第一話《剣術場の初交鋒》
兩年前——
初秋の午後。
雲間から差し込む陽光が、騎士学校の訓練場にまだらな影を落としていた。
遠く、馬場では馬が低くいななき、鋭い剣戟の音と、若者たちの笑い声が交じり合う。
鉄と土の匂いが漂い、風に揺れる旗には、帝国の獅が誇らしげに刻まれている――ここは、名誉と残酷な競争が支配する帝国騎士の演習場。
サイラスはその片隅で、静かに剣を調整していた。
指先が柄の文様をなぞり、暗紅の前髪がその表情を半ば隠す。
琥珀色の瞳は冷たく、年若い彼の輪郭を一層際立たせていた。
十四歳。
同年代よりもやや華奢な体格、袖口の擦り切れた訓練服――それが彼の仮面。
カイン・ブレスト、ブレスト侯爵家の養子。
本当の名も、血も、ここにはない。
「なぁ、あのチビ誰だ?」
「十四歳くらいか? 剣を持つのがやっとだろ。」
嘲るような囁きが背後から聞こえ、別の声が続く。
「辺境から来たらしいぞ。侯爵に拾われた孤児だとさ。」
「こんなチビが学校? 冗談だろう。」
クスクスとした笑いが重なり合う。
サイラスは、聞いていない。
――いや、聞く価値もない。
淡々と剣を検め、世界を閉ざすその沈黙が、かえって彼らの言葉をかき消していった。
だが、その静寂を破ったのは、聞き慣れた声だった。
「――カイン・ブレスト。」
手が止まり、サイラスはゆるりと顔を上げる。
訓練場の中央から、一人の少年が歩み寄ってくる。
金の髪が陽光を浴びて流れるように輝き、深紅の瞳が鋭くも静かに光っていた。
エドリック・ノヴァルディア――帝国の王太子にして、生まれながらの支配者。
その一歩ごとに纏う空気が変わり、サイラスの影を覆う。
「お前の剣、悪くないと聞いた。――試してみようじゃないか。」
淡い笑みを浮かべながら告げる声。
サイラスは眉をわずかに寄せ、視線を流した。
「……興味はない。」
短く吐き捨て、踵を返そうとした瞬間――
カチリ。
柄を掴む手に、熱が走った。
金の髪の少年が、当たり前のようにその手を押さえ、唇の端で笑っていた。
「意見を求めた覚えはない。」
低く囁かれ、サイラスの呼吸が、一瞬だけ止まる。
距離は、息が触れるほど近い。
陽に透けた金の髪が頬をかすめ、視界に深紅が満ちる。
「――サイラス。」
心臓が、ぎゅっと締め上げられたように跳ねた。
名を呼ばれた、その一言が。
「……何て言った?」
かすれた声で問うと、相手は余裕の笑みを崩さない。
「サイラス。」
もう一度、確かめるように、ゆっくりと。
「それとも――カインの方が好みか?」
喉がひくりと動き、サイラスは無言のまま柄を握り締めた。
左眼の奥が、熱を帯びる。
――駄目だ、この場で……。
奥底に封じた“刻印”が、目覚めを求めてざわつくのを感じながら、彼は伏せた睫毛の奥で感情を押し殺した。
「呼びたければ勝手に呼べ。ただ、俺の時間を無駄にするな。」
「時間?」
エドリックが低く笑う。
その声色には、挑発とも甘美ともつかない響きがあった。
「――ここでのお前の時間は、試練と……俺のものだ。」
銀の刃が、陽光を弾いて閃く。
エドリックの剣先が、まっすぐサイラスを指した。
「さぁ――見せてみろ。お前の“力”を。」
刹那、風が止む。
喧噪が遠ざかり、互いの呼吸だけが鮮やかに響く。
「……望むなら。」
サイラスは剣を構え、踏み出した。
ヒュッ――!
鋭い一閃。
風を裂く音とともに、刃は一直線にエドリックの肩を狙う。
速い。無駄のない、洗練された動き。
「……ほう。」
紅瞳が細められ、金の髪がひるがえる。
次の瞬間、刃が交錯し、乾いた衝撃音が訓練場に響き渡った。
「悪くない。」
呟きと同時に、冷たい感触が耳元をかすめる。
エドリックの刃先が、サイラスの頬に影を落とす距離で止まっていた。
身を傾ける王太子が、囁くように笑う。
「――だが、その目……冷たすぎる。生きていない。」
息が、喉に詰まる。
生きていない――?
その言葉が胸を打ち、刻印が疼いた。
左眼に、赤金の光が微かに揺らめく。
――抑えろ。今は、駄目だ。
「……それがどうした。」
冷笑を返し、剣を横薙ぎに振り抜く。
だが、エドリックは悠然と受け止め、笑みを深めるだけだった。
「どうもしないさ。ただ――」
彼は低く、愉しげに告げる。
「冷たいものを、温めるのは――案外、面白い。」
――何を言って――。
背筋に、熱とも冷気ともつかぬものが走る。
再び剣を交えた刹那、金紅の紋が、左眼に一閃。
けれど、その輝きは誰にも悟られぬまま、深い琥珀に溶けていった。
「……終わりだ。」
エドリックが一歩退き、剣を下ろす。
「期待以上だ、カイン・ブレスト。」
サイラスは答えない。
ただ、刃を拭う手を止めず、前髪の陰に表情を隠したまま。
胸中で暴れる熱を、必死に押し殺しながら――。
「……まだ、俺を見ているのか?」
低い声が落ちる。
「――ああ。ただ考えていたんだ。」
エドリックは意味ありげに目を細め、囁いた。
「お前、その眼……ずいぶんと深く、隠してるな。」
刃を鞘に収め、サイラスは背を向ける。
「――余計な詮索はするな、殿下。」
去りゆく背中に、王太子は薄く笑みを残した。
「やはり……面白い。」