02
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ひげなんて本当に生えるのか?
トイレの手洗い場についている鏡に映した自分のあごは、それはもうつるんと綺麗なものだった。ひげが生えたところで、生まれつきの女顔には似合わない気もするが、しかし生えていないのは、なんとなく格好が悪い。野球を始めたときから坊主にして女に間違われることはなくなったけど、まだ全然足りていない。
「おーい藤村ぁ、置いてくぞー」
のんびりした低い声が飛んでくる。先に出ようとした原田信彦が出入口で足を止めていた。
「悪い、昨日のがさ」
とっさに出した声は高い。それもやっぱり恥ずかしかった。
同級生はどんどんと身長を伸ばし始める中で、気付けば一番のチビになっていた。早足で追いついた原田の、あごくらいの高さしかない。中学二年の夏で一五〇センチしかないのは、三月生まれというハンデを考えてもいささか頼りない。
原田信彦だって昔は俺と同じくらいだったくせに、いつの間にかにょきにょき伸び、近頃では筋肉までついてきた。すると当時から変わらないのんびりした性格は、ノロマから落ち着きへと名前を変えた。
原田は穏やかな低音を、喉のあたりから響かせる。
「あー、デッドボールか」
「軟式で助かった」
「あごだっけ。痛かった?」
「あんまり」
見上げた口元には生え揃ってはいないひげがあった。さっと暗い影がさす。いつからだろう。友人のこと見上げながら、羞恥心を抱くようになったのは。
胸をかきむしりたい気持ちをごまかすために廊下の喧騒に目を向ける。五時間目を終えた休み時間、二年のホームルーム教室が並ぶ二階廊下はいつも以上に騒がしかった。
「なんでこんなに盛り上がってるの」
「え? あー、あれだろ。合唱コンクール」
「ああ、あれか……」
九月中旬に行われる学校行事の一環で、全クラス参加の合唱コンクールが行われる。練習は期末試験の後からだったが、この後のロングホームルームで曲決めをする予定だった。
「どうせ揉めるんだろうなあ」
原田は面倒くさそうに天井を見上げた。「しかも委員長、あれだろ。えっと……」
「三条?」
「そいつそいつ。まとまらねえんだろうなあ……」
「だーかーらー、ミスチルでいいじゃん」
「去年やったもん」
「だったら違う曲にしたらいいだろ」
「そういう曲で優勝したところ、ないしなあ」
「教師受けだったら、全部英語の歌詞とかのほうがいいんじゃない?」
「英語だったら何がいいっての」
原田の危惧していた通りに、話し合いはちっともまとまらなかった。
恒例行事といえども去年はまだ初めてで、どこも担任教師の意向でなあなあのうちに決まってしまったが、今年は二度目である。リベンジに燃える者があれば、面倒は嫌だなと思う者もあり、好き好きに主張する奴らがいれば、そもそも音痴だからと合唱に疑問を持っている奴までいる。それぞれの思惑が入り混じって、話し合いは盛り上がりに反してまるで進まないのである。
黒板前では学級委員長の三条雫がおろおろとしていた。開始数分のうちに司会進行もまとめ役もこなせなくなり、ただせっせと、好き勝手にあげられる曲名を黒板に書くばかり。綺麗だけれど小さい字から、彼女が気の弱い女子であることが伝わってくる。
春先、そういう性格につけこまれ、いつの間にか学級委員長を押し付けられた。誰かが何気なく「三条、やれば?」と言った。ただそれだけのことだったのに、三条は逃げ場をなくして、ああして困り果てている。
担任教師は生徒に任せきりで、脚を組んで座ったまま静観していた。
決まったことと言えば、クラスの伴奏者が北村洋介になったことくらい。話し合いが始まって早々に三条が、
「えっと……伴奏は北村君、でいいかな」
「いいよ。去年もやったし」
と、その短い会話で終わったものである。
壇上で三条は「あの」とか「その」とか、なんとか仕切ろうとするのだが、その声は小さく誰の耳にも届かない。そのうちに風船がしぼむように元気をなくしていく。
顔の大部分は陰になって表情が読めなかったが、かろうじて見える口元は何かを堪えるように引き結ばれている。頼りなく丸まった背中。外ハネした髪が揺れるのは、救いを求めるかのように教室を見回すからだろう。
心の奥底をチリと焦がす罪悪感。
「っていうかさー」
大きくないわりに良く通る声で、バレー部の野木晴美が言った。「三条、ちゃんと進めてよ」
「えっ……」
突然名前をあげられ、注目を集めてしまった三条は、戸惑うように声を出した。「えっと……じゃあ、多数決で……」
「候補多すぎじゃない?」
「そ、れなら、いくつかに絞って……」
「って言われても、どんなのか知らない曲多いし」
「そもそも多数決で決めるの?」
