05
「そうだ、お金」
と、三条が財布を出したのは、皿も洗い終えた後である。手伝うことはないかと気にする彼女に「お客さんだから」と断って、皿を洗い終えて机を拭きに戻ると、タイミングを計るような視線を向けてきた。
「いや、別にそんな」
「で、でも……」
大したものを作っていないのにお金を受け取るというのは心苦しく、きっと三条の方でもお金を払わずに食べさせてもらったことを心苦しく思うのだろう。さて、この場合はどうしたら良いのか。お互いに困った顔をしながら、机を拭き続けていると、玄関の開く音がして、「ただいまぁ」と母の声。
ぴくっと反応した三条は、いきなり鉄棒を入れられたように背筋を伸ばしてきょろきょろし始めた。
「もうそんな時間?」
時計を探していたらしい。三条の背負った掛け時計を代わりに読む。
「八時過ぎ。門限?」
「門限とかは特にないんだけど……でもそろそろお母さん、帰ってくるから……」
洗面所でうがいをする音が途切れると、すねた声をさせて母が現れた。
「ただいまって言ってるでしょうが」
顔をドアにむけて返事をする。
「おかえり」
「あの……お邪魔してます」
「あら? お友達? こんばんはぁ」
とっさに作ったよそ行き用の顔と声で言いながら、俺のそばへ寄ってくる。「こんな時間に女の子連れ込んでるのはどっちなの」
「買い物行ったら偶然会ったんだよ。で、流れでご飯に招待しただけ」
「あ……あの、私、もう帰りますので……お邪魔しました」
「ああ、別に怒ってるんじゃないわよ。親御さん心配しないかしらってね」
三条は慌ただしく席を立つと、俺と母にむけて頭を下げた。
「お邪魔しました。あ、えっと……藤村君、傘貸してもらってもいいかな」
「雨はやんでるけど」
母が答え、俺の頭を叩く。「これに送らせるわ」
「ええっ」
抗議と驚きの一言に、母は短く切り返す。
「なに? 夜に女の子一人で歩かせる気?」
「……わかった。三条、送ってく」
母の言った通り雨はあがっていた。
団地の駐輪場に寄って自転車を出す。ご奉仕品と張り紙をされた安売りだった。長く使えるようにギリギリ乗れるサイズを買ってもらった。目論見通りに、まだ十分に使えそうで壊れる気配もないのだが、かごだけが先に寿命をむかえたらしい。細いステンレス製のかごは、接続器の辺りが錆びて折れてしまい、車体が傾くたびにガタガタと動くのだ。
まるで首の皮一枚つながった頭部が、ぐらぐらと揺れ動くよう。そのボロさに三条は、「うわあ……」と、驚いた様子だった。
「それどうしたの?」
「どうしたもこうしたも、古くなったんだよ。乗れるのに買い替えるのはもったいないし」
「取り外したりはしないの」
「母親と同じこと言うなあ」
「み、みんなそう言うと思うけど……」
「俺もそう思うけど」
なんだか情けないみたいで、ハンドルの脇からかごを持って意味もなく動かす。
前輪部分はかろうじて繋がっているが、ステム側は完全に折れていて、ブラケットにひっかかっているだけだ。
捨ててしまえば、きっとすっきりもするだろう。けれどもかごのない自転車は、ひどく歪に感じられた。あるべきものが欠けている感覚。ふにゃふにゃした実体を外側から保証しているものが、このかごのような気がしてしまうのだった。
補助輪みたいに、これがなければ立っていられないような、そんな考えに囚われている。
「あっ……あの……!」
三条の声にはっとする。三条は一歩後ろをついてくるので、そちらを振り返る。
「なに?」
「ありがとうございました。その、夕飯に誘ってくれて」
「大した物も出せないで」
「ううん。いつも一人で食べるから、今日は本当に楽しかった」
通りすぎる車のヘッドライトが彼女の微笑みを明滅させる。楽しかったと言いながら、寂しそうな影がさす。
「親、そんなに忙しいの?」
「えっと……うん。平日は晩ご飯に間に合わないし、会社の付き合いがあったりするからって。あ、お休みの日はちゃんとお母さんが作ってくれるんだけど」
「一緒だな、うちと」
「そう、だね。私、コンビニだけど」
恥じ入るようにうつむいて、しきりにくくったままの髪を指ですく。なんとなくそれが、自分の顔を隠そうとするみたいに見えた。ひょっとすると三条は、いつも髪の中に隠れているのではないかと思った。それはきっと、自転車の体を守るために取り外せないかごと同じで、実体を守る殻の役割。
