第十二章 僕の決意
「運命の糸は罪の線を編み込む。まずは幼子、次いで母親。歪んだ宿命よ、我が令に従い此処に縛されよ。」
隊長は現れるなり咒文を唱えた。すると、漆黒と銀白の糸が無数に空中から射出され、意思を持つかのように彼女の手足へと絡みついた。わずか数秒で、彼女の身体は宙に縛り上げられた。
「た、隊長!? どうしてここに……?」
商店街の半分以上を幽霊に追いかけられていた僕は、最初に別れた場所からかなり遠くへ逃げてきたはずだ。なのに、どうして背後から現れるんだこの人は。偶然で済む距離じゃない。
隊長は、特に隠す気もないらしく、あっさりと答えた「ずっと後をつけてた。」
そして、口の端をわずかに上げて、軽く笑いながら続けた。
「次また幽霊見て真っ先に逃げたら、闘技場に放り込むぞ。勝つまで出られないからな。」
……隊長、鬼か。
いや、でも初見であんなの見たら逃げるのが普通だって!逃げるのが悪いみたいな言い方、ひどすぎる!
とはいえ、隊長が来てくれたのなら、この幽霊の無念もきっと成仏させてくれるだろう――そう思って、僕は期待を込めて頼んだ。
「隊長……この人、助けてあげられませんか?話を聞いてたら、ちょっと可哀想で……」
だが、意外なことに、隊長はあからさまに嫌悪感を浮かべて、即座に首を振った。
「ヤだ。こいつに手を貸す気はない。助けたいならお前がやれ。」
「え、なんで……?」
あまりに意外な反応に、思わず口をついて出てしまった問いかけ。
隊長は冷笑を浮かべて、吐き捨てるように言った。
「お前がこいつを助けるだと? なら、こいつが殺ったもう一つの命の代償は誰が払う?」
……え?
何のことだ?
「『まずは幼子、次いで母親』――それが、死んだ順番だ。死んだのはこいつだけじゃない。もう一つは、ただまだこいつを探しに来る時間がなかっただけだ。」
隊長の言葉に合わせるように、彼の足元に、ふわりと白く淡い光の影が現れ始める。
幼子?
正直、最初は意味がわからなかった。
でも、その白い塊の輪郭が徐々に鮮明になるにつれ、僕の背筋に氷の杭が突き刺さるような悪寒が走った。
それは――
血に濡れ、まだ完全な形を成していない、透けるような体を持った赤ん坊だった。
ぐちょりとした音を立てながら、這うようにして隊長の足に縋りつく。顔はぐちゃぐちゃに潰れていて、口の辺りは真っ黒な空洞。その口が、意味を持たないように、ぱくぱくと開閉していた。
思わず一歩後ずさる。
そこでようやく、さっきの女の幽霊が口にしていた一言を思い出した。
――あの男……私を騙して、妊娠させてと
「復讐を口にする資格が、お前にあるのか?」そう呟いた隊長は、静かに身を屈め、小さな肉塊をそっと抱き上げた。その眼差しは驚くほど優しく、慈しみに満ちていた。
純白のコートに赤黒い血が染み込んでいく。それでも彼は一切気にする素振りを見せない。
隊長の腕の中で、まだ形も不完全な小さな命がもぞもぞと動いた。空洞のような黒い目が、宙に浮かぶ彼女の眼差しと交わった。
その瞬間――
血のように赤い涙が、彼女の頬を伝い落ちた。
「や、やめて……見ないで……っ!」彼女は一気に動揺し、顔を背けた。目を合わせようとせず、視線を逸らしながら口早に言葉を並べる。その声は、怯えと後悔が入り混じっていた。
だが――隊長は、容赦しなかった。
「見てみろ。この子も確かに命だった。お前の腹の中で、外の世界の声に耳を澄まし、これからの未来を待ち望んでいた。」
彼の声は、いつになく鋭かった。「それを、殺したのは――お前だ。」
淡々とした口調なのに、鋼のような冷たさがにじむ。鋭い一言一言が、空気に針のように突き刺さっていく。
「人を呪う前に……まずは、自分の血であるこの子に、何か言うべきじゃないか?」
それは、咎めというより――裁きだった。
今までの隊長は、どれだけ口が悪くても、どこかに余裕や茶化しが混じっていた。けれど、今この瞬間だけは違う。彼は怒っていた。この小さな命に対して――あまりに無残な死を強いられた、その行為に対して。
静まり返った商店街の中で、隊長の言葉が、刃のように重く響いた。
「……ああ、ああ――ッ!」隊長の言葉に追い詰められた彼女は、突然わんわんと泣き出した。あまりにみじめな姿に、思わず哀れみが湧きそうになったが……それでも、彼女がまったくの被害者とは言えない現実もある。
だから、僕には何もできなかった。ただ立ち尽くすことしか。
周囲には、彼女の嗚咽だけが響いていた。
