第九章 過去の記憶
僕は夢を見た。
懐かしくて……いや、目を背けたくなるような、そんな夢だった。
「マーちゃん、おはよう~」
高校時代、僕は彼女と出会った。
全身傷だらけなのに、いつも笑顔で「おはよう」と言ってくれる彼女。
顔に新しいアザがあっても、気にするそぶりすら見せない。まるで傷つくことが日常の一部のようだった。
「……付き合ってください。」
ある日、彼女は告白された。
相手の男子の目は真っ直ぐで、彼女も微笑んだ。
その一瞬の彼女は、眩しいほどに輝いていた。
だが、それが――悲劇の始まりだった。
「なにあの女、調子に乗ってんじゃない?」
そう言ったのは、クラスの女子グループのリーダー。
彼女の好きな男子が、よりにもよってあの子に告白したのが気に入らなかったらしい。
それからだ。
陰口、無視、悪質ないじめ。クラス中の空気が一気に冷たくなった。
男子たちも――
最初は他人事だったが、やがて一緒になって彼女を笑い者にした。
もちろん、僕も――
何もできなかった。
「マーちゃんは、私の味方でいてくれる?」
そう言って、彼女は僕を見上げた。
その目は、まるで藁にもすがるような、必死な光をたたえていた。
でも僕は……見て見ぬふりをした。
苦笑いを浮かべて、その場を離れた。
だって、僕まで標的になったら困るから――
そう、僕は自分の保身を選んだんだ。
日に日に、彼女の傷は増えていった。
腕、脚、背中――でも、彼女は笑っていた。
それが、かえって痛々しかった。
「ねぇねぇ、聞いた? あの子、援交してるらしいよ。」
「うわ~、最低……」
そんな噂が流れ始めたのも、しばらくしてからだ。
誰が言い始めたかなんて、誰も気にしていなかった。
でも皆、その噂を信じた。喜んで、信じた。
僕は?
聞こえてないふりをした。
「僕には関係ない」って、耳を塞いだ。
「やっぱりだね、あんなビッチの子供なんて、まともなわけないだろ! 出ていけ!」
噂が家庭にまで届いたらしい。
彼女は、父親に家を追い出された。
彼氏も彼女を捨てたと聞いた。
「こんな面倒な子とはやっていけない」って。
「マーちゃん、手伝ってくれる?」
ある日の朝、彼女は再び僕の前に現れた。
その声は、前と同じ――いや、それ以上に優しかった。
……僕は、いつから彼女の笑顔を見ていなかったんだろう?
思い出せない。
「僕……」
「そっか。ありがとう、松本くん。」
僕が何を言ったのか、もう覚えていない。
でも彼女の微笑みだけは――今でも、脳裏に焼き付いている。
あの時の笑顔は、静かで、どこか……諦めていた。
夕暮れ時、学校の屋上から、誰かが飛び降りた。
彼女を殺したのは、クラスの女子たち?
陰口?
家から追い出した父親?
恋人を捨てた彼氏?
