04
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捨て犬を拾いそこねたことがある。河川敷に捨てられていたそれは、人目に触れそうになかった。どこか人通りのある場所に移すべきなのか、それとも捨てた人が取り戻しにくることを信じて放っておくべきなのか、小学生の俺にはわからなかった。本当は拾って帰り、家で飼ってあげたかったけれど、家では飼えないのだからそれが間違いで、わがままなのだということだけは、いやというほどにわかっていた。
試験勉強にも飽きて……と言うより、集中なんて最初からできなくて、しとしと降り続く雨を見ていたら、そんなことを思い出した。そういえばあの日も、途切れることのない雨音をずっと聞いていた。
「おにいー」
物思いにふけっていると、ダイニングキッチンから妹の声がした。「ごはーん」
そばにあった携帯電話の時計は六時を告げていた。
「お兄ちゃんはご飯じゃないぞー」
返事をしながら部屋を出る。妹は食卓で夕方のニュースを見ていた。しかし退屈しのぎといった感じで眺めているだけだ。だったら試験勉強で忙しい兄の代わりに作ってくれても良いのに。
「今日のごはんは何?」
「何がいい?」
「何がいいって、レパートリーそんなにないじゃん」
「文句言うくらいなら、自分で作ったらどうだ? 女なんだから」
「あー、古いんだー」
と、唇をとがらせる。「女が家事をするなんて、おにいってば古い」
「そういうのは飯の一つでも作れるようになってから言え」
「カップ麺作れるもん。袋麺も」
「君はラーメン屋になるの?」
冷蔵庫を開けてみるが材料はあまりない。「買い物行くか」
玄関を出ると正面には大きな壁がそびえている。縦横規則的に並んだ電灯。ここはいわゆる団地である。中庭と駐車場を囲って同じデザインの白い板が四棟、東西南北に建っている。通路は中庭に面しているので、薄明かりを捕まえた虫かごみたいだ。
妹はぴょんと跳びながら階段を下っていく。追いかける元気もなく遅れて出た。開いた傘の高さは揃っている。
妹の美幸は小学六年生で、学年は二つ違いだったが、四月生まれの彼女とはほとんど一年しか違わない。そのうえ兄を置いて成長期を迎えたせいで、もうどちらが先に生まれたのかもわからない有様だった。
まだ日は沈んでいないはずだが、雲のあるせいですっかり暗い。街灯や車のランプ、窓明かり、信号。そういう街灯りがアスファルトを濡らした水が反射させ、上空では雲が光を閉じ込めるので、むしろいつもより明るいくらい。不思議な夜だった。
濡れることを厭わない子供の無邪気さで、ぴちゃぴちゃと水を蹴って歩く妹に訊ねる。
「ごはん、何がいい?」
「おにいが作ってくれるなら、なんでもいいよ」
さてそれは外面なのだろうか。それとも家という日常を離れて素直になったのか。妹心がわからない。
「何がいいかなあ」
スーパーでできる限り安い食材を買い物かごへ入れていく。じゃがいもは余っていたっけ。冷房がガンガンに効いていて、濡れた身体はすぐに冷たくなる。適当に二、三日分の食材を買い込んでさっさと出た。
「おにい男なんだから全部持ってよ」
荷物を半分持たされてた妹が、傘をさしにくそうに文句を口にする。
「あー、古いんだー」
真似をしたのが気に食わなかったのか蹴られてしまう。よろめいた拍子に踏んだ水たまりのせいで、靴下がぐしょり濡れる。
通りではヘッドライトが絶え間なくすれ違う。街灯の中を雨粒が線になって落ちる。真っ白に光を吐き出すコンビニ。夜の風景の一点に、ふと目が留まる。
自動ドアから出てくる女がいた。外に置かれた傘立てに手を伸ばしかけたまま固まっている。三条雫だった。
