第十七章 礎紋学院
隊長は僕に入学の準備を命じて以来、まるで繁忙期に突入したかのように、毎朝早くから出かけ、夕食時にやっと姿を見せる程度になっていた。
一方の僕も、この数日間はずっと千尋さんについて回り、この世界の知識を学びつつ、基礎的な法術の練習を重ねていた。
僕にさまざまな系統の術を触れさせ、得意分野を探り出すためらしいが、千尋さんの教える内容はかなり幅広い。東洋も西洋も入り混じり、小さな光の球をいくつも生み出す「点光」や、物をふわりと浮かせる「ウィンガ〇ディウム・レビオーサ」まで。
もっとも、基礎法術だからか、長くて舌を噛みそうな呪文や、目が回るほど複雑な魔法陣は必要なかった。
短い詠唱と、いくつかの決まった手の動作だけで、すんなりと発動できてしまうのだ。
おかげで僕のような新参者でも、半日もあればいくつも身につけられるほど。あまりの簡単さにホ〇ワーツに通えるんじゃないかと思ったくらいだ。
最初は魔力の消耗に体が慣れず、疲労や脱力に襲われることも多かった。だが、この数日の練習で副作用にはすっかり順応してしまった。今では気を失うどころか、疲れることさえない。せいぜい、少し早めに腹が減る程度だ。
こんな日々がもう少し続くと思っていたのに――変化は、意外とあっさり訪れる。
その日、珍しく隊長が昼食の時間に帰ってきたのだ。腰を下ろす間もなく口を開く。
「千尋、松本の進み具合はどうだ?」
「松本坊の適応力は立派なものですよ。魔力消耗にも慣れたし、学びも早い。ほんに賢い、ええ子や。」
実年齢は僕より遥かに上なのを知っていても、小さな少女の姿をした千尋さんに「いい子」と褒められるのは、どうにも気恥ずかしい。
僕は苦笑で誤魔化すしかなかった。
満足げに頷いた隊長の口元がわずかに緩む。
そして僕に向き直り、短く告げた。
「松本、今日は早めに休め。明朝六時、お前を学園に連れて行く。」
翌朝、僕は隊長の指示どおり、大広間で早々に待機していた。
「……おはよ」
ほぼ指定の時刻になった頃、隊長は欠伸を噛み殺しながら、のんびりと階段を下りてきた。
僕の準備を一瞥で確かめると、彼は即座に転移陣を展開する。
瞬きする間もなく、景色は一変した。
四方を覆うのは鬱蒼とした木々。幾重にも重なる樹冠を透かして陽光が降り注ぎ、苔むした大地に神聖な金色の斑を散らしている。
その奥、学院は俗世から隔絶されたかのように静かに佇んでいた。
学院を囲むのは、大人二人分ほどの高さの石壁。
それは現代的なコンクリートではなく、古の城郭を思わせる荘厳な造りだった。
数え切れぬほどの石材は鏡のように磨き上げられ、髪の毛一本も通さぬ精度で積み上げられている。その姿はまるで沈黙の巨竜。左右へと無限に延び、その端は深い森に呑まれて、どこまでも見えなかった。
唯一の入口は、入母屋造の瓦屋根を戴いた二層の楼門。
巨大な扉に掲げられた木製の扁額には、力強い筆致で「礎紋学院」と刻まれている。
「す……すげぇ!」
学院は、古神を祀る神殿のようであり、外敵を拒む城塞のようでもあった。
威厳と神秘と畏怖を併せ持つ、絶対的な美がそこにあった。思わず息を呑み、声が漏れる。
「離れるな。まだ入学手続き前のお前は、俺から離れれば侵入者扱いだ。」
スマホを取り出しかけた僕に、すでに歩を進めていた隊長が振り返りざまに冷たく告げる。
「侵入者の排除速度には自信がある。」
タッタッタッ──!
