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     〇


 この気もちはなんだろう。

 谷川俊太郎の詩にメロディをつけた合唱曲「春に」は、その言葉を繰り返す。言い表すことのできない、自分でも理解の追いつかない心の内を描き、この気もちはなんだろうと自問する。

 ――声にならないさけびとなってこみあげる、この気もちはなんだろう。

 雪融けの水がじんわりと大地に沁み込むように伴奏が静かに消え、指揮者がゆっくり手をおろす。学校横の公園で鳴く蝉の声が音楽室に湧き上がる。

「どう?」

 一番身体が大きくて目立つという理由で、指揮者に選ばれた原田が短く訊いた。椅子に座って彫像みたいに動かない教師ではなく、ピアノを弾いていた北村にである。

 北村は「うん」と言いながら、小さな音でピアノを弾く。

「この気持ちより、なんだろうが大切なんだよ。そこを意識して歌うといいと思う」

「どういうことだー、わかりやすく言えー」

 抗議の声が飛ぶ。

「えっ、わかりにくいかな? だから、えーとね、わからないって気持ちが大事なんだよ。この気持ちと、その気持ちは別なんだよ」

「余計わかんねーじゃねえか!」

「そうだ! 日本語で話せ!」

「えー……」

 夏の陽射しで眩しい窓ガラスを背負って、北村は思案顔で腕組みをする。「とにかく、わからないって気持ちの方が大切ってこと。今のみんなだよ」

「わかんないって気持ちはわかってんだって。わかんないのはお前の言ってることだから!」

「とにかく歌うよー」

 北村が合図を送ると、原田が両手を上げる。クラスメイトは口をつぐんで、歌い出しに備えた。

 梅雨明けはまだ宣言されていなかったが、ここ数日は晴れの日が続いて、昼時の暑さといえば真夏のそれだった。短縮授業が始まって、午後には各所で合唱の練習が行われている。ピアノのある音楽室と体育館は、順番に使う決まりになっていた。

 どちらかと言えば、当たりは音楽室である。こちらにはエアコンがあるからだ。快適な部屋で午後二時半まで合唱練習をした。

 帰宅部はそのまま家路に着き、部活動のある連中はそれぞれの部活に散っていく。すこしでもエアコンの冷気にあたっていたくて、わざとゆっくり出入口にむかっていると、人の流れからひょいと抜け出る姿が見えた。

 三条がドアの横に取り付けられた鍵かけから音楽室の鍵を取って、そのまま廊下に出る。すっかり蒸された廊下に出たとき、三条はドアのわきにぼんやりと立っていた。

 彼女は全員が出たのを確認してから戸締りをして、ごく自然な流れで職員室へと歩いていく。

 肌が汗ばむのを感じながらその背中を見ていると、

「いいよなぁ、ああいうの」

 と、頭上から原田の声が降ってきた。「気が利くってのかな」

「委員長だからじゃないの」

「あれって委員長の仕事なのか?」

「知らない。今までどうしてたっけ」

 振り返ると、原田の厚い胸板が目に入る。あこがれだ、そしていかりがかくれている。先ほどまで口にしていた歌詞が頭によぎった。この気もちはなんだろう。

 自分の内側の、なにかどろりとしたものが、外へ出たがる窮屈。そんな心の渦潮など気付かない原田は、いつもののんきそうな低い声で言う。

「え? さあ。誰かがやってたんだろ」

「ま、そうだよな」

 その「誰か」とは、三条だったのではないかと、ふと思った。まるで黒子のように、鍵の返却や授業後の黒板消しという、誰かのやらなければならない仕事を、こっそりと担っていたのではないか。人の意識の届かない場所で、かいがいしく働く三条の姿はたやすく想像できた。

 誰にアピールするわけでもない献身。そんなものがあるのだろうか。

 三条が長い髪に隠していた物は、いったい何であろう。



『お邪魔します』

 部活の後で着替えるついでに携帯電話を確認すると、いつもと同じ返信が入っていた。

 三条か髪を切って現れた日、『今日食べに行っていいですか』とメールがあった。それからおよそ二週間、俺は『今日はどうする?』とメールを送るのが平日の日課になっていた。だいたい部活の前に送っておくと、部活の後には返信がある。

 直接話せばいいような気もするのだが、家庭環境が大きく関わっていることと、そもそも同級生の異性を家に誘うというのが気恥ずかしくて、なんとなく秘密の関係だった。

 他人に言うほどの理由もない、というのもあるかもしれない。

 帰宅したのは六時過ぎ。妹に頼んでおいた厚揚げもちゃんとある。今日はおでんだ。

 卵を茹でている間に、他の具材をかたっぱしから切って鍋に放り込んでいく。簡単で手間がかからないということで、妹と二人きりのときは週に二度はおでんだった。しかし手抜きに思えて、三条に振舞うのはこれが初めてだった。