――いや、違う。
彼女を殺したのは……僕だ。
傷に気づきながら、見て見ぬふりをした僕。
助けを求める声を、聞こえなかったふりをした僕。
最後の最後で、彼女の手を握ってやれなかった僕。
僕が、彼女を殺したんだ。
「……」
「……あのジジイの差し金、目を覚ましたぞ。」
目を開けると、見知らぬ天井が目に映った。
天井には照明器具が一つもなく、壁からほんのりとした白い光が漏れている。
仕切りのカーテンも、病院特有の消毒臭もない。
ここが病院、少なくとも普通の病院ではないことはすぐにわかった。
ベッドの傍らでは、隊長とルルさんが何やら話していたが、僕が目覚めたのに気づくと、話を止めた。
「大丈夫、公希君?」
ルルさんはいつもの明るい声でそう尋ねてきた。
いつも通りの笑顔。、いつも通りの裸。さっきの出来事がまるで夢だったかのような、そんな不思議な空気が漂っていた。
僕は……無事だ。
でもその一言が、喉の奥に引っかかって出てこない。
先ほどの恐怖と、夢で見た罪悪感が頭の中をぐるぐると回り、負の感情が脳内を一杯に満たしていく。
何か言葉を返す気力もなくて――
いや、むしろ何かに怒りをぶつけたくて仕方がなかった。
そんな沈黙を破ったのは、黙って僕の様子を見守っていた隊長だった。
「今日は俺の不注意だ。お前たちが傷ついたのは俺の責任だ。」
淡々と、しかし確かな誠意を込めてそう口にする隊長。
「引っ越しのため俺はしばらく寮の結界を解除した、まさかお前の荷物に細工されてた。憑依蛇が紛れ込んでいて、オブシディアンが部屋の掃除をしてる時にそいつに取り憑かれて……お前たちを襲った。」
口調はいつも通りぶっきらぼうなのに、拳をぎゅっと握りしめたその手は、かすかに震えていた。
自分の不始末ではないのに、本気で悔やんでいる――それが痛いほど伝わってくる。
「……彼女は?」
――あの少女。
僕を命懸けで庇ってくれた、彼女のことが気になって仕方がなかった。
夢の記憶が交錯して、いてもたってもいられなかった。
「アイリスならまだ寝てる。でも安心しろ、見た目よりずっと丈夫だ。」
隊長の返答に、少しだけ肩の力が抜けた。
本当なら、ここで「ありがとう」とでも言うべきだった。
けど、僕の口から出てきたのは――
「……どうして、すぐ戻ってこなかったんですか?」
自分でも驚くほどの、冷たい声だった。
少女――アイリス最後の姿が、夢の中のあの子と重なった。
胸の奥に巣食う罪悪感が息を詰まらせる。
その重さに耐えきれず、僕は、全ての鬱を誰かに――他人に押しつけたくなっただけ。
「普段はなんでもできる顔してるくせに……仲間も守れないなんて、どういうことですか……!」
違う。
僕が一番分かってる。
本当は、隊長は誰よりもやってくれていた。
なのに――
僕はその怒りを、罪悪感を、全部、隊長にぶつけてしまった。
「……うん。俺の力不足だ。すまない。」
――違う!
そんなの、聞きたかったわけじゃない。
僕が本当に欲しかった言葉は……
……なんだったんだろう。
自分でも、わからない。
「もういい……ひとりにしてくれませんか。」
「……ああ。」
「じゃあ、公希君。また明日ね〜!」
僕の無茶な八つ当たりに、隊長は怒ることなく、ただ黙って僕の感情のはけ口になってくれた。
その優しさが、逆に僕の胸を締めつける。
こんな僕に、そこまでしてくれる価値なんて――ないのに。
でも、だからといって、拒むこともできなかった。
……僕は、本当に卑怯な人間だ。
隊長とルルさんが部屋を後にした後、再び長い沈黙が部屋を満たした。
孤独の波が、音もなく僕を包み込む。
――少し、外に出よう。
ベッドに腰かけたままじっとしていたが、このままじゃ息が詰まりそうだった。
体に異常がないことを確認し、僕は部屋を後にした。
行き先なんて決めていない。何かしたいわけでもない。ただ、ここにいるのが嫌だった。
寮の玄関を静かに出て、駐車場へと向かう。
八部屋しかない寮だから、駐車場も大した広さじゃないだろうと思っていた。
……が、現実は予想以上だった。
駐車スペースは部屋数の倍以上、警察車両に救急車、工事車両まで止まっている。
どう考えても普通の寮じゃない。けど、まぁ、今の僕には関係ない話だ。
自分の車を見つけ、無言でハンドルを握る。
道路は驚くほど静かだった。普段の賑わいが嘘みたいに、今夜は車も人影も少ない。
時計を見ると、もう夜の十一時を回っていた。そりゃあ、コンビニ以外の店は閉まってるはずだ。
開いているのは、居酒屋やバーぐらいか。
ふと気づくと、僕の車は柳のラーメン屋の前に止まっていた。
ちょうど暖簾を下ろすところだった。
……なぜここに来たのか、自分でもわからない。
誰かに話を聞いてほしかったのか。
愚痴をこぼしたかったのか。
それとも、ただ慰めてほしかっただけかもしれない。
結局、僕はまた――柳に頼ってる。
「どうした、顔色悪いぞ。」
「…ア……ウン……」
