03
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梅雨の晴れ間に、夏の陽のシャワーが心地良く降っていた。
足下にできた丸い影を踏みふみ、余裕を持って待ち合わせ場所である大型書店前のベンチに着く。自動ドアのところにミストシャワーがあってほんのり涼しい。角度によっては虹ができるんじゃないかしらと思いながら眺めていると、昨年のことを思い出す。。
そういえば雫と話すようになったのは、虹がきっかけだった。
雫はちっとも目立たない子で、同じ教室にいるのに私はちっとも気付いていなかった。目には映っていても、意識には反映されない。集団の中にいる不特定の一人。クラスから浮いているわけではなくて、クラスに沈んでいる。それが雫だった。
初夏のある日、体育の時間でプール清掃をすることになった。水泳部がないせいで、毎年一年生が清掃の担当になるのだという。
水を抜いたプールにはゴミが溜まり、ぬるぬるとしていて、気持ち悪いことこの上なかった。そもそも掃除をする気もなく時間を潰している人や、開き直って遊んでいる人がいて、しかしおおかたは友達とおしゃべりをしながら、なんとなく手を動かすという具合だった。
ホースで遊んでいた男子が、その口を絞って霧状に水をまく。細かい水滴が空中に広がって、キラキラと虹をつくる。その光景に意識を吸い寄せられた。
虹と水滴のカーテンのむこうで、汚れることも厭わずにごしごしとプールの壁を洗う女生徒がいた。まだ今ほど長くない髪の奥で、真剣そうな目をした三条雫だった。
周囲の騒ぎなどには目もくれず、周囲の誰も目にとめず、彼女は黙々とブラシで汚れを落としていた。同じ空間にいて、同じことをしているのに、そこだけ冷たく暗さに隈取られて見えた。いつも通る道にふと気付いたときには真っ赤な彼岸花の咲いているような驚き。
輝く水滴よりも、浮かんだ虹よりも、三条雫のいじらしい姿がまぶしくて、私は目を離せなくなった。
みんなに真面目にしろと言う権利があるはずだ。それなのに雫は壁しか見ていなくて、誰かのするべき仕事を請け負っている。そうしていればいつか、誰かが手伝うと思っているのだろうか。
ホースで遊んでいる男子に「掃除するから。遊んでるんだったら貸して」と、ほとんど奪い取って、雫のそばに歩み寄った。
「水、かけるわよ」
声をかけられたのがよほど意外だったのか、すばやく顔をこちらへ向けた。驚いた顔が、遅れてきた髪に隠れる一瞬、例のにへらとした笑みを浮かべた。
「ありがとう」
友達になるということは、そんな些細な一言で十分だった。
懐かしさにひたりながら、携帯電話を確認する。待ち合わせの十二時まではあと七分。私は通りの、雫の家がある方を向く。雫はきっかり五分前に現れる。ひょっとしたら本当はもっと早くに着いていて、けれどもあまり早いのもと時間を潰しているのではないかと疑うほど正確に。
果たして雫は、雑貨屋の植え込みの陰からひょっこりと現れた。そして私がすでに着いていることに気が付くと、小走りに近づいてくる。白いシャツに藍色のスカート。いつもより女の子っぽい服装なのは、美術館に行くからだろうか。裾をひらひらと踊らせて目の前で立ち止まる。一度息をつくように腰を折ってから、ふっと上体を起こす。髪のふわりとふくれた一瞬、はにかむような顔。
「ごめん、待った?」
待ち合わせにはまだ五分あるのに、彼女は決まってそう言った。
「ううん。全然」
これもいつも通りの返事。
私は彼女が駆け寄ってくるその姿を見たくて、いつも早くに着いておく。そういうひそかな楽しみに、彼女は気付いているのだろうか。
うどん屋で昼食をとって、美術館への道をぶらぶら腹ごなしの散歩をしながら歩くと、じんわり汗がにじみ出した。
太陽に透けて見える葉裏が夏模様を描き出す。連日の雨のせいで空気はひどく蒸していた。なおさらむっとする橋を越えると、ビル街のまん中にギラリと輝くステンレスのモニュメントが見えてくる。それが美術館だ。
館内はすでに過剰気味に冷房が入っていて肌寒いくらいだった。余分に持って来ていた上着を雫に貸してあげると、丈のあまった袖をぷらぷらとさせる。
地下一階から地下三階まで、まっすぐに続くエスカレーターで降りる。底へ近付くほど薄暗く、冷えていく。まるで深海に沈むみたいだ。自然と雫と寄り添うように手を取り合った。やわらかな手から伝わるぬくもりが心地良い。
海底には足音と話し声と衣擦れが、遠慮がちに反響している。私は展示物よりもこの雰囲気のほうが好きだった。私たちはよどみに漂う水草のように、しずしずと歩きながら絵画や立体アートを見て回る。
ぽつりと雫が言った。