 じゃがいもの皮を剥いているとインターフォンが鳴った。出迎えにいった妹と一緒に、三条がダイニングに入ってくる。薄い色のジーンズにシャツという、気の抜けた服装。

「こんばんは」

 外見とは裏腹に緊張したような、上擦ったかたい声であいさつをする。そわそわと周囲を見てから続ける。

「な、何か手伝うこと、ない?」

「え?」

「いつもただ待ってるのって、なんか、悪いなって」

「ああ」

 俺は少し考えてから「でも、お金もらってるのに手伝ってもらったら、何か悪いし」

「あ……うん、そうだね」

「じゃあ雫さん、宿題でわかんないとこがあるの。教えて」

 わずかな間にすっかり懐いた妹が、三条の腰に抱き着いた。そういうスキンシップに慣れていないのか、三条はわたわたしながら困った笑顔を浮かべて、「いいよ」と肯く。

「美幸さーん、君は手伝いたいとかないのかー?」

「わたしが作るとロクなことにならないもん」

 三条を引っ張って逃げていく妹を見ていると、キッチンタイマーが卵の茹で上がりを報せた。水にさらした褐色の殻を剥くと、中から真っ白のゆで卵が現れる。

 卵の殻を剥きながらふと、三条もこうして脱皮をしたみたいだと思った。その急激な変化に戸惑っているのは俺だけではなく、なんとはなしに視線で追ってしまう。そういう人の視線がくすぐったいのか、いつもこそこそと逃げるようにしている。

 ぼんやり考えながら二十分ほど煮込んで食事にした。挨拶をしながらソーセージを引っこ抜いて、妹は得意げに言った。

「雫さん勉強教えるのすっごく上手だよ。おにいも教えてもらえば?」

「同級生に教えてもらうなんて、やだよ。なんか、負けた気がする」

「こないだテストあったんでしょ。雫さん、何点?」

「えっと……だいたい八十点とか、九十点とか……。あ、でも、美術がちょっと悪かったかな……」

 ざっくり言えば俺はその三十点下である。表情を読んだ妹は「気のせいじゃなかったね」と笑顔だった。

「三条がそんなに成績良いなんて、知らなった。すごいな」

「ま、まあ、私より頭良い人は、いっぱいいるし……」

 いたたまれないというふうに、三条はうつむいてちくわを咥える。いっぱいいるかはともかくとして、一番や二番は伝え聞くが、一桁後半ともなれば誰がそうであるかなど知らないものだ。頑張っても褒められないというのは、なんだかもったいないというか、かわいそうな気がした。

「そういえば三条さ、いつも教室の鍵返したり、そういうことしてる?」

「えっ?」

 と、小さく声をあげ、きょろりと目だけがこちらを向く。心なしか脇を締めるように、警戒するみたい。「いつもってことはないけど……誰もやってなかったら、一応、するようにはしてるけど……」

「趣味なの?」

「そんな変な趣味は……」

「じゃあどうして」

「どう言えばいいのかな……えっと……」

 三条は手元を見つめて言葉を探す間を置いて、「その……みんなの役に立てるのが嬉しいっていうか……」

「いい奴だな」

「そんな……」

「原田が褒めてたよ。あいつ、この前まで三条の名前も覚えてなかったのに。髪切ってちょっと目立つようになったからかな」

 さきほどのことを思い出し、ふいと口から出た。妹も「そうそう」と肯く。

「雫さん、雰囲気明るくなったよね」

「そ、それは、祥子ちゃんのおかげ……だから」

「祥子ちゃん?」

 妹がオウム返しをしながらこちらを見る。

「うん。上に住んでた。霧島のことだよな?」

 三条に確認をとると、こくりと肯いた後で、そのまま首をかしげた。

「上?」



 食事と片づけを終えて家を出る。三条を送ることもすっかり習慣になった。最初の三日を越えれば、もうやらないほうがむずかゆくなるものだ。野球を始めたときから始めた素振りも、三条を送った後で続けていた。そうしないと、何かいけないことをしている気になってしまう。所在のわからぬ責任感が、みっしりと身体を覆っているみたいだ。

 鍵をかけて歩き出すと、三条は後からついてくる。道幅に気を遣っているのか、横になって歩くことがない。背後から控えめな声がした。

「さ……さっき、美幸ちゃんが言ってたけど」

「なに?」

「ロクなことにならないって、あれ、どういうこと?」

「ああ、それか……」

 階段を下りきったところで、足を止めて振り返る。歯軋りをするみたいな夏の虫が鳴いている。「遊ぶのに夢中になって、遅くなったときがあってさ。そうだ、小学校卒業した春休み。中学、私立に行く奴と遊んでて、今日ぐらいいいかなって。ご飯遅くたって、死にはしないし。でも俺が帰って来ないからって、妹が料理したんだ。で、それが失敗しちゃって火事になって」