車を降り、平静を装って挨拶したつもりだったが、柳にはすぐ見抜かれた。
言葉が出ず、しどろもどろになった僕を、柳は見てすぐに声をかけた。
「入ってこいよ。」
落ち込んでいる僕を見慣れている柳は、すぐに閉店作業を止め、僕を中に招き入れた。
僕が席に着くと、彼は無言で厨房へ消えた。
そして数分後、湯気の立つ一杯のラーメンを持って戻ってきた。
鼻孔をくすぐる香ばしい匂い。
その瞬間、しばらく何の反応もなかった胃が音を立てて動き出す。
そうだ、今日――というか、丸一日何も食べてなかった。
「食えよ。残り物でテキトーに作ったやつだから、味はあんまり期すんなよ?」
僕は飢えた犬のように、夢中でラーメンをかき込んだ。
そんな僕を見て、柳は呆れたように肩をすくめた。
「まったく、お前は昔から悩むと飯を忘れる癖があるな。」
……それは、確かにそうだった。
たしか、高校で初めてテストで赤点を取ったときもそうだった。
何も食べる気がしなくて、柳が無理やり連れて行ってくれたのが牛丼屋だったか、マックだったか――
そして今は、このラーメン屋。
時間は経ったけど、何も変わってない。変わらず僕を支えてくれる、柳という存在。
まあ、今回は忘れてたんじゃない。
ただ、眠ってただけだ。
淡い塩味のスープに、微かな醤油の苦みと炙ったチャーシューの香ばしさ。
これが柳が何年もかけて作り上げた味だ。
別に世界一のラーメンってわけじゃない。
けれど――
空っぽだった僕の心に、確かに沁み渡る、救いの味だった。
温かなスープと麺が喉を滑り落ちるたび、空っぽだった胃が少しずつ満たされていくのがわかった。いや、それだけじゃない。張り詰めていた神経まで、ゆるゆるとほぐれていく感じがした。
柳は、何も聞いてこなかった。詮索も、気休めの言葉もない。ただカウンターの端で、いつも通りに布巾で拭いたり、調味料の瓶を並べ直したりしているだけ。だけど、その何気ない仕草や静けさが、妙に落ち着く。
こういう距離感って、本当にありがたい。そっと寄り添ってくれるけど、踏み込みすぎない。今の僕には、それがいちばんの優しさだった。
……僕には、柳に話せないことが多すぎる。
あの異常な世界のこと、仲間を怪我をさせること、死にかけた恐怖......そして、自分でもどう処理していいかわからないほどの罪悪感。胸の奥に積もったそれらが、喉までせり上がってくるのに、言葉に変えることができなかった。
やがて、気がつけばスープまで飲み干していた。空になった丼をカウンターに置いて、長く、深いため息をつく。まるで身体の奥から毒が抜けていくような、そんな息だった。
「……少しは、落ち着いたか?」
水音の向こうから、柳の声が届いた。背中越しに、いつも通りの、静かな声。
「……ああ。」
掠れた声で返しながら、自然と口から言葉がこぼれた。「ありがとな、柳……ラーメン、すげぇ美味かった。」
「ああ。」
柳は振り返ることなく、淡々と返事をする。
やがて水を止め、手を拭きながらこっちを振り返った柳は、特に表情を変えないまま、まっすぐ僕を見た。
「松本。」
「ん?」
その口元が、かすかに動いた。ほとんど気づかれないくらい、でも確かにあった。優しさにも似た、だけどどこかぶっきらぼうな、あいつらしい笑み。
そして、柳らしい言い回しで、こう言った。
「泣きたいなら泣くでもいいが、次またそんな喪家の犬みてぇな面してラーメン食いに来たら、叩き出すからな。」
……不意を突かれて、ぽかんとした。だけど次の瞬間、気がつけば口元が緩んでいた。
乱暴で、不器用で、だけどあたたかくて。心の中にあった重いものが、ほんの少しだけ、軽くなった気がした。
……そうだ。
少なくとも、僕にはここがある。
そんなふうに「叩き出してくれる」誰かが、ここにはちゃんと居るんだ。
「そういえばさ、松本。ラーメンも食い終わったことだし、そろそろ払ってもらおうか?」
「……いくら?」
まさかとは思ったが、柳の口元が不穏に吊り上がるのを見て、嫌な予感が全身を走った。しかもその予感、たぶん十中八九、当たる。
「金なんて誰が言った? うちのバイトが急に明日来れなくなってな。仕込みが間に合わないんだよ。」
やっぱりな。
「お前、まだ本格的に仕事始まってねぇんだろ?だったら今夜はうちに泊まって、明日の朝から働け。さっきのラーメン一杯の代償、ちょうどいいだろ?」
「マスター、松本君は……大丈夫だったの?」
オブシディアンの一撃をくらったあの直後、私の意識は急激に遠のき、その後の記憶はほとんどなかった。
ただ、かすかにルル姉の力を感じた気がして、それで大丈夫だろうと信じていたけど――やっぱり、自分の目で確かめないと安心できなかった。
夜中に目を覚ました私は、すぐにマスターの部屋へと向かった。
三階の奥にある白いドア。少しひんやりとした空気を感じながらそっと扉を開けると、そこには、作業台の上に静かに横たわるオブシディアンの姿だけがあった。
……マスターは?