「芸術ってよくわからないな」
「私もよ」
「でも祥子ちゃん、美術部でしょう?」
「美術部だって、芸術のことに詳しいとは限らないでしょう」
「そうかな……」
「たとえばそうね、さっき宙吊りの椅子があったでしょう」
「あ、うん。あったね」
「あんなの意味がわからないもの。でも美術館にあるくらいなんだから、芸術作品なんでしょうけれど」
「そんなものなの?」
「そんなものよ」
納得できないというふうに、すこし子供っぽい声音で三条は、
「こないだテレビでやってたよ。一面同じ色に塗っただけの絵が、何億円だって」
「最初から価値のある物なんてないわよ。それだけのお金を払って欲しいと思った誰かがいるだけ。まあ、箔はつくんでしょうけど」
「……そうだね」
雫は髪がくすぐったいように頭を振る。はらりと揺れ動く髪のすだれから、深海の色をした瞳がのぞく。水底から空の果てを見上げるようなその目には、この世界はどう映っているのだろう。彼女の目に映る私はどんなだろう。訊いてみたくて、けれども怖くて。
「雫は、この中だったら何が好き?」
なんだかそういう、遠回しな質問になってしまった。
「この中なら……あ、中っていうか、外になるけど……」
ついと顎を上げて、天井を見上げた。むき出しになったなめらかで美しい喉が、なまめかしく動く。「この美術館の形は好きだな。鳥の巣みたい」
「ああ。私も好きよ」
「本当? いいよね、鳥の巣」
「ん? そっちじゃないけど」
「えー……。みんなでおしくらまんじゅうしてるみたいで、いいと思うんだけどな」
「暑そうじゃない? 全部羽毛なのよね」
いつの間にか話はそれたまま進み、私たちは地下二階の展示室にあがって、また同じようにぶらぶらと見て回る。こちらは現代美術がメインらしくて、斬新すぎて何がなにやらわからないものも多い。雫は堅苦しいものよりこちらの方が好みらしく、首をひねったり感心したりしている。
その雫越しに、真っ白な雲を背景に冬枯れた枝が張り巡らされた絵があった。油絵だ。
冷たい冬の底に佇む姿。
寂しい美しさ。いや――私が寂しげなものに、美を見出しているだけかしら。
古文でいうところの「あはれ」の趣。
雫の視線を感じ、私は動き出す。心が留守になっていたところを見られたのが恥ずかしい気がして、私は無理に意識を別のところへ持っていく。
「芸術といえば、雫のクラスは合唱コンクール、何を歌うの?」
「えっと……春に、だったかな……」
言葉は尻すぼみに消えていく。雫の瞳がいっそう遠くへ向けられる。心ここにあらずという様子で、私に手をひかれるまま歩いた。彼女の重さが心地良い。
「雫? どうしたの?」
「えっと……」
言い淀んで目をそらす。
「言えないこと?」
「そうじゃないけど……。その、祥子ちゃんって藤村君のこと知ってる?」
しかめそうになる表情筋をなだめて、なんとか微笑みをうかべる。
「一応は。小学校、同じだし」
「藤村君って優しいな、って」
眉毛が私の抵抗をふりきって、きゅっと寄ってしまう。
「優しい? あいつが?」
「や、野球部のだよ?」
「大丈夫。そこは勘違いしてないから」
雫が不思議そうに首をかしげた。その仕草がまた可愛くて、彼女に優しいなんて褒めさせた藤村が憎らしい。
「じゃあ、どういう人なの?」
「そうね……いい奴だけど、それだけ。中身がないのよ、あいつ」
「そ、そうかな?」
「まあ、付き合いがあるならそのうちわかるわ」
そうなるまで仲良くなって欲しくはないけれど、という言葉は吐息に逃がす。「優しいふりしてるだけ。欺瞞よ、あれは」
「欺瞞?」
さっき見た、冬枯れた木の絵が脳裏に浮かぶ。冷房ではない寒気を思い出す。
意識的に気持ちを切り替える。
「それにしても、どうして藤村が優しい、なんてことになったの?」
私の問いかけに、雫はちょっとの間考えるふうにした。
「……偶然ね、私の悪口を聞いちゃって。それで、励ましてくれたから」
「悪口? 誰に?」
問いかける口調は、まったく意図せずに鋭くなった。
「さ、さあ? 顔は見てないけど、声は野木さんたちだと思う」
「野木、ねえ……」
バレー部の子だったか。廊下ですれ違うときは、いつも友達と横に広がっている。顔のつくりは悪くはないけれど、勝気な態度と声の大きさ、笑い方にすこし慎みが足りていない。おおかたはクラスの中心人物だ。
二年一組の教室を想像してみる。雫が目の敵にされるほど人と衝突することは考えられないけれど、そもそもそういう子を見下しそうな野木だった。
やっぱり雫はもうすこし、堂々としたほうが良いと思う。
外に出て、太陽の眩しさを思い出す。