……僕は初めて知った。
文系の僕でも、命懸けなら本気で走れるんだと。
まさしく、文字通りの「一生懸命」で。
学院に足を踏み入れると、隊長は室内履きに履き替えることもなく、そのまま廊下を進んだ。
しかし不思議なことに、泥で汚れているはずの靴底は一つの跡も残さない。
どうやら目に見えぬところで自動清掃の術式が働いているのだろう。
床には風属性の紋様が刻まれており、僕の浅い知識で判断するなら歩行を速くになれるの小型加速術式だと思う。
「ここが……俺の母校だ」
しばらく歩いたのち、前を行く隊長がぽつりと呟き、学院の説明を始めた。
外からでも城壁の果てが見えず、相当な敷地規模だとは察していた。だが、隊長の話を聞くと僕の想像のさらに上をいくらしい。
……というか。
「学内では必ず携帯用の連絡符を持ち歩け。さもなくば、迷って餓死しかねん。」
って、え、ちょっと待って!?
それ学院紹介のときに真っ先に言うべき説明じゃないですか隊長!?
ていうか餓死って何だよ!
ここ、学校だよな!?
が、隊長が僕を無視して説明を進む。
校舎はすべて、層を重ねるように造られた巨大な木造建築。
各階には独立した、外へ張り出す優美な懸山造の瓦屋根。深灰色の瓦が幾重にも連なり、雪のように白い壁、そして濃褐色の梁や窓枠が織りなすコントラストは、重厚にして調和している。
いくつもの高層校舎は、宙に浮かぶ木造の渡り廊下で結ばれ、まるで蟻の巣のような群落を形成していた。
その合間にあるのは、競技場、修心池、術式訓練場……いずれも高校時代のグラウンドの三倍、いや四倍はありそうで、知らない人が見ればただの荒地にしか見えないだろう。
隊長に連れられ、俺たちは校務室へと辿り着いた。
「入学手続きはすでに済ませてある。あとは入学説明を受けたら、すぐ授業に出られる」
「お疲れ様です。じゃあ授業が終わったら連絡して迎えに来てもらえばいいですか?」
「理事長に用がある。学院にはしばらく滞在するから、終わったら待っていればいい」
そう言って隊長と別れ、僕は一人で校務室に入る。
……案の定、ここも規模がおかしい。数十名の職員が、分厚い書類を抱えて小走りに移動したり、机に張り付いて恐ろしい速度でキーボードを叩いている。
「すみませんが、今日から初級班に転入予定の松本公希さんですか?」
犬耳を生やした青年がこちらに駆け寄ってきて、身分を確認してきた。
「はい、そうです。」
「ようこそ礎紋学院へ。私は職員の白丸です。」
彼の言葉遣いはくだけていたが、不思議と嫌味がなく、むしろ旧友のような親しみを覚えさせるものだった。
「よろしくお願いします。」
「第三小隊で多少は聞いていると思うけど、一応規則だから簡単に説明させてもらうよ。我慢して聞いてくれ。」
説明会は三十分ほどで終わった。内容基本は学院の基本情報やルールなど。
例え、学院が年齢ではなく能力ごとに「上級・中級・初級」に分けられること、試験に合格すれば随時昇級できること、初級では基礎課程が統一されていること、中級からは志望や能力に応じた専門課程を選択すること――などなど。
なかでも強調されたのは「特殊教室」の存在だった。
結界で保護され、許可なく入ると脱出できない。実際に中で餓死した例もあるという。
……だから隊長は「必ず連絡符を持て」と言ったのか。
いや待て、それってシステムとしてどうなんだよ!?
最初から入れないようにした方が安全じゃない!?
もしかして――わざと、なのか?
……いや絶対、わざとだコレ!!
