ気なくない?」
軽やかな声音が近づき、紅の瞳が陽を映す。
笑っている――いや、笑みに見せかけた探りだ。
サイラスは一瞬、足を止めた。
次いで、ゆるやかに振り返る。
その瞳には、波がない。
「失礼をお許しください、王太子殿下。ブレストへようこそ。」
完璧な角度で腰を折り、貴族式の礼を――儀式のように。
「……ははっ。」
エドリックは一瞬きょとんとし、それから肩をすくめて笑った。
「なんだよ、それ。……もういい。」
あまりに整った挨拶が、逆に彼の中に小さな苛立ちと、妙な愉しみを灯す。
紅の視線が、サイラスをなぞる。
――二ヶ月ぶりの姿。
「ちょっと背、伸びたな。」
軽口のように呟きながら、目はその輪郭を外さない。
「……顔つきも、悪くない。」
「……。」
応えはない。ただ、手綱が差し出される。
彼は無言で馬に跨がり、動作に一片の乱れも見せなかった。
エドリックの唇に、淡い笑みが戻る。
「――この年頃の変化は、本当に速いな。」
誰に聞かせるでもない呟きを風に溶かし、彼もまた鞍に身を預ける。
二頭の馬が、丘を駆け下りる。
城下の方へ。
その風の中に、張り詰めた沈黙と――まだ終わらない駆け引きの匂いを残して。