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第三話 《深夜の訓練場で交わる影》

 夜が訓練場を覆い、銀の月明かりが静寂を敷き詰めていた。

 遠い馬場はすでに眠り、ただ旗を撫でる風の音と、砂を掠める微かな摩擦音が耳に届く。


 数本の松明が、鉄の燭台に揺れながら炎を吐き、その赤が月の白と交じり合う。

 その光に浮かぶ影――一人、剣を振るう姿があった。


 サイラスだ。

 剣を握り、繰り返し突きを放つ。

 動きは研ぎ澄まされ、無駄な揺らぎひとつない。

 月光と炎が交錯し、その身に冷と温の光を刻む。

 暗紅の髪が風に揺れ、額を覆う前髪が小さく震えるたび、忘れかけた記憶が影を覗かせる。


 ――シュッ。

 刃が夜気を裂き、低い唸りを響かせた瞬間、胸裏に過ぎるのは――


 黄金に輝く宮廷、燭台の炎が長い回廊を染める光景。

 文武百官が沈黙し、ただ冷たい声だけが玉座から響く。


『――王子をエスティリアへ送る。和平交渉の担保として。』


 サイラス・ノヴァルディア。

 その名は、生まれた刻から封じられた。

 ――彼は、玉座の影で選ばれた犠牲。

 本来なら、異国へ送られるはずだったのは「エドリック・ノヴァルディア」。

 だが、帝国は和平の証として、その名を、血を、彼に背負わせた。


「エドリック」――その偽りの名を纏い、異国の空へと放たれた王子。

 存在ごと、帝国の歴史から葬られた。

 やがて和平が終わり、彼が帰還した時でさえ、その名は還らなかった。


 代わりに与えられたのは、もう一つの仮面。

「カイン・ブレスト」。

 辺境の侯爵家の養子という虚構。

 それを纏うことは、生き延びるために――

 かつての名を、完全に捨てることと同義だった。


 ――今も、彼はその檻の中にいる。


 握る剣に、白い指が力を込める。

 速さが増し、風が唸る。

 まるで、見えぬ枷を断ち切るかのように。


「――こんな時間まで、稽古か?」


 その声は、不意に夜を裂いた。

 澄んだ響きに、仄かな愉悦を混ぜて。


 サイラスの肩がわずかに揺れ、振り向く。

 そこにいたのは――


 エドリック・ノヴァルディア。

 本物の王子。


 入口から歩む彼の足取りは揺るぎなく、背のマントが静かに風を孕む。

 月光を浴びた金の髪は星のように瞬き、紅の瞳は炎を映し、夜の中に燃える灯火めいていた。

 あまりに眩い、その姿は、夜に似つかわしくない。


 数歩手前で止まり、唇に淡い笑みを浮かべる。

「――お前、本当に目を離せないな。」


 サイラスは、一瞥だけ寄越す。

「……好きにしろ。」

 短く吐き、再び剣を翻す。

 刃が空を裂き、火と月を映して走る。

 ――だが、その間合いを、彼は侵す。


 足音が、近づく。

「動きが、焦り過ぎだ。」

 何気ない声音。

 その直後――


 ガシッ。

 手首を掴まれる。


「――ッ!」

 琥珀の瞳が、わずかに揺れた。

 剣を引こうとした瞬間、強い力で引き寄せられる。


 距離が、一気に消える。

 吐息が触れ、前髪がかすかに擦れ合うほど――。


「力は沈めろ。焦りの剣じゃ、隙は突けない。」

 低い声が、耳朶に落ちる。

 掌が手の甲を覆い、そのまま導くように柄を支配する。


「……腕じゃない。重心で剣を動かせ。」

 言葉と同時に、彼のもう一方の手が――腰に落ちた。

 ぐっと押し、体を後ろへ傾ける。

 姿勢を、矯正するふりをして。


 ドクン。

 胸奥で何かが鳴った。

 呼吸が、詰まる。


「――何を……してる。」

 喉を震わせ、ようやく搾り出す。


「教えてやってるだけだ。」

 耳許で笑う声は、柔らかく、だが逃げ道を与えない。


 掌の熱が、布越しに肌を焦がす。

 重さは、指先に込められた支配の証。

 そこに宿るのは――技巧か、それとも。


「……重心、もう少し後ろ。」

 吐息混じりの声が、背筋をなぞる。

「護りを貫いても、体勢を崩せば死ぬだけだ。」


 サイラスは、奥歯を噛みしめる。

「……わかってる。」

 声は冷ややかだ。

 だが、その耳朶に、淡い紅が差していた。


 ――気づいている。

 この触れ方は、剣術の範疇を逸していると。

 なのに、振り払えない。

 振り払えば、何かが壊れる気がして――。


「……放せ。」

 低く、鋭く告げた声に、わずかな震えが混じる。


「そうか。」

 エドリックは、指を腰から離した――

 だが、最後に滑らせる一撫でを残して。


「……剣筋は、まだ甘いな。」

 見下ろす双眸が、愉しげに細められる。


 サイラスは、何も返さない。

 ただ、剣を鞘に納め、踵を返す。


 だが、数歩進んだ時――

 背に投げられた声が、夜を裂いた。


「なあ、考えたことはあるか?

 ――もし『本物のエドリック・ノヴァルディア』がエスティリアに送られていたら、今どうなっていたと思う?」


 ピタリ。

 足が止まる。

 視線は向けない。

 ただ、沈黙が数秒、落ち――再び歩き出す。


 背を見送りながら、エドリックは細めた瞳で笑む。

 その笑みには、ただの好奇など、欠片もなかった。


 ――何故、近づく。

 心に生まれる問いは、夜風にさらわれ、消えていく。


 サイラスの髪を撫でる風が、月光を弾く。

 琥珀の瞳が火を宿し、その奥に――言葉にできぬ影が揺れた。

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