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      〇


 以前、美術の授業で写生をしているときに、「絵、上手だね」とほめられたことがある。返事をする間もなく「どうしたらそんなに上手に描けるの」と、訊ねられた。そのときにどう答えたかは覚えていないけれど、まずは対象を見ることだろうと思う。

 じっくりと見る。観察をする。形や質感、表情、バランスという、対象の在りようをきちんと見てやらないと、描くことなんて絶対にできない。絵が苦手だという人は、自分の手元ばかり見ているのだろう。

 そしてそれは、絵に限った話ではない。

 目に入っていても見ていないことがたくさんある。日常にありふれたすべてのことに関心を抱いていては、何も手に着かないだろうから、無意識のうちから取捨選択をしているのだ。

 誰かの見落とした紙くずを拾いあげてゴミ箱に捨てる。ちりとりに集めた砂の山をさらさら流した班長が、

「誰が捨てに行く? じゃんけんするか?」と、グーを出す。

「いいわ。捨ててくる」

 何キロも歩くわけでもないのに、どうして誰もが嫌がるのかしら。「ラッキー」という響きを隠さない「ありがとう」を聞き流しながら適当に笑顔を返して、口を結んだゴミ袋を持って教室を出る。

 一階渡り廊下に壁はなく、代わりに背の高い植え込みが並走していて、その裏手にゴミ捨て場がある。雨の日でも捨てに行けるようにという配慮なのか、味気ないデザインの石畳が敷かれている。隙間に萌えた草がこんもりと小さな山脈だった。

 さいわい小雨である。私は急ぐこともなくその植え込みを回って行くと、ちょうどゴミ捨て場の鉄扉をキィと鳴らす雫がいた。

「あ、祥子ちゃん」

 挨拶のかわりに名前を呼ぶ。

「雫、いつもゴミ捨てね」

「まあ……そうかも」

 心許なそうにお腹の前で指を組んで、困ったような顔をしてうつむく。そういう仕草の一々は、この頃私の目に触れるようになった。

 一年生のころも彼女は、率先してゴミ捨て場へと足を運んでいた。班がひとつずれていたから、代わってあげることもできなかった。じゃんけんをすることもなく、命じられることも名乗りをあげることもなく、集めたゴミをちりとりに入れるのと同じくらい自然に、ゴミ袋は雫が捨てに行くのであった。班員たちは見落とされた紙くずのように、その行動に気づくそぶりもない。

 ゴミ袋を適当な場所に投げ込んで、鉄扉を閉めながら、顔だけで振り返る。

「ねえ雫。嫌なら嫌って言わないとダメよ」

「い、嫌ってことはないんだけど……あ、でも今日は、ありがとうって言ってもらったんだよ」

 そんな当たり前のことを、雫はまるで雲間に見えた太陽を喜ぶみたいに言う。「それに私、みんなの役に立てるの、嬉しいし……」

 雫の指がほろり解けて、自分の腕にすがりつく。濡れたブラウスに肩が透けている。世界の中心でも端っこでもない、道端で人目につかずにひっそりと咲く一輪。

 人目につかなかったはずなのに――。

 摘み取ってしまいたい。

 そっと雫の顎に触れる。叱られる子供みたいに身を硬くさせる。戸惑う上目遣いがまっすぐにこちらを見る。今まであった前髪がないからだ。どうして切ってしまったのだろう。私がそうすすめたくせに、何も言わずに切ってしまったことに、納得できない自分がいる。透明な水に、墨汁のついた筆を浸した時のように、黒い色が薄く広がっていく。