根っからインドア派の私には、刺すような夏の陽射しはきびしい。暑さの盛りは過ぎているだろうに、湿度はなお上昇しているらしかった。小麦色をした雫はなんともないようだけれど、不健康に白い私の肌はすぐに音をあげる。
駅前まで歩いたところで、家電量販店に逃げ込んだ。
上層階に入っている衣料店のテナントでウィンドウショッピングをする。トンネルにこだまするように、楽しげな人の声が絶えず行き交い、無数の足音、店内BGMや放送が溢れかえっている。そんな音の洪水も、ほんの数秒のうちには頭の中でボリュームが絞られてしまい、届くのは雫の声だけになる。買いもしない物を見て回るのは美術館と同じなのに、まるで違う雰囲気だ。
何軒目かの洋服屋で、雫に似合いそうな麦わら帽子を見つけた。
「ねえ雫。ちょっとかぶってみて」
「祥子ちゃんさっきから私のばっかり」
「そうかしら」
そうだよ、と言いながら、雫は目深に帽子をかぶる。丸いつばをちょいと上げて、前髪を左右にわける。ちょっと困ったような眉毛が現れた。
「うん。似合う」
自分の見立ての正しさに、一人得意になる。
「そうかなあ」
雫は店に置いてある鏡をのぞいて、顔の角度をあれこれ変えてから、値札を確認して棚に返す。「帽子はあんまり使わないから」
「そうね」
肯きながら少し残念な気持ちになった。似合っていたのに。
それから地下の文具売り場へおりる。売り場が広く、品揃えが豊富であるが、実用性を考えると首をかしげたくなる物も多い。そういうものはたいていゴテゴテとしている。私が鉛筆の並びを見ていると、雫が「そういえば芯、なくなりそうなんだ」と、シャーペンの芯を取りに行った。Bを使っているらしい。
「HBじゃないんだ」
「うん。疲れちゃうから」
レジの列に並んでそんな話をしながら、鞄をまさぐっていた雫の手が、突然動きをはやめる。気になってのぞきこむ。タオル、携帯電話、ペットボトル、なぜかある筆箱。
「どうしたの?」
「どうしよう。財布落としたみたい」
雫の前髪がはらりと揺れて、不安に潤んだ愛玩動物のような瞳で見上げる。
その視線。頼りにされていることが無性に嬉しくて、ぞくりとする。その顔を、肌を、隠れているすべてのものを見てみたい。
その興奮を悟られないように、平静の声で訊ねた。
「財布?」
「うん、どうしよう……」
レジが空いて、順番の回ってきた。とりあえず私が代わりに払っておいた。
「いつなくしたの?」
「えっと……お昼食べたときは、あったはずだから……」
昼食のうどん屋で、支払いですこし揉めた。付き合ってもらうのだから私が払うと言ったのを、雫がそれは悪いと言って譲らなかった。それで大きいのを私が出して、小銭を受け取ったのだった。
「そのあと財布は使った?」
「使ってない」
「鞄を開けたのは?」
「え……あ、美術館でお手洗い寄ったときかな」
「そう。とりあえず、うどん屋から行きましょう」
そちらの方が近いはずだった。
雫の早足に引っ張られて炎天下を歩くと汗が浮かんだ。雫のシャツからも肌色が透けている。それなのに繋いだ手は冷たい。
「そんなに入ってたの?」
足を動かしたまま訊ねる。
「え?」
「財布の中」
「あ……ううん……。お金もだけど、それよりストラップがね……」
「ストラップ?」
言われて思い返してみれば、たしかに犬のストラップがついていたような気がする。ずいぶんと色あせて、所々が剥げていて、ずいぶんと年季のはいった犬のキャラクターだ。「そう。なら、見つけないとね」
うどん屋の引き戸を開けると、人のよさそうな丸い顔のおばさんが「いらっしゃぁい」と、すこし間延びした声で言った。
「あ、あの……」
雫はおばさんに歩み寄って、不安に震える声で訊ねた。「昼頃来たんですけど、えっと……あの、財布、忘れてませんでしたか?」
「財布? ああ、財布ね、財布」
おばさんは肯きながら奥へ消え、すぐに財布を持って戻ってきた。「これ?」と差し出した財布はベージュ色の二つ折り。手足の長い犬のキャラクターのストラップがついている。記憶にある雫の物だ。
「これ、これです」
「そ、良かった。もう忘れないようにね」
手渡されるときに、ぷらりとストラップが揺れた。人形は色褪せているのに、財布と繋がる赤い紐は真新しかった。
お礼を言って店を出る。傾いだ太陽は、いくらかやわらかい陽射しだった。汗をかいたおかげで夕風が心地良い。
「良かったわね」
「うん。ごめんなさい、迷惑かけて……」
汗と向かい風にわけられた前髪から、つややかな額が見えていた。しゅんとした表情で俯く雫は、なんだか捨てられた子犬みたいで、抱きしめてあげたくなる。
「ううん。迷惑なんてなにも……」
そっと指先で、彼女の前髪を流すように撫でる。「ところで、やっぱり髪、切ったほうがいいわよ」