心の両天秤
もうちょっと詩的に書いたらよかったかなぁ。
たとえ、良心であるとしても、それが押し付けがましく、押し売りのようなものになれば、それはエゴにしかなり得ない。
たとえ、利己的であるとしても、それが自己のみならず、他に利をもたらすのであれば、それは徳となり得る。
善を唱えるもの、悪を唱えるもの。
その狭間に我々はいる。
そこで善と悪の間を、行き来しながら、我々は今日を生きる。
その者の多くは、物質的な利を求めた行動である。
その者の多くは、善悪を考えた上での行動ではない。
人は誰しも、善なる存在たらんと思えど。
人は誰しも、善なる行動を行うが難し。
人の多くは、正しい考えのもとで行動はせず。
人の多くは、その時の価値観で妥協する。
これからを、正しいか正しくないかで行動しようとすれば、今までの行動の罪悪に立ちすくむ。
“仕方がない” 、“しょうがない”
そう言わなければ、前に進めない。
それでも前に行かなければならない。
それでも生きねばならない。
人は自身の心に嘘はつけない。
だから人は苦悩し思い悩む。
これからもその苦悩は続くだろう。
だけど、人は笑うことができる。
本当は苦しくても笑うことができる。
その嘘、偽りの笑顔でも、その周りの空気が変わる。
その場にいる人の世界が変わる。
その世界がどんなに小さかろうと、
その世界はかけがえのないものになるだろう。
それは決して、利己的と呼べるものではない。
終焉に“己の人生はどうであったか“と、振り返った時、懺悔や後悔だけでは寂しすぎるから。
だから………
おもいっきり、笑顔を振り撒いてやろう。
心に両天秤を持って。