09
〇
「動かないでね」
放課後の美術室にはどこかのクラスが使った粘土のにおいが漂っていた。まだ乾ききっていないそれらは、机にまとめて並べられていた。
窓の外には夏模様。高い位置から落ちてくる太陽光線が、隣接する公園の白い土に反射して眩しくて、影の暗さはより際立つ。緑は深く、つやつやとしていた。
美術室の電気はすべて消したまま、開け放った窓から入る光のやわらかな反射が、窓を背負った雫の緊張した面持ちを照らす。
肩に力が入って表情もかたい。本番をさせて、なんて言ったせいだろうか。
「あ、でも別に、微動だにしないでってことじゃないからね。会話してくれないと寂しいわ」
「あ、なんだ……」
身体が弛緩するのがわかる。肩のラインが下がって、座高が低くなった。白いブラウスから、日焼けした腕が太ももの上へ伸びている。きちんと重ねた手と、閉じた膝。ふくらはぎの曲線。
正面からほんの少し左にずれて見るのが、一番雫が綺麗な角度だった。
「ねえ、もうすこし俯いてみて」
「こ、こう?」
足下まで視線を落とした。
「いきすぎかな。左脚をまっすぐ伸ばした、足の甲くらいの位置をぼんやり見て」
「えっと……こう?」
と、ちゃんと脚を伸ばして角度を調整する。その健気さが可愛らしい。
「あとちょっと左……そう、そんな感じ。それで、ちょっとつまらなそうにして」
「つまらない?」
「またこれ? みたいな、飽き飽きした感じ」
本当は窓辺に立っていて欲しいけど、それはまた想像で描けば良い。
風を孕んだカーテンのひらめき。あ、いい。頭の中でシャッターを切る。
無人の教室。明るい窓外と暗い室内。光の波打ち際にたたずむ雫。そのなんとも言えない物悲しさがひどく似合う。
今しか描けない、と私は思った。
昼食は雫と二人、図書室で食べた。いつもは教室でなければいけないけれど、いちおう放課後にあたる短縮授業期間は自由だった。本当は図書室での飲食は禁止だったけれど、冷房がきいていて涼しいのである。
会話の切れ間に雫が、箸の先を唇から放し忘れたままに言った。
「そういえばこの間、蝉の羽化を見たよ」
ちょうど近くでいっせいに鳴き始めたときだった。それで思い出したらしい。
「羽化? 蝉の?」
「うん。藤村君が見せてくれたんだけどね。ああいうの見たことなかったから、ちょっと感動しちゃった。すごいんだ。羽がエメラルドグリーンで綺麗だった」
瞳の裏にその光景を思い浮かべるように焦点が合わなくなり、わずかにまぶたが下りた。外した視線が戻ってくるのに合わせて、無意識になった自分を恥じらうように、その恥じらいを噛むような、うすいはにかみを浮かべた口元から「ありがとう」と、何に対してなのかわからない感謝の言葉が漏れた瞬間だ。
胸がきゅっと苦しくなった。
今日の雫は今日にしかいない。
羽化したばかりの無防備な――少女から女へと変わりゆく、つかの間の美しさ。
今しか描けないのだと、強く思った。
鉛筆を動かしながら、ぽろりと言葉が口から出た。
「私、季節の中で夏が一番儚いと思うの。それも昼日向が」
「そう、かなあ」
首をめぐらせながら考える仕草をしてから、はっと元のポーズに戻る。「私は秋のほうがそう思うな」
「秋は……そうね、秋は寂しいって感じ。なんでそう思うのかわからないけど」
まぶしくてまぶしくて目を開けていられないようなときが一番、私はたまらなく切ない気持ちになる。どんな季節も盛りを過ぎれば終わっていくことに変わりはないのに、夏だけは死にゆく季節だと感じてしまう。
太陽が輝くほどに濃くなる影のように、すべてが生き生きとする季節には、それだけくっきりと死の影が浮かぶのかもしれない。
たまらない寂寥の中に、ぽうっと浮かぶ、あるいはうっすら透けて見える雫。逃げもせずに、抗いもせずに、けれども受け入れているわけでもない。
懸命にプール掃除をする雫を思い出す。あれも夏のことだった。
心の中にははっきりと見える輪郭が、頭の中では霧散してしまう。紙の上には現れない。誰もいない教室で、ただ寂しそうにする少女。これはこれで悪くはないけれど、まったく別の美しさだ。
何を見たいのだろう。何を描きたいのだろう。
私は何が欲しいのだろう。
悔しくて、心細くて、負けたくなくて、だしぬけに言った。
「そういえばね、私も見たことあるのよ」
「え?」
「羽化をね。藤村がアゲハ蝶の幼虫を飼ってたの。男の子って虫、好きでしょう。明け方に突然来て、腕を引っ張られて。そうだ、あれって五年生の夏で……」
そうして悪戦苦闘していると遠雷のような音が聞こえてきた。徐々に近づいてくると、その正体がわかった。太鼓の音だ。
「忘れてた。今日ってお祭りなんだ」
地元の神社の夏祭りでは毎年、氏子会という名の町内会が、太鼓の山車を曳いて回ってそれを報せている。男子が太鼓で、女子が傘踊り。私も父親が町内会で役員をしている関係で、六年生のときに一度だけ参加した。そうだ、途中で何度か休憩をとっていて、そのうちの一つは中学校横の公園だった。
絵を仕上げているうちに、太鼓山車が公園に入ってきた。木組みの山車に三尺ほどの長胴太鼓を縦に据えていて、前後に三人ずつ並んで、息を合わせて叩くのである。
二人で窓辺に立って、神輿や傘踊りやが続々と到着するのを眺めていた。雫はしきりに視線をさまよわせている。
「そうだ。今日のお祭り、一緒にどう?」
私が誘うと、雫は首だけぐるりとこちらに向けた。
「うん、いいね。どこで待ち合わせにする?」
二人で楽しむはずだった。それなのにどうして?