どうやら、ルル姉の攻撃で損傷した部分を修復している最中らしい。でも、肝心のマスターの姿が見当たらない。
「アイリス、起きたのか?」
振り向くと、マスターが隣の部屋から出てきたところだった。
手には紙箱を抱えていて、その中には魔石や水晶がぎっしりと詰まっている。なるほど、材料を取りに行っていたのか。
彼は箱を作業台に置くと、蛍光緑の瞳で私をじっと見つめた。
……この色。
「第三特務小隊」に入ってから、私は何度もこの光を見てきた。
戦場でも、診察でも――マスターが人の状態を確かめるときに使う、あの診断術式だ。本人ですら気づかないような小さな異変も、この優しい目は見逃さない。
しばらくして診断を終えると、彼の瞳はいつもの深い紅色に戻る。強くて、暖かくて、どこか安心できる、私が一生ついて行こうと決めた「炎」の色。
「それで、俺に何か用か?」
「はい!松本君のことが気になって。あと、できれば、襲撃してきた相手のことも知りたくて……」
……もちろん分かっている。
松本君の周りには、予言のせいで多くの目が向けられている。中には、私には教えられないような上層の人間や、危険な存在も混じっているのだろう。
だから、無理に聞き出そうとは思わない。知るべき時が来れば、マスターはちゃんと教えてくれる。
それまでは――私が、自分の力でそこまで辿り着けるようになるまで、ただ進むだけだ。
「あれは、『第一』のあのクソジジイがどこからか連れてきたチンピラ術士だ。手際は良くて痕跡も残してなかったが……まあ、腹いせにあいつらの事務所を壊しておいた。」
マスターは意外にも、あっさりと襲撃者の正体を教えてくれた。
なるほど、「第一」の隊長は、以前から「危険因子は芽のうちに摘むべき」と主張していた人物で、松本君がこちらの世界を知るより前にも、すでに何度か刺客を差し向けていたらしい。私自身、何度かその後始末にあたったこともある。
でも──
「傀儡師は、松本君にはもう手を出さないって、誓約を交わしたはずですよね?どうやってそれを破ったんですか?」
一度誓約を交わせば、それを破ることは不可能なはずだ。本人の意志とは関係なく、誓約に反する行為を取れば、最悪の場合、魔力をすべて失うか命すら落とす危険すらある。
そんな彼が、誓約を破るなんて……何か抜け道を見つけたとでも?
だが──
「考えすぎだよ。松本はまだ『第三特務小隊』の正式なメンバーじゃなかった。それに、手を下した奴も『第一』の所属じゃない。ただそれだけの話さ。」
そう言って、マスターは私とは対照的に感情を表に出さず、淡々と続けた。「さすがはあの老害、やることが本当に下衆い。」
「……まぁ、今はもう正式にうちの隊に入ってくれたし、これからは手出ししてくる連中もだいぶ減るだろう。しばらくは、お前にも苦労かけたな。」
──これで少しは楽になりそう、かな。
「それで、松本君の様子は?」
一連の襲撃の話が一段落したのを見計らって、私は再び松本君のことを尋ねた。
引っ越し初日にあんなことが起きてしまって……彼の心に傷が残らなければいいのだけど。
「もう目は覚めてる。身体には異常はないが、精神面がかなり不安定だ。今は友人のラーメン屋にいる。今夜は多分、戻ってこないだろうな。」
「えっ、それは──それならすぐに──」
精神が不安定な中で、守護結界もない場所に一人で外泊なんて、危険すぎる!一刻も早く連れ戻さなきゃ……!