 私は息を吐きながら、手折らぬ優しさで彼女の顎をちょいと持ち上げる。

「下を向くの、やめたほうがいいわよ。それに背中を丸めるのもね」

「そんなこと、してるかな」

「たまにね」

 いつもだけれど。

「向いてるかなあ、下」

 不思議そうに首をかしげるのが、たまらなく可愛らしい。

 自分のことは案外見えていないものだ。お腹の前で指を組む癖があることも、きっと彼女は気付いてはいない。そして自分がいかに魅力的であるかも。

「そういえば、私のクラスの人にも聞かれたわ。最近髪を切った三条って友達だよな、って」

「え? だ、誰に?」

「さあ。中田……だったかしら」

「だ、誰……?」

「可愛いって言ってたよ。良かったわね」

「そんな……私べつに……」

 あたふたと両手を振って、その手をゆるゆる下ろして、「祥子ちゃんのおかげだね。ありがとう」

 不器用そうにはにかむ。嬉しさとか、恥ずかしさとか、不安とか期待とか、きっといろんなものをその薄い笑みの内側に隠しているのだろう。

 ぞくりと背筋に寒気が走った。

「身体、冷えてきたかも。風邪引くから中に入ろう」

 平気そうな顔をして雫は肯いた。筋肉量の違いだろうか。日焼けした肌は、温かそうだった。



 週に二回の学習塾は午後八時半に終わる。私は決まって自習室に残って、閉館時間の十時まで自習をすることにしていた。

 自習室の机は前後の壁際に一列ずつと、中央に向かい合わせの机が二列あって、集中できるようにと個別に仕切りがしてあった。確かめたことはないけれど、利用する多くが中学三年、つまりは受験生で、知り合いに会うことはめったにない。

「こんばんは、霧島さん」

 だからそんなふうに親しく声をかけられて、私は背中が反るほど驚いた。

 隣のスペースに座った男の子。彼はちょうど窓を背負う位置にいて、蛍光灯で不自然に明るい室内が半透明に映っている。そこに表情を取り繕う自分がいる。

 空気感の違いのせいか、単純に親しくないせいか、しばらく考えてようやく名前を思い出した。

「ああ、北村」

 雫と同じクラスの人だ。細身の長身でひょろりとしているけれど、物腰の柔らかさのせいか、足元はしっかりとしている印象だ。

「いま考えてなかった?」

 声の端がからかう調子だった。

「そんなことないわよ。合っているか確かめていただけ。人の名前を間違えるのって失礼だから」

「ま、どっちでもいいんだけどね」

 お見通しだぞと言いたげな柔和な笑みを浮かべて、まったく自然に椅子を近付ける。「いつも自習室来てるよね」

「勉強するために塾に来ているから」

「志望校とかもう決めてるの?」

「いいえ。でも勉強をしておけば、どこだって行けるでしょう」

「あ、なるほど。賢い」

 会話はそこまでだった。隣に知り合いがいるせいで、いつもより集中できないまま閉館時間まで、授業の予習と復習をした。係りの人が時刻を告げにきて、私たちは行きがかり上の自然な流れで一緒に帰ることになった。

 ビルを出てからのわずかな時間、暗さに慣れない目が闇を深く、光を鮮やかに映すのが好きだった。でもそれも、すぐにありふれた夜になる。

 細雨が路面を濡らしていた。どこかの道路から水を踏むタイヤの音がしてくる。念のために開いた傘に雨音は聞こえない。

 鞄を右肩にかけて、右手に持った傘のシャフトを左肩に預ける。そして左手で右肘を支える。なんとなく窮屈な気がしたけれど、慣れない北村との帰り道が私を身構えさせているのだろうと自己分析する。

 期末試験のことや、合唱コンクールのこと、夏休みの予定などの当たり障りのない世間話をしながら、適切な距離をとって歩いた。傘の触れ合わないくらいの、知人の距離。

 北村が何気ない仕草で携帯電話を取り出して電源をいれたのが起動画面の光でわかる。数秒をおいてから、「うわっ」と声をあげた。

「ごめん、ちょっと電話」

 別に大した話をしていたわけでもないのに、断りを入れてから電話を耳にそえた。

「あ、もしもし? うん。自習室。電源切ってたから。いや、大丈夫だよ。今から帰るから。うん、うん。えー、友達と一緒。うん、じゃあ」

 電話を切ってポケットにしまってから、照れ隠しだろう笑みを浮かべる。電話から漏れた声は高かった。母親だろうか。やっぱり親と話しているところを同級生に見られるのは決まりが悪そうだ。

「友達と一緒って?」

「え? 違うの?」

 意外そうに丸くした目を、まっすぐに向けてくる。人の目を見ることになんの躊躇いもない。私は前方に視線を逃がす。街灯と信号が層をなして連なっている。

「私たまに思うのよ。友達って、どこからが友達なのかって」

「考えたこともないなあ。でもまあ、学校が一緒ならだいたい友達だと思ってるけど」

 目玉焼きにはしょうゆをかける、というくらい当たり前に言った。きっと彼は本気でそう思っている。考えたこともなかったのではなくて、考えるまでもなかったのだろう。

 天敵のいない環境で育った動物は、人間に対しても無警戒になるという。北村の人当たりは、ちょうどそんな無垢だった。しかしそのわりには頭の軽い、間抜けな印象は与えない。