教室のあちこちから文句が出る。渦巻いていたそれぞれの意識が、三条一人に向かって。彼女はみるみる縮こまってしまう。
同じような光景を春先にも見た。最初のホームルームで、委員と係を決める話し合いが行われた。「三条やれば?」と、どこかからあがった声に、地味な少女が戸惑っているうちに、面倒は片付いたという無言の圧力が教室中に漂った。それを跳ね除けるだけの力も、かわすずるさも彼女にはなかったようだった。
自分だって彼女に面倒を押し付けたうちの一人であるはずなのに、今さら申し訳なさと所在のない憤りを覚える。黒い靄が胸の中に立ち込めて、息苦しさになる。
「あの……」
と、言いながら立ち上がる。なんとなく顔の高さに上げてしまった片手が恥ずかしい。「ひょっとしたらなんだけど、三条、具合悪い?」
「え……?」
「なんかだるそうだし。先生、俺も昨日のデッドボール当たったところ痛いんで、保健室行っていいですか」
あごをさすって見せながら訊ねた。
「ん、行ってこい。それじゃ、代わりの司会……あー、指揮はまだ決まってなかったな。じゃあ北村、お前やれ」
「サボりはいかんなぁ」と言いながらも、保健室の先生は俺たちを追い返さなかった。通常授業ではないと知っているからだろうか。体裁を気にしてあごの調子を鏡で確かめ、ベッドの端に座り、しゅんとうなだれる三条に声をかける。
「種目なに? 短距離?」
「え……? あ、うん。短距離。そんなに速くはないけど……」
「いつもボール、悪いな」
「そんな。しかたないよ、グラウンド狭いから」
「三条って投げるの上手いよな。女なのに手投げじゃないし。やってた?」
「えっと……小学校のころは友達とたまに……」
言葉尻が小さくなって、三条は顔をそらせた。
練習場所の関係で外野を超えたボールが陸上部の方へ転がっていくことがよくあった。近くへ転がると、三条はわざわざ拾いに走ってくれるのである。俺が一方的にお礼を言うだけで、会話をしたことさえなかった。
練習の合間に目の端でとらえる彼女の走る姿は、どこか幼げな興奮があふれ、夕陽に良く映える横顔が印象的で、走ることが心底楽しそうだった。だから、ということではないだろうが、二年にあがった最初のころは、委員長を押し付けられ三条雫と、その陸上部員が同一人物であるとは気づいていなかった。
ベッドに腰をおろした三条は、自分の人差し指の関節を逆の手の親指でさすり続けていた。そうしていなければ落ち着かないというふうだ。やはり、同一人物には思えない。
会話が途切れたのを機会にして、三条が前髪の隙間からこちらをうかがう。
「あ、あの……どうして……」
助けてくれたの、という声にならなかった言葉が伝わる。
「……どうしてだろうな」
確かに彼女に面倒を押し付けた罪悪感はあったが、それが理由だろうか。すまないと思う気持ちはあるけれど、俺が責任を取るべきことでもない。けれども明らかに困り果てた同級生を見捨てることよりは、手助けするほうが正しいと思った。
「俺も苦手なんだ、ああいう感じ。盛り上がってるけど、そこに取り残された奴がいる、みたいなの」
「あ、うん。私も苦手」
三条のまとう空気が、ほうと和らいだ。「お腹が痛くなるんだ」
「俺はどっちかっていうと、胸が苦しい感じかな。だからまあ、当然だろ。困ってる人がいたら、見捨てるのも後味悪いしさ」
途切れがちの言葉の応酬のせいか、ちらと時計を見ると思いがけず時間が経っていた。もう何分かで六時間目も終わる。
「で、そのお腹痛いの、治ったか?」
「あ……うん、おかげさまで」
「じゃあ戻るか」
先生にお礼を言って保健室を出る。一番近い階段を上がり、渡り廊下からまっすぐに伸びる廊下を歩く。特別教室を過ぎたあたりで、人の声が聞こえてきた。
西館中央の階段……いや、その隣のトイレから。歩みを進めるほどに、声は言葉になっていく。
「――よね、ミノムシ」
虫の話? いや、女子の声だ。授業中にトイレで虫の話なんてしないだろう。
「ああやって困ってるふりしてれば、誰か助けてくれるって思ってんのよね」
「あー、言えてる。藤村もバカだからなあ」
なんとなく察して隣を見れば、居づらそうにうつむく三条があった。なるほど彼女の髪は長くて、先のほうで外ハネしている。すこし色素が薄いのか、光を受けると焦げ茶っぽい色をしていて、たしかにミノムシのようだった。
「ミノムシ、さ」
「え?」
「小学校のとき、一回だけ見たんだ。学校裏の公園で」
「……ここ、結構都会だよ」
「だから俺もびっくりした。ブロック塀に糸つけてくっ付いてた。雪の降ってるすげえ寒い日で。あいつら、ああやって冬越すんだなーって。土の中とか、木の中とか、暖かい場所なんていくらでもあるのに。だから、なんて言うか、悪くないと思う。ミノムシ」
しばらくきょとんとしていた三条は、やわらかい声で言った。
「ありがとう」
「虫の話しただけだろ、俺」