説明が終わると、白丸さんから紙箱を手渡された。中には教科書数冊、制服二着、空白の符紙数枚、そして――玄武の図案が描かれた符紙。
どう見ても、これがさっき説明された「連絡符」だ。
中身を確認したあと、白丸さんは俺を教員室へ案内し、担当教員へ引き渡す。
「おう、新入りか。初級班へようこそだ。お前のことは聞いとるぞ。この世界に来たばっかで、右も左も分からんだろう?大変だったなあ。」
松本が校務室へと向かったのを見送ったあと、俺は記憶を頼りに校舎の最奥――学院長室へと足を運んだ。
コン、コン。
「入りなさい。」
扉を開けた瞬間、視界に広がったのは、記憶のままの光景だった。
礎紋学院の学院長室。それは「執務室」というより、まるで私設の書庫。天井まで届く古びた本棚が壁一面を埋め尽くし、紙と墨の香りが静かに漂っている。
巨大な机の向こう側には、一人の青年が座っていた。
白い着物に深緑の羽織を纏い、眼を閉じたまま優雅に茶を啜る姿。
この男こそ、俺が会いに来た人物――礎紋学院の学院長にして、四大家のひとつ「宝亀家」の次期当主、宝亀和也。
軽く挨拶を交わし、俺は彼の正面に腰を下ろす。
「……それで」
和也先輩は茶碗を置き、静寂を破った。透き通るように柔らかな声。だが、その奥には戯れにも似た色が潜んでいる。
「わざわざ『予言の子』なんて愉快な存在を、うちの学院に送り込んだ……その狙いは、一体何かな?」
俺はその調子に乗せられることなく、薄い書類を机の中央へと滑らせた。
「宝亀家の資源を使い、松本公希の『資質』を徹底的に解析してほしい。」
その一言に、和也先輩の笑みが掻き消える。
眼がゆっくりと開かれ、深淵のような瞳がこちらを射抜いた。
空気が張り詰める。今、この場にいるのは「当主」としての彼だ。
「……その見返りは?」
予想通りの問い。
俺は指先で書類を軽く叩く。
「中を見てみろ。」
和也先輩は一度こちらを値踏みするように見てから、書類を手に取った。
そして、文字に目を落とした途端、その瞳が大きく見開かれる。
――そこに記されていたのは、常識を覆す一文。
「対象:松本公希。
登録試験において、八級異常物《滝鱗》を媒介とし、わずか一瞬で水の太古精霊『ルルカリ・キトカロス』から水の支配権を奪取。」
「……ッ!」
やはりな。
「詳細な映像データはこの後送る。」俺は口角をわずかに吊り上げる:「『知識』と『真理の探究』を尊ぶ宝亀家にとって、既存の概念を覆す生きた『パラドックス』。これ以上ない研究対象だろう?」
一瞬の沈黙。部屋を支配する静謐の中、俺は茶を啜りながら返答を待った。
やがて、和也先輩は背もたれに身を預ける。
「当主」の仮面は霧散し、学生時代から変わらぬ軽薄な笑みが戻る。
「……なるほど。価値は理解した。だが――」
茶碗を弄びながら、唇の端を吊り上げる。
「俺が『助ける理由』は、どこにある?」
その姿に、俺も思わず昔を思い出し、微かに笑みを零す。
「俺がお前を助けたこと。そしてお前が俺に助けられたこと。……それで足りないか?」
数拍の沈黙ののち、和也先輩は肩を揺らし、くつくつと笑い声を漏らした。
張り詰めていた糸が、ようやく解ける。
「……十分だ。」
彼は印章を取り、契約書に名を刻む。
「まったく……お前は昔から、厄介ごとを俺に押しつけるんだからな、冬千。」
「厄介だからこそ、頼れるのはあんたなんだよ、和也先輩。」
契約は静かに成立した。
――だが、これは始まりに過ぎない。松本のあの異質な力の正体を暴くための。
ふと、和也先輩が意地の悪い笑みを浮かべる。
「そうだ、冬千。もし天虎が知ったらどうなるだろうな。お前が真っ先に俺を頼ったと知ったら、あいつ、拗ねるんじゃないか?」
あの人のことを思い出すと俺は深く息を吐いた。
「……間違いなくな。」
絶対にな。