でも、何のために? 一瞬浮かんだ疑問は、別の疑問にかき消された。
「コンビニって安くないだろ。お金どうしてるの」
「テーブルの上に、いつも千円が置いてあるんだ」
わずかに目を細める。たったそれだけのことで、深い悲しみの色が浮かびあがる。誰もいない真っ暗な部屋のテーブルに、無造作に置かれた折れ曲がった千円札。そんな光景が、ふと頭に浮かんだ。
雨上がりの風が冷たく頬をなでていく。
「あっ、そうだ。お金」
三条が気を取り直して財布を出す。千円を指でつまみ上げながら、「いくらくらいかな」
「いや、ほんと、そんなには……」
「でも……」
しばらく無言のにらみ合いをしながら、どう折り合いをつけるべきかと考えた。
「あー……コンビニ弁当って、だいたい五百円くらいだよな」
「うん、だいたい」
「じゃあさ、また食べに来るか?」
俺の提案がよっぽど意外だったのか、三条はゆっくりとまぶたをもたげた。。
「え?」
「飯、食いに。どう? そしたらそのとき、千円をもらうよ」
きょとんとしたまま、しばらく瞬きだけを繰り返す。ゆっくりと意識を再始動させて「うん」と小さく呟いた。それからあらためて言う。
「うん。行きたい」
「それじゃ、連絡先教えとく。来るときは前もって連絡ちょうだい」
雨の公園にブランコが揺れていた。誰も載せずにキィキィ泣きながら揺れるそれを見ていると、苦い記憶を思い出す。
往復するブランコから見る黄色い境界線。危険防止のその柵を、たった一歩を踏み切るだけで、きっと越えてゆけるだろう。でも俺はどうしてもその一歩が踏み出せなかった。
どうしようもなく怖かった。跳べないことが、そうして大けがをすることが怖かった。心を重くさせた重力を、振り切るだけの勇気がなかったのだ。
成人の儀式のように、黄色い鉄棒を飛び越えて大人になっていく友人が羨まして妬ましくて、そうなれない自分が恨めしかった。跳びたいと思っているくせに、子供の証である鎖にしがみついていた。
重い気持ちがよけいに重くなって、八つ当たりのように傘の水滴を飛ばして、傘立てに放り込む。
外の暗いせいで蛍光灯がいやに眩しい教室は、湿っぽいかび臭さに満たされていた。その湿り気が媒体になって、近くのクラスメイトの体温を感じるような、独特の季節だった。そのうえ期末試験のために教室ではそれぞれに自習をしていて、妙に熱がこもっていた。
中間試験ではほとんどの教科で五十点を前後していた。来年には受験もあるのだと思えば、もっとなんとかしなければと思うけれど、教科書を開き、ノートをぱらぱらとめくってから、どうにも集中できなくて諦めた。それに今さら悪あがきをしたところで、どうせ大した点数なんて取れやしない。そうやって諦めているくせに、やらなければやらないで罪悪感を覚えたりもする。
本当はどうしたいんだろう。いっそのこと、最初から諦めて居眠りができる原田のようになりたい、と横目で見る。大きな身体を机の上に器用にのせて、気持ちよさそうに眠っている。
そうしてうだうだしていると、同じく直前の勉強をしていない北村が持ってきたトランプでジジ抜きをする。二人なのでどちらがジョーカーを持っているか丸わかりになってしまうからだ。
意味もなく上に出ている一枚を引く。揃わない。あ、これがジジか。舌打ちしながらカードを切って、北村に向けてひらく。
「北村は勉強しなくていいの?」
「ジンクスだからね」
「ジンクス?」
「直前にやったところって出ない気がするんだ。それに毎日ちゃんとやってるからさ」
そう言って北村は、端正な顔を得意げにする。色白の細面は、いいとこ育ち柔らかさだ。横幅のせいか原田よりは一回りも小さく見えるが、それでもクラスで二番目に大きい。なんとはなしに、大人という雰囲気を醸し出している。
「えらいなあ」
他人事のように相槌を打つ。いつの間にか北村が手札をすべて消化していて、負けた俺が次のゲームの準備をする。
「偉いだろう?」
と、さらに鼻高々にしたかと思うと、いきなり肩を落とした。「でも勝てないんだよね」
「誰に?」
「霧島さん」
「霧島……?」
「霧島祥子。ほら、美術部の」
