第十一話 《傷跡の亀裂》
暴風雨が過ぎ去った後、学校の臨時キャンプは冷たく湿った空気に包まれていた。
幕の外では、風の唸りがまだ低く響き、雨水が斜面をつたい落ちる音に折れた枝の匂いが混ざり、重苦しい気配が漂う。
幕の中、揺れるランプの灯りが帆布に淡い影を映し、遠くの雷鳴がかすかに響く。その沈黙は、まるで圧迫感を孕んでいた。
薬草の苦みと湿った土の匂いが混ざり合い、胸の奥に知らず苛立ちを呼び起こす。
サイラスは幕の隅に座り込んでいた。
半ば濡れた軍服が肌に貼りつき、不快な冷えを伝えてくる。彼は破れた袖を無造作に引き裂き、手早く動かそうとするが、疲労でその指先がわずかに震えた。
濡れた暗紅の髪が額に垂れ、うつむいた拍子に頬をかすめて泥に落ちる。
裂いた布を手に、傷口へ巻きつけようとしたが――寒さと疲労で指が思うように動かない。布は掌から滑り落ち、頑なに言うことを聞かなかった。
――いつも通りだ。自分のことは自分で片づける。
誰かが手を貸してくれることなど、最初から期待していない。それが彼の生き方だった。
「……」
短く息を吐き、もう一度やり直そうとした、その時――
バサリ、と激しい音を立てて幕の帳がめくられた。
雨上がりの冷たい風が吹き込み、ランプの炎が揺れる。
入ってきたのは――エドリックだった。
濡れた軍服は泥に汚れ、黄金の髪からはまだ水滴が滴り、頸筋を伝って流れ落ちる。
片手に清潔な包帯を、もう一方に薬膏を持ち、その紅い瞳が灯りに照らされて深い光を宿す。彼はちらりとサイラスの「処置の跡」を見下ろし、口元にうっすら笑みを浮かべて言った。
「……ゴミみたいな巻き方だな。」
サイラスは顔も上げず、冷ややかに返す。
「なら、やれ。」
エドリックは片眉を上げ、唇を歪めた。
「王太子に包帯を巻けと命令する気か?」
「嫌なら出て行け。」
サイラスは静かな琥珀の瞳で見返す。凍った湖のように、一片の揺らぎもなく。
短い沈黙の後、エドリックはくつりと笑い、ゆっくりと膝を折ると、容赦なくサイラスの手首を掴んだ。
「動くな。」
そして、雑に巻かれていた布を引きちぎる。
――ビリッ。
その音が、狭い幕に鋭く響いた。
「まずは、濡れた身体を拭け。明日熱を出したくなければな。」
投げるように差し出したのは乾いた布巾だ。
サイラスはそれを受け取り……だが、わずかに手が止まる。
「……何を突っ立ってる?」
エドリックが笑う。指先がひらりと動き、布を奪い取った。
「やっぱりな。そんな顔じゃ、自分で拭く気もねぇだろ。」
「必要ない。」
サイラスが低く言い、肩を動かそうとした瞬間――その肩を、エドリックの手が押さえつけた。
「黙れ。」
低い声。逆らう余地のない響き。
次の瞬間、温もりを帯びた布が頸筋に触れた。
濡れた肌がびくりと震える。
エドリックはゆっくりと、だが確実な手つきで鎖骨から肩口へと水気を拭い取っていく。
その指先が時折、傷口の近くをかすめ、微かな痛みを走らせた。
サイラスの肩が無意識に強張る。
呼吸の音さえ掻き消す沈黙の中で、その瞳の奥だけがかすかに陰を落とす。
「力抜けよ。」
耳元で、低く落とされた声が響く。
「そんなに固くなると、本当に……何かする気になるだろ。」
「……ずっと、そうしたいんだろ?」
感情の色を排した声音。
エドリックの手が止まる。
一拍の後、低く笑った。
「――へぇ、よくわかってるじゃないか。」
彼はわざと緩やかに、指先を肩甲へすべらせる。湿った布越しに、鎖骨から首筋をなぞり……最後に止めたのは、裂けた袖口の傷痕だった。
「深くはない。けど、この環境じゃ感染する。」
そう言って、薬膏を掬い取る。その指が、冷たい感触とともに肌をなぞる。
サイラスの指がわずかに震え、拳を握り込む。
一言も漏らさないが、その沈黙こそが――彼の忍耐を物語っていた。
エドリックの紅瞳が細められる。
指先がわずかに強く押し込み、試すような力加減を与える。
「わざと、だろう?」
淡々とした声でサイラスが言う。
「さぁな。」
耳朶をかすめるほどの距離で、低く笑う声が落ちる。
その指先が鎖骨を抜け、首筋をゆっくりと撫で上げた――明らかに、無意味な動きで。
サイラスは冷ややかな眼差しを向け、短く吐き捨てる。
「……もういい。後は自分でやる。」
包帯を手に取ろうとした瞬間、エドリックの指がわざとその掌を撫でた。
――わずかに円を描くように。
パシンッ。
乾いた音。
サイラスの手が、その手を弾いた。
「はいはい、そんな目すんなって。」
エドリックはようやく手を引き、柱に背を預けると、腕を組み、楽しげに笑った。
「ほんと……面白い奴だな。」
サイラスは黙々と包帯を巻く。
無駄のない手つきで、余計な言葉を一切挟まない。
その横顔を、エドリックは飽きもせず見つめ続けた。
――氷みたいな距離を保ち続けるくせに、どうしようもなく気になる。
その冷たさを、砕いてみたくなる。
揺れる灯火が、二人の影を長く引き伸ばす。
音もなく広がる亀裂は、今や深く、深く――戻れないところまで延びていた。