「今の電話って、親?」

「そう、母親。連絡しないで残ったから心配してたみたい」

「いい人なのね」

「悪い人じゃあないね。ちょっと心配性入ってるけど」

「それは愛されているからよ」

「どんな親だって、そうだろう。家族なんだから」

 やっぱり北村は当然のことのように言う。

 彼はやわらかくてあたたかくて心地良い、愛情という繭に包まれている。やがて巣立つまで彼を守る繭。棘もなければ亀裂もない。

 恵まれている人間がしばしばそう考えるように、それが当然のことだと思っている。きっとそれはその通りで、間違っているはずはない。

「そうね」

 相槌を打って、私は傘の縁を見るふりをする。

 けれどもそれは、あれば良いという物ではない。愛情に絞め殺されることも、発露を間違えることも、往々にしてあるのだから。

「ねえ。家族って、どこからが家族なのかな」

「……一緒に暮らしてたら家族なんじゃないの?」

「そう……ね」

「あ、そうだ。親といえば、霧島さんのお父さん」

「えっ?」

 思わず北村の顔を見る。あいも変わらぬ柔和な笑顔。きらりと光を映した瞳は綺麗だった。この綺麗な、まっすぐな瞳は、きっと私のそれとは違う世界を見ている。この目には私は、どう映っているのだろう。

 夜の底にただようひやりとした空気が、足首をなめていく。

「この間学校で見たけど、PTAやってて、町内会の役員もしてるんだろう。家でその話したら社長やってるって聞いた。なんかもう、色々すごいな」

「……ええ、そうね」

 私は肯きながら、ちゃんと愛想笑いができているだろうかと考えた。



 ひかえめに並ぶ街灯の道。その暗がりにぼんやりと、ろうそくのように灯りをともす家がある。アッパーライトがレンガ調の外壁を照らし上げる、二階建ての立派な家屋。それが霧島の家だった。

 玄関扉の鍵をできるだけゆっくりと回す。抵抗のない重厚な開錠の手触りが指先に伝わって、そっと扉を開ける。

 暗い土間。石材から湧いているみたいに、いつも冷たい空気が漂っている。闇に呑まれる階段と、奥へ続く廊下。正面のドアの磨りガラスから光が漏れていて、まるで洞窟だ。

 信じてもいない神様に祈る気持ちで、足音を忍ばせて奥へと進む。足裏に伝わる板の感触が心地悪い。やがて声が聞こえてくる。両親の話し声。父親の、荒い声。

「そうは言うが、いつも遅いだろ」

 母親の声ははっきりと聞こえないけれど、なだめる調子だった。

 私の話をしているのだということは痛いほどにわかる。あ、本当に頭痛がする。ぐっと歯を噛んで痛みを殺し、並足に戻して「ただいま」と声を投げる。

 ぴたりと両親の声がやんだ。ドアを開けてリビングに顔を出す。

「ただいま」

 改めて挨拶をしながら、二人の様子をうかがう。

 父親は食事中。何時間か前に私が食べたものと同じメニュー。それに瓶のビールがついている。眼鏡の奥から興奮を隠し切れないくせに、こちらを窺う視線をくれる。母親は今しがた動いた感じで台所に立っていた。それとなく手を当てて左の頬を隠す仕草。

 何事もなかったふうを装って父親が咳払いをした。

「遅かったのね」と、母親が父親の言葉を代弁する。

「自習室に寄ってたから。偶然、友達も一緒で」

「そう」

 ちらと母親が父親のほうを見る。彼は威儀を正して、この場合はむしろそれが滑稽であることに本人は気付かぬように言った。

「先にお風呂、入りなさい。まだ食べてるから」

「わかったわ」

 一歩下がってドアを閉める。ゆっくりと吐く息がふるえた。

 大丈夫。いつも通り。

 お風呂に入ってさっぱりしようと決意して、着替えを自室に取りに上がってから浴室に向かった。お湯の温度を二度上げて。たっぷりのシャワーを浴びる。シャワーヘッドを交換してから水の勢いが良くて、ちくちくと皮膚を刺激する。そうして体表にはりついたモノを洗い流せるように、削ぎ落せるように、シャワーを浴び続けた。

 部屋に戻ってしばらくすると、父親がお風呂に入る音がした。私はそれを待ってリビングへ降りた。

 数十畳のフローリング。ドアの正面に食卓があって、左手にキッチン。そして右手には絨毯を敷いたリビング空間。黒いソファがL字型に並んで、大きなテレビが壁際にある。そちらの壁面にはオーディオやビデオ類の、父親の趣味の物が多く並んでいる。

