序章《弓弦下の影》
月光が木々の隙間から洩れ、ブレスト辺境の森を白銀に染めていた。
冷たい光は小川の水面をかすかに揺らし、草むらに影を刻む。
獣の低い唸りが、風に乗って遠くから届く。湿った土の匂いに、血の生臭さがわずかに混じっていた。
――弓弦が軋む。
サイラスは川辺に立っていた。
細身の体を静かに構え、長弓を引き絞る。
琥珀色の瞳が、闇に潜む影を射抜いた。
月明かりに照らされたその横顔は、無機質なほど冷たい。
暗紅の髪が夜風に揺れ、左耳の月長石のピアスが、淡い蒼光をひとしずく落とした。
「……」
弦が鳴る。
矢は空気を裂き、音もなく獣を貫いた。
喉奥で短い悲鳴が途切れ、狼は草地に崩れ落ちる。
血が黒く滲み、土を濡らした。
サイラスは弓を下ろし、泥に沈む獲物に近づく。
革靴がぬかるみを踏みしめる音だけが、夜の静寂に溶けた。
膝をつき、獣の首筋に触れる。
温もりが、まだ残っている。
――何も感じない。
指先を離し、無意識にピアスへと触れた瞬間。
木々の奥で、蹄鉄の音が弾けた。
鋭い気配。
サイラスは反射的に振り向き、弓を構える。
弦が張り詰め、矢尻が闇に沈む一点を狙う。
琥珀の瞳孔が細まり、左目の奥で――金色の紋が、かすかに閃いた。
「……!」
すぐに押し殺す。
その光が完全に沈むより早く、枝葉を裂く音と共に、騎馬の影が飛び出してきた。
「やっぱり……お前は、こういう所にいるんだな」
低く笑う声。
月光を背に、黄金の髪が風に踊った。
馬を駆る青年――エドリック。
紅い瞳が暗闇を切り裂くように輝き、口元には余裕の笑みが浮かんでいた。
馬の前足が高く跳ね、泥を散らす。
エドリックは軽やかに鞍を蹴り、地面に降り立った。
濃紺のマントには王家の紋章が刺繍され、腰の細身の剣は革の帯剣に吊るされている。
その立ち姿には、生まれながらの支配者の気配があった。
「……まだその目を隠してるのか」
「…………」
「お前の弓、相変わらずだな」
サイラスは冷ややかに弦を緩め、矢を納める。
淡々と吐き捨てた。
「近づくな」
その声は鋭く、冷たく研ぎ澄まされている。
だが、エドリックは歩みを止めなかった。
一歩、また一歩――。
「……」
その距離が、息遣いを奪うほどに近づいた時。
エドリックの指先が、彼の肩を掠めた。
「成長したな。背も、声も」
低い囁き。
金の髪が触れ、月光が二人の間に落ちる。
サイラスは僅かに身を強張らせ、すぐさま腕を払った。
「やめろ」
吐き出した声は冷たく、だが、その奥で何かが微かに震えた。
エドリックは――笑う。
小さく、楽しげに。
「やめる? ……まだ、足りない」
その言葉を残し、背を向けると、彼は鐙に足をかけた。
振り返らずに言い放つ。
「面白いな、お前」
風がマントをはためかせる。
サイラスは弓を握りしめたまま、木陰に立ち尽くす。
胸の奥で、何かが音もなく弾けた気がした。
――厄介な男だ。
ピアスが月光を受け、淡く煌めく。
森を渡る夜風が、二人の残した気配をさらっていく。