雫の家に迎えに行って、河川敷を通って夕焼けを眺めながら神社に向かって、人ごみに揉まれてお参りをすませ、さてどこから回ろうかしらと相談していたら、雫のクラスメイトのグループにばったり遭遇して、その中にいた北村がせっかくだから一緒に回ろうと、まったく邪気の欠片もない顔で言い出した。
雫のクラス内での立場とか、今後のことを考えると、どうしてもそれを断るのは気が引けて、やむなく彼らのグループに合流することになった。
男が二人、女が三人。見てくれは良くて態度にもそういう自信がにじみ出ている。人波に流されながら、誰かが行きたいと言った屋台の岸に足を止める。私と雫は集団のうしろをついて歩く。それを気にしてか、しきりに振り返って声をかけてくるのは北村で、他はつられてという具合。いつだか雫のことを「ミノムシ」と言ったらしい野木もいたけれど、彼女は北村がこちらを気にするのを気にしていた。
目が合うと、かすかな敵意を感じる。何かした覚えはないのに。
境内には回廊状の通路がつくられ、両側にひしめき合う屋台から電球の琥珀色の光が溢れている。通路を埋め尽くす人は、でこぼこのシルエットになって、うっすらと楽しげな表情が読み取れる。足音と衣擦れと、てんでばらばらの話し声がわんわん響き続けていた。
洪水のような祭りの雰囲気の中で、隣を歩いている雫は大丈夫かしらと目を向ける。人ごみを気にしてか、動きやすい恰好におもちゃのように小さなバッグを背負っていて、そこからついと顔の方へ視線を動かして、私は息を呑んだ。
半目がちに、遠く稜線へ沈む夕陽を見送るのと同じ表情をしている。熱量が減少して肌寒さを覚え、燃え盛る球体がどんどんと欠けていった最後の瞬間、宝石のような一粒のきらめきを捉える瞳。
その色は羨望だ。
抱きしめたい。手折る強さで抱きしめたい。
その気持ちを押し殺す。
金魚すくいで誰が一番金魚をとれるかの勝負をした後、手を洗いに行った男子二人が帰ってきた。手を濡らすほど熱中できるなんて子供だと思うけれど、何かにのめり込めることを羨ましくも思う。
「なんか水見てたら喉乾いてきた」
言いながら手をぷらぷら振りって水を切るのは、外岡というらしい。きちんとタオルを持ってきている北村とは大違い。雫がバッグからタオルを手渡すと、「おっ、サンキュー」と当たり前のように受け取って手を拭いた。
北村が自分のタオルを折りたたんでポケットにしまいながら、
「そういえば、拝殿前にかき氷があったけど、行く?」
「拝殿って?」
「お参りするとこ」
話しながら集団は歩き出している。意思決定は誰が下しているのか、はなはだ疑問だ。
輪投げ屋の角を曲がり、鳥居からまっすぐに伸びる参道に戻る。すれ違う人が左右にいて、もはやどこが進路かわからないのに、なんとなくできた流れに乗っていくと、きちんと拝殿に出る。少しひらけているおかげで、人ごみはいくらかマシになる。ぬるい夜風がその隙間をすりぬけて、汗と熱気がさらわれていく。
両脇には組み立て式のパイプテントがならび、神輿や供物が鎮座する。山のように積みあがった日本酒は、誰がどう胃におさめるのかしら。
この辺りに店を構えているのは、かき氷屋とカブトムシ売りだけだった。なぜカブトムシ? とそちらばかりに気を取られながら、かき氷を注文してシロップをかけてもらっていると、背後で威勢のいい声が響いて太鼓が打ち鳴らされた。
かき氷を受け取って振り返る。テントの中に太鼓山車があった。
「あ、藤村」
北村がスプーンストローで氷の山をさくさくと崩しながら言った。山車には前後に三人ずつ。どれだろうと探すと、いた。奥の真ん中が藤村だ。しりからげに襷を巻いた浴衣に、真っ赤な投げ頭巾をかぶって、木組みの山車を軋ませながら、かけ声を張り上げて太鼓を打つ。どの声もすでに嗄れている。
「あれ、他のはみんな小学生じゃない?」
野木がかき氷を吸い込むストローから口を離して言った。ピンクの小さな粒が、はじけるように飛ぶ。
「あ、ほんと。だからあいつ、からかいにくるなって言ってたのかな」
北村が納得したような息を吐きながら言うと、野木が彼の腕をかるく叩く。
「いや、からかいには来てほしくないでしょ」
何気なく会話を後ろから聞いていると、テントの灯りで真っ黒な影になった二人の間、太鼓の脇に座って楽しそうに大口を開けて笑う男の人がいた。赤ら顔で、手には缶ビール。
それが父親だと気が付いたとき、私は手にしていたかき氷を、ぽとりと落としてしまう。
どうして?