けれど私がそう言いかけた瞬間、マスターが軽く手を挙げて制止する。
私は言葉を呑み込み、そのまま静かに部屋の隅に立ち尽くした。
──マスターは、決めていないことを第三者に多く語る人ではない。
でも、それでも今回ばかりは少し違う気がする。
なぜ松本くんを行かせたのか。そこには何かしらの考えがあるはず。
それを理解しなければ──。
なかなか部屋に戻ろうとしない私の様子を見て、マスターは私の意志の固さに気づいたのだろう。切られたオブシディアンの腕を器用に修理しながら、落ち着いた声で口を開いた。
「松本には既に俺の部下を向かわせてある。護衛はついてる、心配しなくていい。」
「マスター、話を逸らさないでください。私が本当に聞きたいこと、分かっているでしょう?」
「……」
手の動きが止まり、深紅の瞳がふとこちらを見上げた。その瞳と目が合った瞬間、空気が一気に静まったような気がした。しばしの沈黙の後、マスターは小さく息を吐き、観念したように呟いた。
「――松本を小隊から外して、一般人としての生活に戻すよう、上層に提案するつもりだ。」
「……えっ?」
あまりに予想外な言葉に、頭の中が一瞬真っ白になる。やっとのことで声を絞り出した。
「……そんなこと、できるんですか?」
マスターは落ち着いた口調で答える。
「理屈の上では不可能じゃない。上と交渉するための材料ならいくらでもあるし、天虎家と宝亀家の当主は俺の古い友人だ。協力を仰げば道は開ける。」
「……そこまでして、やる価値があるんですか?」
天虎家と宝亀家。関西と北方を支配する古き大族を動かすことが、そう簡単な話ではないのは私にも分かっている。マスターが払う代償は、私が思っている以上に大きいはずだ。
――たった一人の新人のために、そこまでするなんて。
「……アイリス。」
マスターは私の疑念には答えず、代わりに懐かしい問いを投げかけてきた。
「お前、覚えてるか?俺が最初、お前を小隊に入れるのを止めた理由。」
「……ええ、覚えてます。」
あのときの言葉は、十年以上経った今も私の心に深く刻まれている。あれがあったからこそ、私はマスターについてこの世界へ来たのだ。
「松本も、元はお前と同じく普通の人間だった。ただ、彼はお前と違って、まだこっちの覚悟を決めていない。その覚悟がないのなら、平穏な生活に戻るべきだと思っている。」
マスターの声音は変わらず静かで穏やかだった。けれど、その言葉の奥にある決意は、誰よりも強く確かなものだった。きっとこれは、今日突然思いついたわけではない。もっと前――おそらく、松本君が初めてこちらの世界に足を踏み入れたその瞬間から、もう決まっていたことなのだ。
「……でも、早すぎませんか?松本君が本当にこの世界に適応できないって、まだ決まったわけじゃ――」
私の反論に、マスターは薄く微笑んで応じた。
「松本が本当に我々に加わるのなら、今日のような出来事は遅かれ早かれ、彼一人で向き合うことになる。
──そして、もし彼が自分の中の傷を乗り越えられないなら、それは彼自身にとっても、俺たちにとっても危険なんだ。」
「……分かりました。」
マスターの部屋を出て、私はふっと微笑み、そっとポケットの中から一つの御守りを取り出した。
かつて私が正式に部隊へ加入した際、マスターが手渡してくれたものだ。
幾度もの戦いを潜り抜けたその御守りは、すでに表面の呪文がほとんど剥がれ落ち、護符としての効力もとうになくなっている。
けれど、それでも——いや、それだからこそ——私は今も大切に持ち続けている。
これはただの護身具じゃない。
私にとっては、あの日の言葉そのものなのだ。
……今も耳の奥に残っている、マスターの静かな声。
「無理をする必要はない。
俺たちの存在は、お前たちが、平穏な日々を過ごせるようにあるんだ。
だから、無理なんてしなくていいんだよ。」