……だが、しばらくして泣き声が止むと、今度は彼女が、狂ったように笑い出した。ぞわりと背筋に冷たいものが走る。
その笑い声には、もはや正気の欠片もなかった。そして、口から吐き出された言葉は――「そうよ、私は悪くない……悪いのは、私を騙した奴らよ。私は……みんなを殺してやる!」
太陽は厚い雲に覆われ、商店街は急速に冷え込んだ。真夏の昼間だというのに、空気は重く、肌を刺すような寒気すら感じられる。
四方八方から、薄闇のような影が女の霊へと集まっていく。もはやただの恨みを残した霊ではない――この世に災厄をもたらすものへと変貌しようとしていた。
不満、怨嗟、怒り……その負の感情の奔流が、肌を通して心にまで食い込んでくる。
不意に、僕の心に変な考えがよぎった。
「ちっ……怨霊化かよ!」隊長が舌打ちすると同時に、白銀の日本刀を虚空から抜き放った。
それは霧のような冷気を纏い、曇り硝子のような刃を持つ刀だった。雪を思わせる純白の刀身、霜のような刃紋、そこから放たれる凍てついた殺気――一振りするたびに氷の破片が舞い、空気そのものを凍らせるかのようだった。
「さっさと成仏しろ。さもないと、この場で斬り捨てる。」ぞっとするような静けさの中、隊長が静かに告げる。
「隊長待ってください!」僕はとっさに叫んでいた。
確かに、彼女がまったくの無実だとは思わない。でも、騙されて、絶望して……それで流産してしまった彼女を、簡単に「悪」として断罪できるかと言われれば、それもまた違うと思った。
せめて、彼女に――「もう一度、やり直す」機会を与えてほしかった。
「僕に……やらせてください。」
その言葉に、隊長がじっとこちらを見た。
真紅の瞳が、まるで僕の中を覗き込むかのように、鋭く見据える。その視線に晒されているだけで、心臓の鼓動が倍になった気がする。
だが、次の瞬間。
彼の口元に、ほんのわずかに――それこそ幻のように笑みが浮かんだ。
紅の双眸に、猫が興味深げに獲物を眺めるような――そんな悪戯めいた光が走った。
「好きにしろ。何かあっても、尻拭いはこっちでやる。」
そう言って、隊長はすっと刀を納め、僕の横を通り過ぎて後ろへ下がった。そして、壁際に寄りかかりながら腕を組み、明らかに「見物モード」に入った。
けれど、その目の奥に……ごくわずかだが、何かが灯っていた。
――認められた、そんな気がした。
「隊長にもらった三級の鈴があるんだ。大丈夫、きっと何とかなるさ。」自分に言い聞かせるように、軽口を叩いて気を紛らわせるつもりだが、
「……三級?」隊長は訝しげに眉をひそめ、こちらをじっと見据えてきた。「そんな等級、聞いたことないぞ?あれは良くて五級ってとこだ。誰が三級なんて言った?」
こんな時に妙な感情だけど、ちょっとだけ優越感を覚えてしまった、長にも知らないことがあるんだ!
「え―と、引っ越す前の日に来た襲撃者が言ってたんですけど……」
率直に答えつつ、少し不思議に思う。隊長って、心が読めるんじゃなかったっけ?
「読心術ってのは、万能じゃない。お前の脳みそを最初から最後まで全部スキャンできるわけじゃない。」
ああ、なるほど。確かに、漫画やアニメみたいにはいかないのか。
「……面白いじゃないか。」隊長はふと呟くと、唐突に声を張り上げた。「お前、アイツを助けるつもりだったんだろ?ぐずぐずしてると手遅れになるぞ。」
え、なんでそんなに急かすの?とは思ったが、今はそれどころじゃない。
目の前では、女の霊が狂気の渦に飲まれつつあった。
怨念がまるで墨を溶かしたように四方へ滲み出し、空気すらも黒く染め上げていく。胸が締めつけられ、呼吸すらままならなかった。
けれど──その怨念が現れる瞬間、なぜか分かってしまった。
……これなら、僕に扱える、少なくとも使い方が知っている。
昨日の夢の中でも感じた、あの圧倒的な孤独。
捨てられたこと。裏切られたこと。言葉にすらできない痛み。
その負の感情の奔流に、僕は飲み込まれなかった。むしろ、それはまるでどこかで繋がっているかのように、僕の中に溶け込んできた。
──触れられる。
そんな確信が、なぜか胸に芽生えた。
僕が手を差し出した瞬間、世界は突然色を失った。
音も、熱も、風も、すべてが静止し──気づけば僕は、彼女と細い「糸」で繋がれていた。
それは怨念と感情で織られた、目には見えない「道」。
次の瞬間、景色が一変する。
漆黒の水面。
どこまでも広がる暗闇。
空気はねっとりと重く、まるで心の中に閉じ込められたような、沈んだ世界。
──ここは……彼女の精神世界?