「三条?」
声をかけると三条は、きょろきょろと辺りを見る。俺は傘を軽く振りながら近づいていく。
「あ……藤村君」
三条は一度こちらを見てから、気まずそうに地面を見る。
「もしかして盗まれた?」
「え?」
「傘」
「あ、うん。なんでわかったの?」
「そりゃまあ、コンビニから出てきて立ち止まってたらさ」
「おかしいよね、今日は一日雨が降ってるのに」
俺は店内にちらっと目を向ける。
「誰かが間違えただけじゃないか? 三条も適当に持って帰れば?」
「うん、でも……」
三条も店内を振り返る。その背中は、途方に暮れている。
信号が変わったらしく、通行をうながす鋭い電子音。合間には傘を叩く雨の音が、ノイズのように続いている。ふと気付けば妹は、俺の背中に隠れている。
「っていうかこんな時間にどうしたの。習い事?」
声をかけられて、ぴくっと向き直る。警戒心の強い野良みたい。
「ううん。えっと……コンビニめぐり」
「コンビニめぐり?」
「その……晩ご飯を買わないといけないんだけど、近所のコンビニ、飽きちゃったから」
「ああ、なるほど。三条っていつも晩飯、コンビニなの?」
「う、うん、平日は。お父さんもお母さんも、仕事、遅いから……」
ためらいがちな言葉を押しとどめるように、少し強い風が吹いた。傘をさらわれそうになって、骨の折れないように力を逃がす一瞬、ふわりと髪をさらわれた三条の顔を見た。
コンビニから漏れる明かりを背負った顔は、アンニュイそうに傾げられて、風雨にさらされた目を半ば伏せている。その視線の先には何もない。髪を抑えようと添えられた手の不確かさや、湿っぽい仕草は妙に大人びて、梅雨時の夜にひどく似合っていた。
みとれた瞳が寂しげに光を揺らす。
彼女の表情が髪の帳に隠されたあとで俺は言った。
「じゃあ、うちで食う?」
「え?」
「あ」
思わず口にした提案に、自分で戸惑う。
「えっと……」
三条も返事に困ったように口ごもる。俺は買い物袋をすこし高く持ち上げて、言い訳がましく説明する。
「うちもこれからなんだ。俺が作ってるんだけど、三人分も四人分もあんまり変わらないから。まあ、味の保証はできないけど」
「あ……えっと、じゃあ……おじゃま、します」
釣られてうっかり、という感じの返事だった。
三条と妹が相合傘をして、俺がその後ろをついて歩いた。妹はしきりに中学のこと、部活とか授業とか行事のことを訊ねている。兄にはそんなことを一度もきかないくせに。
二人の後ろ姿をぼんやり眺めながら俺は、三条の瞳を思い出す。なんだか一瞬、胸を締め付けられたような気がするのはどうしてだろう。
自分の服の胸のところ掴みながらふと、あの犬は誰かに拾われたのだろうかと考えた。それとも野良として逞しく生きているのだろうか。
飼い犬にせよ野良犬にせよ、捨て犬よりはよほど良い。
焼きあがったお好み焼きにソースを塗って、マヨネーズを網目状にかけて、最後に青のりと鰹節をたっぷりまぶす。
「ほら美幸、できたぞ」
「わあ、あんがと。いただきます」
珍しいことを言って、ぱんっと手を叩いてから食べはじめる。
「つぎ三条の焼くから。二枚目が一番美味しいんだ」
生地をフライパンに流し込んで、端っこで豚肉を焼いていると、妹がぶーぶーとわざとらしい駄々をこねる。
「おにい、いつも美味しいとこどりしてたの?」
「じゃあお前が代わりに焼いてくれるのか?」
「そういう話じゃないでしょうが」
「そういう話なんですよ」
豚肉を生地にのせて、すこし生地を重ねがけして、蓋をして待つ。
「文句があるなら自分で作れよな」
「ま。そんなこと言うと、おにいの洗濯物してあげないんだから」
