08
土曜日は午後一時から部活があって、終わるのはだいたい五時か六時。母親の仕事は休みなので、帰ってから食事を作る必要はない。三条に連絡を取らないのは、彼女の家でも親がいるので、連絡を入れるだけの理由がないためだった。二週間の間に少しは仲良くなったつもりではあるが、その程度の距離だった。
だから夕食を終えてから漫画を読んでいたときに鳴り出した携帯電話に、三条雫の名前が表示されて俺は困惑した。三条から連絡が来たのはこれまで、夕飯を食べに行って良いかと聞かれた一度しかなかった。
「もしもし。何か忘れ物?」
『あっ、もしもし。藤村君ですか?』
「うん」
『あの……えっと……』
言葉にならない戸惑いが、母音になって漏れている。息遣いからは緊張した空気が伝わる。
「三条?」
『あ、うん。あの、明日、お邪魔しても良いですか?』
「明日? 晩飯?」
『えっと、そうじゃなくて……お昼、かな。お母さんが、ちゃんと挨拶したいって……』
「ああ、そういうこと。じゃあ、うちも親いたほうが良い?」
『と、思う……。あ、待って』
電話の向こうで何事かを話す声。『えっと……もしもし? あの、もし良かったら、藤村君の家の電話番号、教えてくれないかな。お母さんが電話するから、って』
「いいよ。えっと――」
番号を伝えて電話を切ると、すぐに家の電話が鳴った。しばらく話をしていた母親は電話を切るなり俺の部屋に来て、
「三時になったから」と言った。
家にいろということか?
そうして日曜日の午後三時。いつもより綺麗な普段着で、こっそり化粧をした母親と、落ち着かなく過ごしていると、時間ちょうどにインターフォンが鳴った。
三条の母は娘よりもすらりと身長が高くて、日焼けをしていないぶん色白だった。白いズボンと薄い青色のシャツが良く似合っていて、意志の強そうな瞳がまっすぐに俺と、俺の母親を見る。それが自信の表れのようだった。つくりは似ているのに、雰囲気は正反対と言って良い。
三条は母親の陰に隠れるようにして、肩をすぼめて丸くなり、前髪の裾からこちらを窺うようにしていた。三条の母は娘をちらと見てから俺に会釈をする。
「こんにちは。えっと、大樹君、よね。お邪魔します」
上品に笑みを浮かべる。自信に満ちた、作りなれた笑顔だ。三条によく似た声は、しかしはきはきとしていて、そして年齢相応の低さがあった。
食卓のテーブルをはさんで親子が対面する。俺の正面で三条が、いつかの学級会のときのように俯きがちに、おどおどと困り果てていた。
どこに仕舞われていたのかもわからないティーセットで紅茶を飲みながら、短い世間話をしてから、「あの」と三条母が本題を切り出した。
「娘がご迷惑をおかけして、大変申し訳ありません」
母親の方をうかがうと、目で返事を促された。
「いやあの、三人分作るよりは四人分作るほうが材料の計算が楽なんで助かるって言うか……」
彼女の視線が不思議そうにこちらに向けられる。その表情をつくることを忘れた顔は、三条と重なるところがあった。
「あら、そうなんですか?」
「ええ。私も仕事で遅いですから」
「どうして言わないのよ、雫」
「い……言ったと思うけど……いちおう」
「ま、以前は私がやっていたんですけど、それで大変だったときに、もう歳も二桁になったんだから、なんてわけのわからないことを言って、作ってくれるようになったんです」
「え? 俺、そんなこと言ったっけ?」
「言ったわよ」
母親がおおげさに上体を俺から遠ざけた。「なに、覚えてないの?」
「いつから晩飯作ってるのかも覚えてなかった」
「五年生の春休みよ。焦げた卵焼きと、味のしない味噌汁をね」
「そうだっけ」
「そうよ。ご飯だけは上手に炊けてたから、そっちばっかり褒めてあげたのよ。やだ、覚えてないの」
三条の母は感心したような息をもらして、何度か小さく肯いた。
「そうなんですか、すごいですね。うちの子はそういうの全然で。私が早く帰れたらいいんですけれど……」
優しい苦笑を浮かべて娘の頭を撫でる。髪が揺れた三条も笑顔を作るのだが、どこか無理をしている顔だった。
「あの」
母親が口を湿らせたティーカップをおろしかけたまま止めて、うかがう視線で訊ねた「もしかして、まずいことしましたか」
胸の前でぱたぱた手を振って、三条母が否定する。
「いえ、そんなことは。むしろありがたいです。あの、作り置きにしようかとも話していたんですが、雫がコンビニでいいって言うものですから。でもずっとコンビニというのもどうかと思っていて。その、たいへん失礼だとは承知ですけれど、もしご迷惑でないのなら、また雫を夕飯に誘ってあげていただけませんか」
どちらに対する問いかけなのか判断に迷っていると、俺の母がテーブルの面々に視線を行き来させる。
「私は構いませんけど……あんたは?」