男子にしては長い髪をかきあげて、教室の壁を、おそらくその向こうにいるだろ霧島を見ようとする。
「ああ……あいつか」
眼鏡の奥から飛ばされる冷たい眼光を思い出す。
「塾が同じなんだけどさ、もう全然勝てないの」
たまらないという感じに、机に頭をのせた。横を向いたそのこめかみに、ぷくりとにきび。何気なくそれを見ていると、黒目がくるりとこちらを向く。
「そういや藤村って、霧島さんと仲良いんだろ?」
「良かった……かな」
「あの子、昔からああなの?」
ああ、の意味はわからなかったが、昔はもう少し可愛げがあった気がする。泣き虫で人見知りをする内気な子という印象だった。俺が友達と遊びに行くのについて来たがるくせに、混ざって遊ぶのにも抵抗があるような、難しい性格をしていたはずだ。
「まあ……あんなに偉そうな奴じゃ、なかったかな」
「そこがいいんでしょうが」
むっくり体を起こした北村は、目を細めてこちらを見る。「あの冷たい視線、ぞくぞくするよなぁ」
「えー……」
「あれ、わかんない? まあ藤村はまだお子様だもんなあ」
「殴るぞ」
それはコンプレックスだった。前へならえで、前に倣えなくなった屈辱と言ったらない。
伸びて欲しいのに伸びない身長や、取り組みたいのに集中できない勉強。誰に邪魔をされているわけでもないのに、思うようにいかなくてもどかしさに溺れている。重力とか粘度とか、そういう目に見えない抵抗を感じるのはどうしてだろう。
このままではいけないという焦りが、心のやわらかな部分をちくちくと刺激する。そのくせ変わろうとするのは握り潰されたみたいに縮み上がる。
なんだかとても情けない。原田の巨木のような頑強さも、北村の柳のようなしなやかさも、俺は持ち合わせていない。
また平均点と競い合いか、と嫌なことを考えていると、風船が弾けるみたいに通る声がした。「おはよう」と、それが自分に投げかけられたような気がしてドアへ目をやる。野木晴美と目があった。
「あっ、藤村、ひょっとして髪切った? 触っていい?」
言いながら細い髪を躍らせながら、ひょいと近付いてくる。うんもすんも答える前に頭を撫でられた。「わ、ジョリジョリだ」
「切ったっていうか、剃った」
髪を剃るたびにこうして女子に撫でられる。まるで身長の小ささを指摘されているような気がして嬉しくはない。
「うっそ、それ切ってるの? 全然変わってないぞ」
北村も手を伸ばしてくる。
「あ、北村。おはよ」
さっきよりも高い声で、まるで今気付いたかのように挨拶をする。
「おはよう。野木さん」
こちらは普段通り。俺をはさんで二人が会話する。文句を言うのも面倒だった。
しばらくそんな拷問みたいな時間を過ごしていたら、教室の雑音がボリュームを絞るように小さくなって、やがて囁くようなざわめきだけが残った。声も視線も指向性をもって流れている。つられてその一点、教室の出入口へと視線が向かう。
部屋に入ってきたばかりの、見知らぬ女生徒だった自分に向けられた視線に戸惑うように、セミショートの髪がはらはらと動く。
綺麗な小麦色の頬に、さっと赤みがさしている。ひときわ黒い瞳が不安げに揺れ動き、対照的に唇はきゅっと結ばれて動かない。身を守るようにして身体の前で鞄を下げている。
修飾的ではない、最小限の可愛らしさを感じさせた。
「あれ、誰?」
誰かがみんなの疑問を口にした。
「転校生?」
少女は早足で視線と机の隙間をぬって歩き、三条雫の席に座った。ざわめきは一段と大きくなる。居場所がなさそうに肩をすぼめてうつむいて、自分を中心とした騒ぎに小さくなっていた。
無言のうちに誰がいくのだという探り合いをして、結局は比較的三条と親交のある、つまりはどちらかと言えば地味なグループの女子がおそるおそる声をかけた。
「雫?」
「え、なに。失恋?」
三条は緊張した硬い動きで、ぱたぱた手を振った。
「え……縁起でもない……。へん?」
「ううん、可愛い。びっくりした。でもなんで?」
「えっと……ほら、暑くなってくるし……」
誰の意識からも消えていただろう予鈴が鳴ると同時に、テスト用紙を持った教師が現れた。みんなが慌てて各々席に戻る。
