第十話 《暴雨の中の救い》
山岳の演習地は、もはや戦場ではなく災厄そのものだった。
黒雲が渦巻き、稲光が空を裂く。
暴雨は鋼の刃のように叩きつけ、風は旗を引き裂き、木々を悲鳴のような音で軋ませる。
泥にまみれた斜面は崩れかけ、無数の水流が複雑に絡み合って渦を巻く。
地面が軋むたび、脚元の安定は幻のように崩れ去っていった。
「演習を続行――山頂の旗を奪え!」
教官の声が風雨を裂いて響いたが、その姿はすぐに雨幕の奥へと溶けて消えた。
サイラスは隊列の後方にいた。
濡れた前髪が額に貼りつき、琥珀の瞳が嵐の中で冷ややかに光を反射する。
「くそ、こんな天気じゃ死ぬぞ……カイン、殿軍を頼む!」
仲間が叫ぶが、彼は返事をしない。ただ、鈍剣を握り直し、ひたすら泥濘を踏みしめて前へ進む。
一方、斜面のもう一方――
エドリックは別働隊を率いていた。
金の髪は雨で重く垂れ、紅の双眸は暴風雨の中でなお揺るがぬ炎を宿す。
軍服は肌に張り付き、力強い肩と胸の線をあらわにしながらも、彼の動きは鋭く、どこまでも冷静だった。
「山頂付近、地盤が緩んでる……油断するな!」
低く鋭い声が仲間に飛ぶ――が、その警告は次の瞬間、轟音にかき消された。
「――ッ!!!」
大地が、崩れた。
雷鳴を凌ぐ轟きと共に、山の上から泥と巨岩が雪崩れ落ちる。
切り裂かれた樹木が奔流に巻き込まれ、咆哮する黒い怪物のようにすべてを呑み込んでいく。
斜面が揺れ、足元が一気に崩落する。
エドリックの隊が、滑落と土石流の直撃を受けた。
「殿下――危ないッ!」
仲間の叫びも虚しく、エドリックの脚が岩に挟まれ、抜けない。
視界の端に、死が迫る。
――磨き上げられた巨岩が、天を割って落ちてくる。
圧倒的な質量、抗えぬ速度。避けられない。
「……!」
エドリックの喉が音を失った、その瞬間――
「――掴めッ!!!」
暴風雨を裂く声が飛ぶ。
反射的に目を向けた先に――
琥珀の瞳。濡れた赤の髪。
サイラスだった。
彼の手が、エドリックの手首を強く、強く掴む。
全身の筋肉を軋ませ、暴風雨の中で踏ん張る。
「離すな!」
その声と同時に、挟まれた脚が、泥流に削られるようにして外れた。
だが――
次の瞬間、怒涛の水と土砂が二人を飲み込む。
「ッ……!」
世界がひっくり返り、身体が宙を舞う。
衝撃と冷水と泥濘が肺に入り込み、視界が黒と赤に裂ける。
二人は絡み合うように斜面を転げ落ち――
轟音。
巨岩が彼らのすぐ横をかすめ、大地を粉砕する音が耳を裂いた。
飛び散る泥水が叩きつけられ、全身に鈍痛が走る。
そして――静寂。
嵐の音が、遠のいたように感じた。
遠くで雷鳴が低く唸り、風が梢を裂くように吹き荒れる。
冷たい雨粒が泥と折れた枝を叩き、湿った土の匂いが鼻を刺した。
――身体が、動かない。
サイラスはぬかるんだ泥に沈み、左肩に鈍い痛みを感じた。
軍服は雨で重く貼りつき、肌から熱を奪っていく。
意識を取り戻したとき、視界に映ったのは――
自分の上に覆いかぶさる、黄金の髪と紅の瞳。
「……そんなに必死になるタイプだったか?」
雨音に混じる、低く濡れた声。
エドリックの両腕が頭の両側に突き、脚はしっかりと腰を挟み込んでいる。
完全に、逃げ場を失っていた。
サイラスは眉をひそめ、平坦な声を絞り出す。
「……無意識だ。ただ、身体が勝手に動いただけだ。」
紅の瞳がかすかに揺れる。
その意味を探るように――指先が頬に触れた。
濡れた皮膚をなぞる感触が、顎、首筋、鎖骨をなぞり――止まったのは、左肩の傷口だった。
「……血が出てるな。」
指腹がじわりと沈み、熱が伝わる。
全身の筋肉がわずかに硬直する。
痛みよりも、その指が「離れない」ことに。
「……退いてくれないか。」
冷ややかな声音。だが、返ってきたのは――
「嫌だな。」
即答だった。
サイラスの瞳が細くなる。
拒絶ではない。だが、強引な執着がそこにあった。
次の瞬間、サイラスは肘で突こうとした――が、
遅い。
手首を捕まれ、体勢を崩される。
鼻先が触れ合う距離まで引き寄せられた。
雨音と荒い息だけが、耳に残る。
そのまま――エドリックの腕が腰を回り、強く抱き寄せられた。
「……離れるな。」
低い声が、耳殻に落ちる。命令とも、懇願ともつかぬ響きで。
サイラスは、反論できなかった。
ただ、肩越しの温もりと脈動を感じながら、冷たい雨に打たれていた。
しばしの沈黙の後、彼は静かに告げる。
「俺は……お前の駒じゃない。」
エドリックは笑った――だが、それは嘲りではなく、何かを測るような眼差し。
指先が頬から滑り、左目の端に触れる。
濡れた睫毛に、紅い瞳が映り込む。
「じゃあ、サイラス――」
声は低く、深く沈む。
「お前は何なんだ? 死んだような目で、どうしてそこまで必死になれる?」
返事は、短かった。
「……約束がある。それだけだ。」
「約束、ね。」
エドリックは小さく笑い、囁くように吐き出す。
「……つまらない奴だな。本当に。」
彼はゆるりと身を起こす――だが、その手は耳の後ろをかすめ、
月長石のピアスを指腹でなぞった。
「……派手な飾りだな。」
濡れた唇が、楽しげに歪む。
サイラスは答えず、静かに立ち上がった。
泥に沈む足音だけが、二人の間に残った。
「――サイラス・ノヴァルディア。」
エドリックはその名を、雨音に紛らせるように呟き、唇に笑みを刻んだ。
この駒は、まだ動かせる。