こめかみのあたりが、ぴくぴくと動くのがわかる。
どうしてそんなに楽しそうにお酒が飲めるの。
家では……お母さんの前では毒を吐く潤滑油に、手を上げる口実のために飲むような人が、どうしてそんなに笑っていられるの。
父親の顔がゆっくりとこちらに向く。その視界が突然ぐにゃりとなる。涙だ。私はとっさに駆け出した。
見られたくない。
誰に? 何を?
わからないけど、とにかく見られたくはない。
うごめく壁にぶつかりながら走る。右へ左へとよろめいた身体は、ついにご神木周りにできていた空間へはじき出されて倒れ込んだ。手のひらに痛みが走る。擦りむいている気がしたけど、暗くてよくわからない。
「祥子ちゃん!」
雫が私の名前を呼びながら走ってきた。
「あっ、いた! 三条、右!」
あとから北村と、他の人たちもやってくる。横目にこちらを見ながら歩調を緩めた人たちは、そのままその場を離れていって、祭りは何事もなく続く。
私は一度うつむいて深呼吸をしてから立ち上がった。
「祥子ちゃん、大丈夫?」
「ええ。たぶん、手を擦りむいただけ」
雫が心配そうに私の手を取って、自分の顔に近づける。息がかかってこそばゆい。
「どうしたの、霧島。突然走り出して」
「ごめんなさい。その、目の前に蛾が……」
「蛾ぁ? まあ、それならいいんだけど。いいのか? あ、ケガ、大丈夫?」
「大丈夫よ。私だって転び方くらい知ってるんだから」
自慢ではないが運動神経は良くない。転ぶのはお手の物だった。
心配されるのが気恥ずかしいような気持ちがして、走り出したことを追及もされたくなくて、私はわざとオーバーに手を振って無事をアピールする。
「ごめんなさい」
つい口をついてでる謝罪。何に対してなのだろうかと考える。そうやって無難に乗り切ろうとする自分に、すこし自己嫌悪。
ご神木は立派な石組みに囲われて、大きな植木のようだった。みんなその縁に座ってかき氷を食べながら、次にどこへ行くかと相談していた。その話を聞き流しながら、左右へ流れていく人ごみへ目を向ける。ここからだと、屋台の裏からその光景が見えた。光の中に浮かび、そして影になる顔はどれも同じように楽しそうだった。先ほどの父親の顔を思い出して、急に擦りむいた手が痛くなった気がした。
「じゃあ、花火でいい?」
明らかにこちらに投げかけた言葉に振りむく。
「え?」
「だから、花火でも買ってやろうかって」
「あ、ええ。私は別に……」
雫はどうなのだろうと首をめぐらせたけれど、どこにもいなかった。「あれ、雫は?」
「ゴミ捨てに行ってくれた」
「ついでだからって」
「ああ、そう」
学校の外でも同じなのね。
なんとなく取り残された気持ちになりながら適当な会話をしたけれど、雫はなかなか戻って来なかった。携帯電話を鳴らしてみたけれど応答はない。
「あいつ、迷ってるんじゃないの。小さいし」
苛立っているというよりは、退屈したという声で野木が言う。
私は閃いて、気がせいたような演技をする。
「心配だから探しに行くわ」
と、言いながら歩き出す。「花火、行ってくれて構わないから。すぐに見つかったら連絡するから」
実際に連絡するかどうかは、雫が合流したがるかどうかで決めれば良い。