第二話 《戦術課の逼近》
初秋の午後。
主棟二階にある戦術広間は、重厚な石造りの壁と長机が並ぶ広い空間だった。
壁には帝国全土の地図と、騎士団の紋章旗。
墨と羊皮紙の匂いが淡く漂い、外からは馬場の嘶きや、訓練場の掛け声が風に乗って届く。
この静けさに張り詰めた緊張が重なり、空気は冷たく澱んでいた。
講壇に立つ教官が、地図上のブレスト辺境を指し示し、低い声で言う。
「ここが帝国の国境都市、ブレストだ。エスティリア王国と接する地――」
視線が広間を横切り、その声音にさらに威圧が宿る。
「帝国はエスティリアと和平条約を結び、かつて王太子を交換条件として送り込んだ……が、国境の火種は消えたことがない。」
一呼吸置き、声が鋭さを増す。
「南方の荒原には遊牧民の部族が群れを成し、長年にわたり辺境を荒らしてきた。村を襲い、補給隊を襲撃する者もいる。さらに、盗賊団どもが両国の緊張を好機と見て動き、帝国領もエスティリア領も安全ではない。」
カリカリ……
羊皮紙に走る羽ペン先の音が、妙に大きく響いた。
誰一人、顔を上げない。
この問いに、軽率な答えなど許されないことを全員が知っていた。
「――もし、敵軍が南方から侵入し、盗賊や外族部隊と連携して奇襲してきた場合……」
教官の紅茶色の瞳が、静かに全員を射抜く。
「お前たちは、どう布陣する?」
広間は、水を打ったように静まり返った。
低く囁き合う声がいくつか生まれ、すぐに消える。
複雑すぎる問いに、答えを出すのは容易ではない。
そんな中――
「カイン・ブレスト。」
名を呼ばれ、サイラスの手が一瞬だけ止まった。
指が書きかけの羊皮紙を離れ、ゆっくりと顔を上げる。
短く整えられた暗紅の髪。
額にかかる長めの前髪が、左眼を覆い隠している。
その奥で、琥珀色の瞳が淡く光り、何の動揺も映していなかった。
立ち上がった彼の声は、低く、よく通る。
「――南側の隘路を封鎖し、前哨を設けて敵の動きを監視する。両翼の高地に兵を分散し、地形を生かした防御陣を構築。主力騎兵は森と丘陵に隠し、敵軍が深入りした瞬間、側面から挟撃し補給線を断つ。」
淡々とした言葉に、一拍置いて続ける。
「盗賊が敵軍と手を組んでいる兆しがあれば、即座に掃討。補給路の破壊や内応を防ぐためだ。外族部隊の戦法は奇襲と遊撃が主体――ならば、地形を熟知した軽騎兵を派遣し、撹乱し続けることで持久線を築かせない。」
言い終えた瞬間、広間の空気が変わった。
その簡潔さと、戦場を知るかのような現実味。
年上の生徒たちの視線が、一瞬、彼に引き寄せられる。
「……悪くない。」
教官はわずかに頷き、意味ありげな視線を残して言う。
「座れ。」
サイラスは無言で腰を下ろし、羊皮紙に視線を落とす。
机に置いた指先が、軽く震え、すぐに静まった。
無意識に、指腹で木目をなぞる。
だが、その耳には別の声が入り込む。
「……チビのくせに、よく喋るな。」
「十四で、何を気取ってんだか。」
押し殺した嘲笑が、後方からこぼれる。
ただし、それも長くは続かなかった。
さっきの答えが、彼らの心に小さな棘を残していたからだ。
サイラスは――何も言わない。
ただ、淡々と戦術書をめくる。
その沈黙が、かえって壁を築く。
……だが。
ひとつの視線だけは、鋭く突き刺さったままだった。
「――やはり、ブレストの養子は侮れないな。」
低い呟きが、窓際で落ちる。
エドリック・ノヴァルディア。
帝国の王太子。
陽光を透かす金髪が、風に揺れ、紅の瞳が何かを探るように光っていた。
彼は羽ペンを取ることもなく、机に肘をつき、指でリズムを刻んでいた。
コツ、コツ……
規則的な音とともに、紅い双眸がこちらを射抜く。
サイラスの睫毛が、わずかに揺れる。
それでも、顔を上げない。
無言で頁をめくり、視線を紙に固定する。
「殿下が戦術課に顔を出すとは……」
教官の言葉に、広間の緊張が跳ね上がる。
ガタリ。
椅子が微かにきしみ、全員の目が窓際へ集まった。
「殿下が直々においでだ。怠る者があるものか。」
