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―――――誰かと通学するのは、入学式以来かしら。
ふとそんなことを頭に過りながら、ベリティは妖精ハックと話しながら馬車内を過ごした。
楽しい時間は倍速に過ぎる。普段よりも格段に早く学園に到着したかのようにも思えた。
「ハック隠れて」
「ほいほい」
ベリティの茶色の革製のハンドバッグにハックが飛び込み、彼女はそっと鞄を閉めた。
「お嬢様、着きましたよ」
「今日もありがとう」
運転手に扉を開けてもらい、ベリティは軽快に降りた。
ハックと一緒、ただそれだけで特別な日になりそうな気がする。
紫の髪を揺らし、コツコツと靴音を響かせながら堂々と正門をくぐるベリティ。
だが、一瞬で雲行きというのは怪しくなるものだ。思春期の世界というものは。
「あら、あの悪戯女が指輪なんてしているわ」
「誰かと婚約でもしたのかしら」
「あんな女と婚約なんて男は脅されたとしか考えられないよ」
「家柄だって格段に良いってわけでもないのに」
クスクスと笑いながらベリティを笑い者にする声。正面から彼女に話しかけるわけではなく、わざと聞こえるようにして離れた所から放つ言葉の矢。
そんな矢を黙って受ける程、彼女は静かではない。
「ごきげんよう。そんなに私って注目を浴びてるなんて知らなかったわ。指輪一つしただけで皆さん、良くお気づきになるのね。私だったら指輪なんて貴女達がしても、むぁあああっっったく! 気付きませんし、気付いたとしてもわざわざ声をかけたりしませんわ。だって、ぜんっっっぜん! 興味が無いですもの」
「なんですって!!」
売り言葉に買い言葉。ベリティにも言葉の矢を放つ弓は確実に持っている。彼女の反撃に一同は悔しそうに歯を食いしばった。
「それでもまだ私のことでお喋りがしたいのなら止めませんわ。では、ごきげんよう」
フフフッと勝ち誇ったように彼女は陰口を言う同級生達の間を凛々しく通り過ぎて歩んで行ったのだった。
彼女の背後では婚約者ルフィアが凍り付いたような瞳で見つめているとは全く知ることもなく……………。
「お前、毎日こんななのか?」
鞄を僅かに開けてハックが呆れたような顔で見上げる。
「そうよ。ほら、ちゃんと中に入って」
ハックに目を合わさずに小声でベリティは言い、何事も無かったかのように教室に入って席へと着いた。
「おはよう、ベリティ」
ベリティに挨拶をするのはマリアンナ。彼女は分け隔てなく誰にでも挨拶をする礼儀正しい令嬢だ。
「おはよう、マリアンナ」
「昨日は私のせいで、ごめんね」
昨日とはマリアンナを庇って先生に悪戯をしたこと。むしろマリアンナのせいではなく、底意地の悪い先生のせいだ。ベリティはうっすら微笑みさえ浮かべた。
「マリアンナは気にすること無いわよ。私が勝手にむかっ腹が立ってただけだから」
「それでもありがとう。私、昨日家でいっぱい音読の練習をしたわ。ベリティが私を守ってくれてハッとしたの。私自身が強くならなきゃって。だって、私のせいでベリティが…」
するとベリティはマリアンナの唇を人差し指でぎゅっと抑えた。
「ごめんねはマリアンナの口からは欲しくない。前向きになろうとしてくれたら私は嬉しい」
そしてそっと指を離すと、マリアンナはすぅっと息を吸って胸を張り、
「うんっ!」
朗らかな彼女の魅力にさらに強さという彩りを混じえた美しい笑顔を見せたのだった。
「じゃ、そろそろ席に行くね」
「ええ、ごきげんよう」
満足そうにマリアンナの背中を見つめるベリティ。
すると突然
「お前、結構いいヤツなんだな!」
耳元から声が聞こえた。ひそひそ話の吐息も僅かに感じる。
その声は
「ハック!?」
ベリティが声があった方に小声で呼びかけた。