「えっ……だ、大丈夫だったの?」

「まあ、小火騒ぎってくらいなんだけど。頑張ろうって思って出鼻くじかれたら、やっぱ嫌になるだろ。それに俺も、ちゃんとしなきゃって。で、まあ、あんな感じ」

「……そう、なんだ」

 どうしてか三条は、叱られた子供みたいにしょんぼりと俯いて、切なそうに言った。

 どうしてか俺は、胸の苦しさを覚えて、息が上手く吸えなくなったみたいになる。

 辺りの明るさのせいか、時間を間違えた蝉が一匹、どこかで鳴き始めた。

「あー……そうだ、三条。時間ある?」

「え? ま、まあ、特にすることもないし……」

「それじゃあさ、蝉の羽化、見てみない?」

「羽化?」

「興味ないか?」

「ううん、見たことない」

 中庭を取り囲むように植えられた木々一本ずつ調べていく。家にあった懐中電灯は一本なので、俺が一人で探すことになった。三条はうっかり踏まないように、後ろに離れて立っている。四本目の桜の幹に、動きを止めた幼虫を見つけた。

「もうすぐじゃないかな」

 懐中電灯でそいつを照らしてやると、三条はそうっと近付いてきて、俺の肩越しにのぞき込む。

 茶色い幼虫は蠕動するようにピクピクし、腹のあたりがすこし伸びただろうかと思っていると、背中がぱっくりと割れて、中から白とも緑ともつかない色をした成虫が現れた。肩の骨を外して縄抜けをする人のように、殻から上半身を出してぐっと背中をそらしたまま動きを止めた。

「これ、何してるの?」

 興味深げに目を大きくして昆虫を見つめる三条は、少年のような瞳だった。

「脚を乾かしてるんだよ、たぶん」

「乾かす?」

「うん。ほら、脱皮したばっかりって軟らかいんだ。で、それが硬くなるのを待ってるんだと思う」

「あ、なるほど」

 途切れ途切れに会話をキャッチボールしながら、非常にゆっくりと進む羽化を見守っていると、「そういえばね」と、三条が顔をこちらに向けた。闇の中にぼんやりと浮かぶその表情は、幼げなつくりでありながら大人びた雰囲気が同居していた。

「前から私、不思議だったんだ。どうして脱皮して大きくなるの?」

「え?」

「だって皮を脱いだら、一回り小さくなっちゃうんじゃないかなって」

「ああ、そういうことか」

 質問の意味を理解して、昔に図書館で調べたことを頭のなかで確かめる。「こいつらは外骨格なんだよ」

「あ、理科でやった」

「そう。骨の代わりっていうか、身体を守るのと支える役割があって、まあ、全身が硬い殻でおおわれてるわけだ。でも成長するにはこれが邪魔になるから。殻の中で成長して、小さくなった外側の古いのを捨てて、中身がやわらかいうちに身体を大きくするんだよ」

 だから脱ぐというよりも、突き破るというほうが正確な表現かもしれない。

「詳しいね、藤村君。」

 感心したように息をもらして、三条は蝉に視線を戻した。蝉は上体を持ち上げて、自分の抜け殻につかまると、下半身を殻から抜いてぶら下がる。

「そう、やわらかいんだ。だからこうやって夜のうちに脱皮して明るくなる前には身体を硬くして、飛べるようになる、らしい」

「へえ……」

 しっとりとした相槌を打って、三条のほっそりとした指先がそっと蝉へ伸びた。

「触らないほうがいい」

 制すると、熱い物に触れたように手が跳ねて、動きを止める。それからゆっくりと彼女の膝の上に落ち着いた。

「それでダメになることもあるから」

「大変なんだね、蝉も……」

 細めた目の上で、まつげがかすかに揺れていた。命がけの成長に対する同情だろうか。

 自分を支えていた殻が自らの成長の邪魔になる。その窮屈さ、息苦しさに耐えかねるように、彼らは危険を伴いながら古くなった殻を脱ぎ捨てる。変わるということはそういうものだ。たぶんそれが……。

 言いたいことがあるような気がするのに、俺たちは口を閉ざして、自分だった物につかまり自分を完成させていく蝉を、ただただ見つめていた。

 すっかり翅も伸び切ったころになって三条が、

「あっ、今って何時?」と、不安そうに辺りを見渡した。

 木々の隙間に見える時計は、暗くてよく見えない。じっと目を凝らすと、十時近い時間を示している。

「十時、かな」

「あ、あの……私もう帰らないと……」

「悪い。時間のこと忘れてた」

 まるで許可を求めるような物言いだった。懐中電灯を集合ポストに入れて、駐輪場から自転車を引き出す。かごが隣の自転車のハンドルに引っかかって、首の骨が折れたように動く。

「急いでるなら、後ろに乗る?」

「あ、ううん。私……二人乗りって苦手だから」

「そう、じゃあ、急ぐか」

 いつもより早足の帰り道で、振り返り振り返り盗み見た三条は、ずっと不安そうな面持ちだった。

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