 以前住んでいた家であれば、すっぽりとこのLDKに収まるだろうと思えた。

 母親はソファに座って報道番組を見ていた。明るい髪色をじっと見ていると、ふいに振り返って私に気が付いて、目元に微笑みの皺ができる。やはりそっと、手を添えている。

「ねえ、祥子。案内がきてた夏期講習どうするの。あなた勉強頑張ってるみたいだし…・…」

 つかつかと歩み寄って、母親の手を引きはがす。頬骨のあたりが赤くなっている。

「やめてって言わなきゃ、あの人わからないのよ」

「あの人なんて言い方。それに……」

 何かを言おうとするが、気まずそうに視線をそらす。「ごめんなさいね」

「どうして……」

 そう言ったきり、私のほうも何も言葉にできずに歯噛みする。謝って欲しいんじゃないのに。

 この人に話したってどうしようもない。何度もそうしたように私は諦めて、足音を立てながら自室に戻り、自分のベッドにもぐりこんだ。

 自分の身体を抱きすくめ、背中を丸めて脚を折る。そうして頭まですっぽりと布団に入っていると、ほんの少しだけ安心できた。

 この家は広すぎる。そのくせ声はよく響いた。

 自分の部屋で勉強をしているときや、布団に入った後、お風呂上りに両親の諍う……、いや父親の責め立てる声が、寒々とした空間を伝い聞こえてくることがたびたびあった。彼はお酒が入ると決まって大声を出した。一応の分別のつもりか、私がいる場所ではそんなことはないような態度を取っていた。

 その冬の日も、私の視力が落ちたことが原因で、母親が叱責されていた。宿題をしていた私はそれを切り上げて、牛乳を飲むという口実でリビングへ降りた。だから母親が叩かれているところを目撃したのは、まったくの偶然ではない。

 ドアを開けた一瞬に、平手を振りぬいた父親と、よろめく母親が目に入った。二人が私に気付いたのは、そのすぐ後だった。父親は見られていないと思っているのか、取り繕うような仕草で部屋を出て行った。

「お母さん……、だいじょうぶ?」

 私が訊ねると、母親はそっと私を抱きしめて、あやすように頭を撫でた。ほんの半年の間に、母親は何歳も若返ったようだった。肌が綺麗になって、髪色が明るくなって、良い匂いをさせていた。それがたまらなく寂しかった。

「ごめんね」

 母親は私の頭を撫でながら、ぽつりと言った。何がごめんなのだろう。私にはちっともわからなかった。謝るのはたぶん、私のほうなのに。私がいるせいで、あんな目に遭っても我慢しているのだろうから。

 もやもやとした気持ちを抱えたまま眠れぬ夜を過ごしていたせいで、日付をまたぐ頃になってトイレに起きた。冷たく暗い廊下をひたひたと歩いていくと、両親の寝室から物音が聞こえてきた。また揉めているのだろうか。またひどいことをされているのだろうか。パジャマの襟をぎゅっと握りしめてドアに近付いて私が耳にしたのは、ごく当たり前の夫婦の営みだった。

 私は自分の部屋へ逃げ帰って、布団にくるまったまま、真っ暗闇に落ちて行った。寒くて寒くてたまらなくて、私は私を抱きしめたまま声も涙もなく泣いた。

 外面だけ良くて家では横柄になるずるさも、それにすがるように生きる母親の弱さも、私には我慢できなかった。何よりそう思いながら「やめて」と言えない自分の弱さや、見過ごすずるさが嫌だった。私はすこしでも父親の機嫌を損ねないように、できるだけ手のかからない、しっかりとした子供であろうとした。

 二人が普通の夫婦並みに愛し合っているということが、ひどく堪えた。自分の居場所を、私は見失った気がした。

 あんなものが愛であって良いはずがない。本能に根ざした欲求を満たすことが、愛であって良いはずがない。愛とはもっと美しく純粋で、理性に育まれるべきもので……。

 布団の中で丸くなって、ぎゅっと自分を抱きしめる。髪をちゃんと乾かし忘れたことを思い出したけど、抜け出す気にはなれなかった。

 二人の愛を考えるとき、私は二人を遠く感じる。その愛の延長線上に私はいない。この家に私の居場所はない。自分の部屋さえ自分のものではない。この布団の中で、自分の手触りだが確かなもの。手も足もない、醜い芋虫のような自分だけが私だった。

 私はあんな奴らとは違うんだ。

 やわらかな繭のない私は、そうして殻を作り上げ、ただじっと耐えることしかできなかった。

 翼が欲しい。こんな自分を脱ぎ捨てて、翼を生やしてどこかへ飛んで行きたい。。

 それから――雫に会いたい、と思った。

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