「それは美幸の仕事だろ。やりなさいよ」
「かわいい妹に、ちょっとでも美味しい物食べさせてあげようって、思わないわけ?」
「かわいいとか自分で言うか?」
しかし実際、かわいいことにはかわいいのである。肉親のひいき目もあるだろうが、母はそれなりに美人だし、妹も近頃それに似てきた。そして悲しいことには、俺も母に似ている。あまり男っぽい顔つきではない。
物心のつく前に死んだ父親のことは、母がたまに話してくれることと、写真に残った姿しか知らない。聞くたび大げさになっていくのでどこまで信じれば良いのかはわからないが、少なくとも今の俺とは全然違って、男らしい感じがした。
蛇口の曲面に映った自分を見つめていることに気が付いて、突然恥ずかしい心持ちがした。逃げるように振り返ると、食卓で三条がくすくすと笑っていた。なんだか冗談みたいに、髪の毛が揺れているのである。なかば意識から消えていたので驚いた。
三条がいることにも、その自然な感じにも驚いた。
「なに笑ってるの」
「なんか、楽しそうだなって。兄妹っていいな」
「いたらいたでうっとうしいだけだよ」
妹がしたり顔でこたえる。同意はするが納得はできない。
「それに藤村君、学校となんか違う」
「そうか?」
「今の藤村君はちょっと子供っぽいかな」
「学校じゃカッコつけてるんだよ、おにいは」
「つけてない」
「おにい?」
と、三条が首をかしげる。
「そ、おにい。お兄ちゃんって言うと、男にちゃん付けするなって。だから。中学にあがった途端だよ。色気づいちゃって」
妹の頭をはたいてからコンロに向かう。生地をひっくり返してしばらく焼いて、じっくり中まで火を通し、それから妹のものと同じようにしあげて三条に出す。
「味の保証はできないけど、どうぞ」
「あ、三条さん、その髪、食べにくくない? 髪留め貸す?」
「あ……ううん。いちおう、いつも持ってるから……」
三条はポケットからヘアゴムを取り出すと、さっと髪をまとめる。彼女を隠していた蓑がとられて、いつも陸上部にいる女が突然そこに現れたようだった。
妹はぺろりと食べ終えた皿を片付け、宿題をすると言って自分の部屋に引っ込んだ。突然二人きりになって、いまさら何を話せばいいのだろうと考えてしまう。親しくない女子と、自分の家で二人。話題がない。部活動のこととかかな。でも共通点ないし。
気まずさをごまかすように、必要もないのにじっとフライパンを見張って、お好み焼きを睨んでいたが、やがて焼きあがってしまうと逃げ道がなくなった。味付けをすませて食卓に運ぶ。
三条の前には手つかずのお好み焼きが残っていた。
「あれ? ダメだった?」
「ううん、そうじゃないけど……あの、せっかくだし……一緒に食べようかな、って」
「ああ、なるほど」
三条の向かい側に座って、自分のものと彼女のものを取り換える。
「さすがに焼きたてのほうが美味いから」
「あ、でも……」
何か言おうとするのを無視してぬるくなったお好み焼きを食べる。三条はすこし考えてから「いただきます」と、憚るようにちいさく頭を下げた。
箸で一口分を切り取って口に運ぶ。唇を左手の指先でちょんとおさえて咀嚼する。ふっくらと鼻とまぶたを広げた。
「……おいしい」
「そう。良かった」
一安心して俺も食事にはいる。「でも待ってくれるんだったら、一緒に食べられるの作れば良かった」
「私こそごめんなさい……冷めたの食べさせちゃって……」
「いや、思ったより温かいよ、これ」
「そ、そう?」
表情の筋肉が不器用そうに崩れて笑顔になる。彼女の気弱さがそのまま現れているような顔。おもねるという単語が頭に浮かんで消えた。どういう意味だか忘れているけれど。