黒猫
売れない画家が一人いた。
才能はあるのだが、いつも完成前に筆を置いてしまう。
それでいいのだ、と彼は言っていた。
完成しない絵こそが、自分の芸術なのだと。
ある日も、彼はキャンバスに向かっていた。
描きかけの絵を前に、歯噛みしていた。
彼は完成させないのではなく、完成出来ないのであった。
途中までは上手くいく。
しかし、間際になると、描いてきたものを台無しにしそうで怖くなるのだ。
そうして、いつも中途半端になってしまう。
これではいけないとは思いつつも、どうしても完成させることが出来ないでいた。
ウッドスツールに腰を下ろし、キャンバスを睨みつける。
じっと絵を見つめ、そのうちに、もうこれでいいかとこうべを垂れる。
それが、いつもの彼であった。
「何故貴様はいつも途中でやめてしまうのだ。」
床に視線を落としたまま、彼は答える。
「俺の絵はこれで完成なのさ。完成しない絵こそが、俺の芸術だ。」
「では何故貴様は不満そうなのだ。それでいいなら胸を張ればいい。」
「自分の未熟さが分かっているからさ。俺は所詮この程度の人間なのだと。」
ふと、彼は頭を上げた。
辺りを見渡すが誰もいない。
否、足元に愛猫が1匹いるだけだ。
「なぁボタモチや。」
彼は愛猫、ボタモチに話しかける。
「なにかな。」
流暢な返事が返ってきて、彼は面食らった。
「なるほど、俺はついぞ気が触れてしまったらしい。」
「阿呆な事を言っている暇があったら、手を動かしたらどうか。」
ボタモチは不遜な態度で続ける。
「貴様の絵は、猫の我輩から見ても気味が悪い。届かぬ高さを飛び回るスズメの様な気持ち悪さだ。せめて最後まで描ききってはどうか。」
彼は愛猫に気圧されながらも、弱々しく答える。
「俺は怖いのだ。上手くいったものに手を加え、台無しにしてしまうのが怖いのだ。」
「ふむ。」
ボタモチは一度伸びをして、顔を洗ってから彼を見遣った。
「台無しになったなら、塗り潰せばいい。そうだな、黒で塗り潰すのがいい。我輩の毛色と同じ色ならば、どんな絵画よりも美しい絵に仕上がろう。」
金の目に見つめられ、彼は思案する。
そうしているうちに、ボタモチは大きく一つ欠伸をした。
途端、彼は悩んでいる自分がバカらしくなった。
「そうだな。それは確かに、美しい絵になりそうだ。」
スツールを引き、立ち上がると、彼はキャンバスへ向かった。
後年、ある有名な画家の家には一枚の絵が飾ってあった。
それは彼が初めて完成させた作品だということで、誰にも売らず、後生大事に飾ってあった。
その絵を見たものは、皆不思議に思ったのだそうだ。
何故こんな絵を大切にしているのだろう、と。
ただ真っ黒に塗り潰されただけの絵を。