やがて、その中心で膝を抱えて震える彼女の姿が見えた。
ボロボロに裂けた服、乱れた髪。顔は膝にうずめられ、絶望の色が空間そのものを染めていた。
僕は引き寄せられるように、彼女に近づいた。
「……あなた、誰……?」
彼女は、か細い声でそう尋ねた。
「……僕は……松本公希。」この空間に響く自分の声は、まるで遠くの誰かのもののように空虚で、歪んで聞こえた。
「君を……迎えに来たんだ。君の名前は……?」
「……真由佳……一野真由佳……でも、もう……帰る家なんて、ないの……」彼女はかすれた声でそう呟き、かぶりを振った。
「愛してた……本当に。だから、信じた……彼の言葉を……。それで、家族とも縁を切って……」言葉が途切れ、また溢れ出す。
堰を切ったようにこぼれ落ちるのは、きっと彼女が胸の奥にしまい続けていた断片たち――それは、沈んだ深海から引き上げられた、痛みの記憶の破片。
「でも……騙されて、捨てられて……世界中から見捨てられて……お腹の子さえ……守れなかった……」彼女の声は、水の底から響く泡のようにか細く、儚かった。
僕はそっとしゃがみ込み、彼女と目線を合わせる。
「でも……君には、まだ残ってるものがある。君の名前も、君の記憶も。そして……君の中で生まれるはずだった、今も君のそばにいる、ちいさな命も。」
僕は静かに手を伸ばし、彼女の胸元にそっと触れる。
そこは、最も怨念が渦巻く場所。そして、その奥に小さく温かな光が脈動していた。
「君は、独りじゃない。たとえ世界が君を見捨てたとしても……あの子だけは、君を離れなかった。」
その光は徐々に形を成し、やがて小さな赤ん坊の姿となって現れた。
その子は、震える手で母に触れようと、そっと腕を伸ばす。
真由佳の瞳が揺れる。
「……私……本当に……赦されるの……?」
「何を問おうとしてるんだ?救いか?許しか?それとも……もう一度、誰かに愛されることか?」
彼女は僕を見つめる。その瞳に、ようやく曇りが晴れ始めていた。
まるで、初めて俺という存在を真正面から「見た」ように。
僕は深く息を吸い込んで、言葉を紡ぐ。
「君が望むなら――どんな姿になっていても、僕は信じる。君は、あの時愛を信じていた、優しい君自身なんだって。」
光はさらに強くなり、赤ん坊は彼女のそばに這い寄り、小さな指でそっと彼女の手を握った。
その瞬間、彼女の肩が大きく震え、堰を切ったように涙が溢れた。
それはもはや怨嗟の涙ではない。
――赦しと、愛に触れた者の涙。
「ごめんね……本当に……ごめんね……」
彼女は子を抱きしめ、その身体を震わせながら、何度も、何度も謝った。
その顔からは、かつての醜く歪んだ怨念が徐々に消えていく。
そして、辺りに漂っていた闇もまた、静かに霧散していった。
――やがて、空間が透明になり、淡い光が頭上から降り注いだ。
それはまるで、天の扉が静かに開かれていくかのようだった。
彼女はそっと立ち上がり、赤子を胸に抱いたまま、深々と僕に頭を下げる。
「ありがとう……」
真由佳の声が、どこか懐かしく優しく、耳元で響いた。
最後にもう一度見た彼女の瞳には、もはや怨念の影はなく――
ただ、穏やかさと安らぎがあった。
僕は一瞬、呼吸を忘れるほどの衝撃とともに現実へと引き戻された。
目の前の怨霊はもう消えていた。
代わりに残っていたのは、澄みきった空気と、雲間から差し込む光だけ。
少し離れた場所に、隊長が壁にもたれながら立っていた。
手には白銀の刀を持ち、くるくると弄んでいる。
その表情に、驚きは見られなかった。
まるで、最初から全て見えていたかのように。
「……思ったより、ずっと大きな力を持ってるじゃないか。」
彼は静かに言った。
「……僕、さっき……なんか変なこと、してました?」
「一つの魂を救った。……同時に、お前自身もな。」
俺は彼の紅い瞳を見つめたまま、思わず口をついた。
「隊長……僕、少しは……役に立てましたか?」
「……ほんの少しだけな。」彼は冷たく言った。
――思わず、苦笑する。
だけど。
それでも心の奥底から、何かが少しだけ確かに変わったと、そう思えた。
「……隊長。僕を正式に……小隊に入れてください。」