テストの間中、三条は注目を浴びていた。突如として見慣れた景色に異物の入り込んだような感覚。そこにあった物の唐突な変化。しとしと降り続く雨と、湿気た紙をシャーペンがひっかく音の中に、ぽつんと彼女の存在が浮かび上がる。
三条はそんな周囲には気付かぬふうで、解き終わったらしい用紙の上に指先をすべらせながら、小さくこくこくと肯いている。きっとこれまでも繰り返していた動作が、はじめて人の目に触れていた。
まったく地味な幼虫や蛹が、ふと気付くと立派な蝶へと生まれ変わったような驚きだ。その驚きの後で、ちっとも変わることのできない自らを恨めしく、変身を遂げた三条を羨ましく思う。
心なしか小さくした背中は自信がなさそうだった。けれども彼女は、境界線の向こうへと跳んだのだ。俺はいつまでもぷらぷら揺れながら、遠ざかるその背中を見つめている。
結局、ブランコからは跳べたんだっけか。跳べなかったんだっけか。
「どうだった、テスト」
放課後、教室の後ろに貼りだされている試験予定表を確認していたら、北村が話しかけてきた。明日は英語がある。苦手だ。
「理科はまあまあ」
「そうなんだ。俺も理科はまあまあだった。勝負する? 負けたらアイスで」
「まあまあにも、まあまあの差があるんだよ……。それに、集中できなかったから」
と、自らの勉強不足の責任を投げ捨てて教室を出る。廊下から見下ろしたグラウンドは水たまりが斑模様を描いている。朝から変わることなく、静かに雨が降り続いていた。
わざわざ教室のドアを閉めた北村が「ああ」と、妙に大人びた調子で相槌を打つ。
「三条か。俺も驚いたなあ」
「お前、同じ小学校だろ? 顔とか見たことないの?」
「いや……そりゃ、見たことはあるよ。ピアノ教室が一緒でね。でも昔はもっと、活発っていうか……男子に混ざっても違和感がないんだ。だから、あんなに可愛かったっけって、驚いてる」
階段を降りながら北村は、ずっと天井を走るパイプを見つめていた。そうして月日を辿って、伸びあがった首筋のぽこりと盛り上がる喉仏を動かした。「そうか、もう三年くらいか……」
「なにが?」
「え? ああ、三条が――」
廊下の向こうから、スーツ姿の男が歩いてくるのが目に入った。たぶん北村も彼に気付いて言葉を切った。教職員ではない。学校の方針か、教職員よりもお客様への挨拶を徹底されている俺たちだった。
「こんにちは」
無意識に声が揃う。「こんにちは」と会釈を返す男の落ち着いた声には、しかし神経質そうな細さがあった。すれ違いざまにちらりと確認する。スーツは上品な光沢がある。銀縁の眼鏡をかけた五十前後の顔つき。見覚えがあった。
廊下からエントランスへと抜けながら、北村はすれ違った大人の背中を振り返る。
「あれ誰だろ。どっかの先生?」
「ほら、あれ。霧島の父親だよ」
「え? 今のが?」
北村が軒端で立ち止まって傘を開く。俺は濡れることを構わないで歩いたまま傘を開いた。
「あの人、PTAか何かやってるだろ。知らない?」
「知らない知らない。うわあ、ちゃんと挨拶しといたほうが良かったかな」
「なんの挨拶だよ」
雨音にまぎれて、北村の露先が俺の傘に触れている。身長差のせいだろう。
「それは、ほら。娘さんと仲良くさせてもらってます……みたいな?」
「仲良かったっけ?」
「これから仲良くなるの」
「あっそ」
「でも何の用事だろ。霧島って親呼び出されるような奴じゃないでしょ」
「あ、ほら、祭りだろ」
「祭り?」
「あのおじさん町内会でも会計か何かやってるみたい。太鼓の練習でも見たよ」
地元神社の夏祭りでは毎年、太鼓山車と傘踊りが町を練り歩くことになっている。時間の都合上、それに参加する生徒は二時間目で早退することになっていた。そのあたりの関係で学校へ来たんだろう、と勝手に納得する。
「へえ、すごいなあ」
北村が振り返って言った。身体を回した勢いで水滴が飛んできて、パララと傘を叩く。
「何が?」
声音だけで不満をあらわしながら訊ねた。
「霧島のお父さん」
「……北村のとこの父親って、どんな人?」
「フツーだよ、フツー。普通のサラリーマンやってる」
嫌いという感じではなく、何か複雑そうにそうぼやいてから、ふっと息をはいた。
俺にはわかることのない感情。それが幸運なのか不運なのかさえわからない。自分の気持ちというものが、俺にはよくわからなかった。