「妖精は姿を消すことも出来るんだよ。ま、どっかの誰かさんには僅かな歪みに気付かれて石をぶん投げられたんだけど」
「はいはいはい、すみませんでした」
「森で助けたことと言い、何でお前はそんなに嫌われているんだ?」
妖精から見た純粋な質問なのだろう。けれども、真っ直ぐな疑問は時に嫌味よりも深い傷を与える。
「さあね。私は人間だからじゃない?」
肘を立てて頬杖をし、ベリティは視線をハックの声がする方とは逆に向かせた。
「では、次、マリアンナさん読んで」
性懲りも無くまた音読が苦手なマリアンナをわざわざ指名したのかとベリティは眉間に皺を寄せた。
今日は特に悪戯を用意していないが、先生のはチョーク等に細工があるか授業前に綿密にチェック済み。何も無いとわかって強気になったのか、意地悪をやめようとはしなさそうだ。
だが、細工があるとすれば、それは今日のマリアンナだ。
「はい!」
堂々と返事をし、席を立つ。教科書を目線よりも少しだけ低く掲げ、彼女は教科書を読み上げた。
心優しい彼女の声色は聞く人の心を癒やし、穏やかな空間を作り上げる。今まで冷ややかだったクラスメイト達も心を奪われ、口を半開きになりながら彼女の音読を聞き入ったのだった。いつも彼女が苦手とする音読の最中にわざと板書をしていた先生でさえも板書を忘れてしまう程、彼女は見違えるくらいに美しく成長したのだ。
そして読み終えると品良く着席。ようやく先生が我に返り、
「そ、それでは今回の作者のねらいですが」
彼女の音読を読み終えてから板書を始めたのだった。
午前の授業が終わり、ランチタイムを告げる鐘が鳴り響く。
「ムース買いに行くよ!」
どこか宙に浮いているかもしれないハックに声をかけ、ベリティは鞄を手に持って足早に教室を出た。
「ムース、ムース♪」
鞄の中からはまるで小躍りでもしていそうな振動。
「ムース持ち運び用でください、2つ!」
ベリティもまた、無邪気な笑顔を浮かべたのだった。大事そうにムースの入った箱を手に持ち、裏庭へと小走りで向かう悪戯令嬢。大好きな悪戯をしたわけでもないのに、満面の笑みが消えることは無かった。
「……………」
一方、珍しく、いや初めて彼女の教室をわざわざ覗きに訪れたのはルフィア。普段はベリティからのお願いで学園内では声をかけないことになっている。透き通る程美しい金髪も備えて美貌な彼をひと目見ただけで、教室に残るクラスメイトたちは心臓をときめかせていた。
「ルフィア様だわっ!」
「まぁ、どうしたのかしら!」
「ごきげんようルフィア様。どうされましたの?」
我こそはと令嬢たちが彼を取り囲む。ルフィアは全く表情を崩さずに淡々と質問に答えた。
「他の女子生徒はカフェテリアに行ったのかな」
彼がそう聞くと令嬢達は次から次へと叩き込むように口々に彼との対話に参戦した。
「婚約者が居ないとカフェテリアに行ってる事が多いですわね」
「婚約者が居れば二人でひっそりとテラスやベンチで過ごす人もいますわ。私も憧れちゃう」
「私も。透明な銀色の指輪をして素敵な方とランチしたいですわ」
どうでもいい情報の襲来でルフィアは立ち去ろうとしたが、
「あ、指輪と言えば、彼女、いつも教室で食べるのに居ないわね」
ぴくりと眉を上げ、令嬢達の話に耳を傾ける。
「急いで教室を出てたわよ。廊下を小走りだなんて相変わらずはしたないわよね」
「本当に婚約したのかしら、指輪をしていたけれど」
「良かったわ。ルフィア様に良からぬことをしそうな女が一人だけ居るんですけど、今日は居ないんです。ささっ、ぜひご一緒しましょ」
「断る。昼食時間に失礼した」
氷のように冷たくそれ以上何も触れられない声色。ルフィアは短く放つと静かに彼女達に背を向けて廊下を歩いた。
婚約者の裏切りをこの目で見つけるために。