誰かが囁き、別の誰かが媚びるように笑う。
だが、エドリックは――ただ笑った。
軽やかで、どこか冷えた笑み。
「気にするな。」
片手をひらりと振り、皆の視線を受け流す。
……そして、
彼の紅い瞳は、再びサイラスを捉える。
まるで、そこに何か答えがあるとでも言うように。
――今日、この授業に来たのは、偶然じゃない。
サイラスは微かに息を呑み、すぐに視線を落とした。
琥珀の奥に潜む炎を、誰にも悟らせぬために。
◆ ◆ ◆
「――逃げ足が早いな。」
低く、笑みを含んだ声が、出口の影から落ちた。
扉の枠に凭れ、風を孕んだマントを揺らす少年。
エドリック・ノヴァルディア。
その紅の双眸には、興味と――支配する者の余裕が滲んでいた。
「さっきの答え、見事だったぞ。カイン。」
コツ、コツ――。
鉄靴が石床を叩き、重い音を刻む。
サイラスの歩みが止まる。
琥珀の瞳が、わずかに細められた。
「――何を望む。」
淡々とした声。
避けようと歩を進める、その先を――エドリックの長靴が塞ぐ。
乾いた靴音が、やけに広間に響いた。
「もちろん――話がある。」
その声音は穏やかだ。
だが、次の瞬間。
エドリックは一歩踏み込み、サイラスを壁際へと追いやった。
ドン――
冷えた石壁が背に触れ、退路が消える。
右腕が、肩のすぐ上で壁を支え、影を落とす。
左手は剣の柄に置かれ、無造作に見せかけた支配。
その紅の瞳が、間近で彼を覗き込む。
「……隠しているな。」
低い声が、耳許を掠める。
温い吐息が頬を撫で、鼓動が一拍ずれる。
サイラスの指先が、握る紙をわずかに締め付けた。
「――何もない。」
短く吐き出し、顔を逸らす。
紅の視線を避ける。
その瞳は、まるで心の奥底まで穿ち抜くようで――。
エドリックの笑みが、深くなる。
白い指が持ち上がり、顎のラインをそっとなぞる。
頬骨から顎へ、そして喉元へ――。
服の襟元にかかる指先が、布地を軽く弾いた。
「……そうか?」
掠れる声。
だが、その仕草はあまりに明確だった。
一枚隔てた布の下まで暴こうとするかのような、優雅で残酷な動き。
呼吸が止まる。
指先越しに伝わる熱が、肌に沁みていく錯覚。
「……その冷たさ、悪くない。」
紅の双眸が、愉しげに細められる。
「だから、余計に――手放せない。」
――限界だ。
サイラスの意識が、鋭く告げた。
バシッ。
手の甲で、絡みつく指を弾く。
その力は冷静で――ただ、拒絶を明確に刻むものだった。
「――触れるな。」
氷刃のごとき声が、二人の間に落ちる。
琥珀の奥、左眼に一閃――
紅金の紋が淡く閃き、すぐに沈んだ。
誰にも悟られぬまま。
エドリックの口端が、愉しげに歪む。
「……なるほど。」
腕を下ろし、わずかに身を離す。
それでも、諦めの色は一片もない。
「わかった。今はな。」
背を向け、悠然と歩き出す。
マントの裾が、音もなく空気を裂く。
だが、出口の前で――
クルリ。
振り返ることなく、肩越しに言葉を零した。
「……時間なら、いくらでもある。――掘り起こすまで、な。」
コツ、コツ……
靴音が遠ざかり、静寂が戻る。
サイラスは、背に残る冷たさを感じながら、微動だにしなかった。
――まだ、胸の奥が騒いでいる。
服の襟を直す指が、無意識に震え、そこで止まる。
ただの戯れだ。
心の中で呟く。
それでも、胸の奥のざわめきは消えない。
深く息を吸い、吐く。
羊皮紙を握り直し、逆方向へと歩き出す。
……だが、その途中、窓辺のカーテンが風に揺れた。
視界の隙間から、外回廊が覗く。
――いた。
エドリックが、まだ去っていない。
欄干に凭れ、片肘をつき、紅の瞳でこちらを射抜いている。
微笑を浮かべ、その瞳に宿るのは、静かな執念。
ピタリ。
足が止まる。
視線が、わずかに交差する。
何も言わず、逸らす。
ただ、歩き出す。
その背に――小さく、風に溶ける声が追いかけた。
「……焦らなくていい。――サイラス。」
ゲームは、まだ始まったばかりだ。