「だから俺は、偶数のほうがやりやすいんだってば」
「あ、そうね。雫ちゃんは?」
「え……えっと……」
発言を求められて、いっそう萎縮して首をすくめる。学級会で右往左往していたときと同じように、逃げ場もなく途方に暮れた感じがする。三条は救いが落ちていないか食卓の左右を見て、はっと思い出したように、緊張した顔を上げる。
「め、迷惑じゃないなら……」
話はまとまったと見える。俺はカップに残っていた紅茶を一気に飲んだ。
「まだ何か話すことある? ないなら素振りに行きたいんだけど。今晩、太鼓の練習だし」
「ああ、そうね……」
母は正面を見てからすこし考えて、「だったら雫ちゃんも連れて行ってあげて。すこし大人の話をします」
話が終わったのなら三条は帰ればいいのでは? と思いながら、素直に肯いた。傘と一緒に玄関先に立てかけてある木製バットを持って家を出た。三条はひよこみたいに後をついてくる。
廊下に出た途端、むっとした熱気が身体にまとわりついてきて、肌に残ったエアコンの冷気をとかしてしまう。あっという間に勢力を増した蝉の声が団地に反響する。まだ夏は盛りではないせいか昼間でも元気だ。
「いつも素振りしてるの?」
後ろからの声がコンクリートの階段に反響して、どこにいるのかわからない気がした。
「うん。三条送って行った後に」
「偉いね」
「別に……偉かないよ。やらなくちゃいけないって思うから、やってるだけで」
「野球、好きじゃないの?」
「嫌いじゃないけど。なんとなく、男子っていったら野球かなって思って始めただけだし」
「そうなんだ」
階段を下りて外へ出ると、熱さは増したように感じる。地面が近いせいだろうか。真っ黒なアスファルトが、所々に光っているのが熱そうだった。
「三条は走るの好きそうだよな」
「えっ? どうして」
「いつも楽しそうに走ってるだろ」
「そう……だね。走るのは好き、かも……」
好きだといいながら、どうしてか声は弱い。暑さに参ったのかだろうか。ふと足下を見ると、駐車場のアスファルトで、ミミズが一匹干からびていた。
それをバットの先でつついて通りすぎながら訊ねた。
「三条の親って厳しい人?」
「……え?」
彼女の立ち止まる気配に振り返る。虚をつかれたように立ちすくんで口は半開き。強すぎる太陽光線が影を落として、表情のディティールはつかめない。なにか影法師や、陽炎を見ているような気がしてくる。辺りが眩しいせいだろう。
「小学校のときの友達にいたんだ。三条と違って、プライドが高いっていうか偉そうな奴だったんだけど、授業参観で親が来ると大人しくなるんだ、そいつ。教育ママっていうのかな。すげえ厳しかったらしい。中学も私立行っちゃったし。親と一緒にいる感じが、ちょっと似てたから」
その存在の大きさを忌避しているようであり、また安堵しているようでもある。居心地は悪そうなのに離れることができない。そういうもどかしさを隠した顔だった。
「そういう意味なら……全然厳しくはないよ。むしろ何も……」
言いかけて顔を上へ、おそらく親のいる俺の家へと向ける。過去を懐かしむような寂しく優しげな横顔が奇妙に大人っぽかった。「自分に厳しい人……かな」
公園へ着くと三条は木陰のベンチに座り、俺は少し離れたところでバットを振る。すぐに汗が噴き出して、シャツがぐっしょりと濡れる。
三条はそんな俺に向かって、返事を求めるふうではなく、相手のある独り言のような口ぶりで言った。
「最初のころはお母さん、夜は帰ってたんだけど、そのうち忙しくなってね。お小遣い以外にお金をもらうの、なんか悪いような気がしてさ、学校で調理実習をやったときに、そうだ、今度これを作ってあげよう……って思ったの。それで、ちょっと失敗しちゃったんだ。指をちょっと切っちゃったり、カレーをちょっと焦がしちゃったり。そんな、ちょっとの失敗……。そしたらお母さん、危ないから一人で料理なんてするなって……」
話すうちに声は小さくなってゆき、夜空に溶ける打上花火のように途切れてしまう。俺は相槌を打ちながら振り続けたバットを止めて、三条に顔を向けた。
うつむく彼女の足下に、蟻が行列を作っている。それはベンチの側で団子になっていた。蟻の隙間からのぞく茶色い手足。見覚えのある形。蝉の幼虫だった。
羽化に失敗したのだろう。熱い砂の上で息絶えていた。
脱皮は命がけの成長だ。
窮屈になった殻を脱ぎ捨てることができなければ、成長できないだけではすまない。変化はつねに危険を孕んでいる。つまりは失敗するという結果。そうなれば次の機会を与えられることもなく、潰えてしまうこともある。
風の死んだ昼下がり。蝉の声。光はひどく熱い。服も皮も脱いでしまいたいほど。
けれどもどうしようもなく寒気もする。
この気持ちはなんだろう。




